実作講座「演劇 似て非なるもの」は「人と人が出会うところから始まる」と考えています。
でも今は人と接触することに、どこか恐れや不安を互いに感じてしまうような状況が続いています。
家族や職場の人たち、ごく限られた人にしか会わない生活をしている人も多いのではないでしょうか。
そんな中、みんな、どんなことを感じたり考えたりして暮らしてるのかなと思ってみたりします。
実際に会ってはいなくても、いろんな場所に信頼する人たちが居て、それぞれ日々の暮らしがある。
そのことを灯火のように感じています。
(下記、前文のはずが長くなってしまいました。先に本文をお読みください!)!
猿渡さんは現在、美学校スタジオで行っている「日々の公演2」に観客役として参加してくださっています。観客役?と言っても何のことだか分からないかもしれません。最初の「日々の公演」は「その日集まった人たちと、その場でつくり、その日の夜に公演します。ということを9日間」行ったものでした。台本は同じものでしたが、終わってみれば全く違うカタチの9つの作品が立ち上がりました。と同時に底の底ではちゃんと水源は繋がっていた。今回はコロナ禍ということもあり、同じやり方ではなく、演者(役)も観客(役)も同じメンバーで月に1回か2回集まって全7回行うということにしました。これは当然だけど、前回とはかなり違う。僕は以前、結果=作品こそが大事だと思っていました。けれども過程こそが大切だし面白いと思うにようになってきました。何なら作品だって、取り敢えずの結果であって、それも大きな過程の真っ最中のように思えます。だから「日々の公演」というよりも「日々の稽古」の方が近いかもしれません。しかし、やはり取り敢えずの結果であっても、それをきちんと見つめてくれる人、観客はそこに居なければならない。観客が観ていることで演者はそこにきちんと居ることが出来る。そして演者がそこに居ることで、観客もまたそこに居ることが出来る。どちらもがいてはじめて上演は成り立つのです。だからこれはそれぞれの役をいま引き受けているに過ぎません。ひとつ想定外だったのは演者役が12名も集まったけれど、観客役は2名しか集まらなかったことです。その貴重なひとりが猿渡さんです。猿渡さんは控えめで物静かな人で、しかもこの不均衡な人数の中で、最初はあまり発言をされませんでした。いまも決して多弁な人ではないけれど、上演後の全員での話し合いでは、作者も演出家も想像もしていなかったような、でも突き詰めて考えれば、確かにそうだと思えるようなことを語ってくれたりします。動いていないようで、内側は大きく動いている。動き続けている。きちんと出来ていない。きちんと生ききれていないと思うのならば、それはその人の中にきちんと生ききることがちゃんともうあるからです。そうでないなら最初からそんなことは想像することも出来ません。自分が抱えてるのはゴミの山なのか宝の山なのか、それはゴミでもなければ宝でもない。でもゴミにすることも宝にすることも出来る。それは意思なのかその人の持つ倫理なのか。猿渡さんがあの場所に集まってくれた人たちの行いを見てくれる人で本当に良かった。きっと宝というものは自分ひとりだけで抱えることは出来ないものなのです。一緒に抱えてくれる相手が生きている人なのか死んでいる人なのか、それとも人ではないのかに関わらず。猿渡さんの書いてくれた文章を読んだら涙が滲んで来て、ついつい長く書いてしまいました。あの場所と時間がきちんと祝福されたような気がしたからかもしれません。
(生西康典)
「すなおになる練習」 猿渡直美
一度文章を書いて、結局取り繕ったことばかり、もういい加減うんざりなので、ほんとうに書きたいことだけ書きます。(冒頭からおこっていてすみません…)
言葉を柔らかくすると何故か泣いてしまうので、硬い文体で書かせていただきます…(すみません)
人に会いたい、私の知らないところで、みんなどうやって生きているのか知りたいという気持ちで、「日々の公演2」に観客役として参加しています。
演劇に詳しくなく、何の関係性もなく申し込んだので、埋没しつつも何か気づきがあればいいなと思っていたのですが、名前を呼ばれ、ただ、いますね、というかんじで、自然に接していただいて、なんかやさしいなあと思うし、こうして言葉にする機会をいただいて、本当に有難いと思います。そして、人と向き合うと決めたら、やっぱり自分自身と向き合わないといけないんだなと感じています。
コロナ禍に入り、総じて人と会うことが少なくなり、内省する時間が増え、「時間感覚が曖昧になる」という言葉をよく耳にするようになりました。本当にそうだと思います。けれど私は、その感覚をもっと前から感じています。理由も分かっていて、全然大した理由ではなく、ただ、時間を進めたくないという気持ちが心の奥のほうにあり、それが今という時間感覚を曖昧にさせている感じです。
人が生きていく上で、切り離すことができない「記憶」というものについて、みんな様々な形で思考を巡らせていると思います。私もそのうちの一人ですが、学生時代に終わりきれなかったことを続けていたというただの惰性で、何か立派な作品を作っているわけではなく、ただ“見る”ということに焦点を当てた単純作業を続けていました。
なぜ続けていたのかというと、社会に出る前に、歩いたそばから過去になってしまうこととか、忘れることにも気づかない時間を過ごしていることとかを考えてしまったせいで、わからないまま進めないと思ってしまったからです。まだちゃんと見ることができていない、ごみのような山が傍にあったのでそれを抱えて社会に出ました。
そうしているうちに、会社にいる間や人と会っている間は問題ないのですが、一人になってその作業を続けていると高低差に沈むようになります。時間を進めていく人をただ眺める。逃げて、逃げ疲れて向き合うということを繰り返す。気づくことがある度に泣く。それが終わったときの気持ちも、あ、なんか終わった気がする、という全く達成感のないもので、友人に会いに行って元気を取り戻し、ひらこう、かくさないでみよう、となり、終わらせるための編集作業を悶々と続けている感じです。
この世界を知るには、子どものときのような気持ちに立ち返る必要がありますよね。これはなんだろう、と手でさわって、においを嗅いで、じっと見て、口の中に入れて味はするのか確かめたり。そういう素直さで世界を見つめ直す。
大人になるにつれて、それができなくなる。今までの経験則に従って、わざわざ体を動かさなくても、なんとなく頭で結果を予想して、無意識のうちに知り直す機会を遠ざける。やってみなければ、ほんとうは何もわからないのに。(もちろん社会との関係もとても大事です。)
今参加している空間では、そういうことが行われている気がします。ここはどんな場所なんだと、声を出し、音を出し、空気を動かして、返ってきた何かに反応する、感じとる。同じ場にいる人と目線を交わし、声を聞き、(あなたはだれですか)と問いかける。(どんな人として、今ここにいるのですか)と知ろうとする。そして自分にも問いかける。(私はどんな人として、今ここにいるんだろう)
一度代役として入らせていただいただけで、キャパオーバーでおなかを痛めた私としては、何度もその場に立つ人を見るだけでも、心臓が縮まるし、ほとんど暗闇に手を伸ばすような行為を自分の体を使って行っている人たちは、めちゃくちゃ勇気があるし、ほんとうに素直な感覚を持っているのだと思います。
今、進行中の作品について、あまり書かないほうがいいと思いつつも、書いちゃいますけど。個人の繊細な記憶を、安全性が保たれない距離で声に出して会話をする。これってかなり酷なことだな、と思っていましたが、前回のみなさんの話し合いで「暗くなる/暗くなりたいわけじゃない」という言葉を聞いて、確かに、光のほうをみていなかったと思いました。この世界観から当たり前のように滲み出てしまう深さまで潜らないとみえない光。そう思うと、終盤のぽつぽつと間を置いた台詞が、最後の台詞に向かって、明けていくような感じがします。
そして、個人的な作業と重ねてしまうと、そもそも記憶を話し合うことが希望。人と話し、人と同じ時間を過ごすこと、そのものが希望。生きていくすべての記憶を抱えることはできない。生きていくことは一人で抱えきれない。だから人と話す。共有する。忘れてしまっても、何かが残る。何かの断片が残る。形を変えても残っていく。それを人は思い出すことができる。だれかの記憶を思い出すことができる。そうして抱えきれないものを手放していくんだと思いました。
たぶん私は全部一人で見ようとしていました。実際ずっと、水平線をみつめ、波の動きをみつめ、白い月をみつめ、雪が降って白くなるのをみつめ、島がみえるのをみつめ、何度もでてくる白い人の影をみつめ。ほんとうにきりのないことをしていた。全部を見ることはできない。もう十分わかった。
時間もとまらない。過去の自分をみている間に、どんどん今が進んでいって、追いつかない。こんだけ時間をかけてみんな自然と受け入れていることがやっと分かった。私もそうやって生きてきたはずなのに。今更急いでも仕方がないので、不恰好ながら終わらせて、ゆっくり追いつこうと思います。
ほとんど停滞に等しい遅遅とした時間に付き合ってくれた友人達には感謝しかないし、私が時間をすすめようと思わなければ出会えなかった人たちと、同じ場を共有できることが、ほんとうにふしぎで、うれしく、ありがたいことだと思います。
のこりの日々の公演も、体調管理に気をつけつつ、みていきたいと思います。
(2022年2月23日)
猿渡直美 Naomi Saruwatari
女子美術大学 デザイン・工芸学科 VD専攻 卒
主に装丁や書籍等のエディトリアル全般の
業務を行うデザイン事務所勤務。
在宅勤務継続中。
photo by Ji Woon Kim
リレーエッセイ『いま、どこにいる?』
第1回 植野隆司「トゥギャザー」
第2回 鈴木健太「交差点」
第3回 黒木洋平「もっと引き籠る」
第4回 武本拓也「小さなものの食卓」
第5回 冨田学「面白かった本について」
第6回 竹尾宇加「新しい日常」
第7回 ドルニオク綾乃「集えない」
第8回 冨岡葵「Letter」
第9回 岡野乃里子「体を出たら窓から入る」
第10回 奧山順市「17.5mmフィルムの構造」
第11回 千房けん輔「中間地点」
第12回 佐竹真紀「お引っ越し」
第13回 山下宏洋「休業明け、歌舞伎町に映画を観に行った。」
第14回 小駒豪「いい暮らし」
第15回 伊藤敏「鹿児島にいます」
第16回 コロスケ「無意義の時間」
第17回 嶺川貴子「空から」
第18回 加戸寛子「YouTubeクリエイターは考える」
第19回 いしわためぐみ「OK空白」
第20回 井戸田裕「時代」
第21回 Aokid「青春」
第22回 佐藤香織「ここにいます」
第23回 池田野歩「なにも考えない」
第24回 皆藤将「声量のチューニングに慣れない」
第25回 寺澤亜彩加「魂の行く末」
第26回 しのっぺん「歩きながら」
第27回 野田茂生「よくわからないなにかを求めて」
第28回 野口泉「Oの部屋」
第29回 瀧澤綾音「ここにいること」
第30回 鈴木宏彰「「演劇」を観に出掛ける理由。」
第31回 福留麻里「東京の土を踏む」
第32回 山口創司「場所の色」
第33回 加藤道行「自分の中に石を投げる。」
第34回 市村柚芽「花」
第35回 赤岩裕副「此処という場所」
第36回 原田淳子「似て非なる、狼煙をあげよ」
第37回 石垣真琴「どんな気持ちだって素手で受け止めてやる」
▷授業日:週替わりで月曜日と金曜日 19:00〜22:00(6月から開講)
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。