実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ リレーエッセイ『いま、どこにいる?』第36回 原田淳子




実作講座「演劇 似て非なるもの」は「人と人が出会うところから始まる」と考えています。
でも今は人と接触することに、どこか恐れや不安を互いに感じてしまうような状況が続いています。
家族や職場の人たち、ごく限られた人にしか会わない生活をしている人も多いのではないでしょうか。
そんな中、みんな、どんなことを感じたり考えたりして暮らしてるのかなと思ってみたりします。
実際に会ってはいなくても、いろんな場所に信頼する人たちが居て、それぞれ日々の暮らしがある。
そのことを灯火のように感じています。

原田さんにはいつかこのリレーエッセイに参加して頂きたいと思いながら、ずっと声をかけそびれていました。つい先日、原田さんが路地と人で企画されたひとり芝居についてSNSで書かれている文章を読んで、これは絶対にお願いしないといけないと言葉に背中を押されて、ようやく声をかけることが出来ました。書いてくださった文章を読んで息を呑みました。こういうことが言葉に出来るのは凄い。畏れを持ちつつ惹かれてしまう。原田さん、有難うございます。

(生西康典)


「似て非なる、狼煙をあげよ」 原田淳子

似て非なる、けれど近しいもの
生西さんと初めて会ったのがいつだったのか思い出せないけれど、
生西さんとはいつもどこかですれ違う
それはたいてい、仄かな薄暗いみち
なにかのライヴの帰りだったり、国立の庭劇場だったり、なんだか同じ匂いに惹かれる動物のように、通りみちが重なる
きっと似て非なる貉どうしなのだとおもう
世界に散在するものたちの呼吸が重なるその一瞬、わたしの世界は仄かに照らされる 

指折り数えて二年、幾つもの禍の波をくぐり、幾つかのものが濾過されていった
初めの波で嘆いていた事柄も、三つめの波のころには諦めも摩耗して、五つめの波のころには時間という朧げな船に乗り、日常はあっけらかんとした孤独がふわふわする大海になった
虚無は、まるい
クラムボンのように笑い、繭のように白く、鞘のように風に揺れる
禍がはじまったころ、失ったと嘆いた関係、事柄は以前から無かったものであり、単に潜在的な不安が顕在化してそのコントラストを強めただけであることに気が付く
漠然と景色が変わったようにみえるが、未曾有の患難にくるまれてやってきた最大の発見は、免許証を泣きながら取得したことでもマスクで窒息しそうになったことでもなく、わたしの外に在った.
それは老齢の猫がよく喋るようになったこと

齢十四歳の彼は、朝から晩まで、あらゆる声で話しかけてくる
あれこれ要求する
食べて寝ているだけなのに、なぜあなたはそこまで威張れるのか
布団に潜り込んできては腕枕を強要するくせに、すぐに飽きてわたしの髪を踏んで出てゆく
わたしは憤慨しながらも、堂々とした我儘ぶりに惚れ惚れして、猫にかしづく
わたしは海月のようにまっしろな波に揺られているうちに、気が付くと猫と話ができるようになっていた
老齢の猫の声色がこんなにも豊かであったことに驚く
その色に感情、要望、宣言が含まれていることに、いままでなぜ気が付かなかったのか
彼の声は聴こえていても、わたしはその響きのなかにいなかったのだろう
もしかしたらまるい虚無の時間のなかで、わたしは繭や鞘や貝殻のように響く空間を持つ、ひとつの生き物になったのかもしれない
わたしが彼の声を聴きはじめると、彼にはわたしの行動が声を出す前に伝わるようになった
発音される前に、わたしの意識は身体から漏れ、声なき声として彼に伝わっている
そのことを発見した朝、わたしは言葉の替わりに真の声を与えられたような気がした
これが声か、heurēka
あなた⇔わたしという存在を示す声、ふたつの生のあいだの響きは美しい
きっとこれがaestheticsの起源なのね 

文明を揺るがす事柄が起きると社会が揺れる
社会が揺れると分裂が起きる
それを分断というということは、3.11で目の当たりにし、デジャヴのように繰り返されるのを目の当たりにした
3.11の時にもおもったけれど、わたしは人はもっと分断されたらいいとおもっている
不謹慎と言われかねないが、しかし、分断以前にそこにあった”絆”はわたしたちを幸せにするものだっただろうか?
持たざる異端者を互いに監視しあい、排除する絆ではなかったか?
その反動として、わたしは個々、与えられた”家”ではなく、そのひとの本来の性質の繭や、鞘を持てたらいいとおもう個人として思考し、選択し、愛し、戸惑い、知恵を交換し合う動物になれたらいい
ひとりひとりの動物たちが響きあうとき、絆ではない波のような”縁”というものが浮かびあがるようにおもう
その波のはじまりに、わたしには隣人の猫の声が在った

ことしの11月に足の指を骨折して、更にわたしは動けない、まぁるい虚無を含んだ生き物になった
ちょうどその折、因島から村上大樹さんの著書『家賃0円ハウス』が届いた
村上さんは因島でチイサイカイシャという小さな出版社を運営している、アナーキストであり、画家であり、わたしの初の漫画単行本『水の岬』を出版してくれた酔狂な発行人でもある
彼は2020年、自活自営することで家賃、食費、光熱費がかからないシェアハウス、0円ハウスというプロジェクトを立ちあげ、クラウドファンドをはじめた
土地というのは誰のものではないことで、誰のものでもある
土地にまとわりつく所有権や税というみえない貨幣を引きはがし、誰もがその人らしく暮らすための土台作り、その実践みたいなもの
わたしは遠い地の柔らかなその運動に、じぶんの理想をささやかに託している
そこには躍動する希望だけなく、希望を打ちのめす困難への覚悟があることも察して.
村上さん本人も躁鬱を繰り返し、イデオロギーではなく、快楽を中心においているところも安心する
野菜は育てるが菜食主義でもなく、肉を狩るところから肉喰も営みに取り入れようとしているところ、命を育て、命を狩り、食べることに向き合っているところをもっとも信頼している
クラウドファウンドの返礼品として届いた村上さんの著書には、ユクスキュルが唱えた環世界のダニの生態について触れ、ジル・ドゥルーズの“待ち構える”という動態を自身の運動に重ね、引用されていた
目がないダニは、全身で光を捉え、嗅覚、温度感覚、触覚が優れている
森のなかで木の枝にぶら下がり、ただひたすら獣を待ち構える
数年もその待つ状態は続き、仮死状態のようにもみえるが、獣の熱を察知すると、すばやく獣に飛び移り血を吸うという
“待ち構える”という能でも受でもない動態を知ったとき、わたしはじぶんの身を待ち構える動物に重ねて慰みを得た

待ち構えると言うのは不思議な動態だ
一瞬と同時に永遠の時間がある
それは祈りに似ている

動けず、仮死状態であっても、まだわたしは死んではいない
ダニのように、熱を待ち構える
光を待ち構える

朝、わたしは中央線の駅の階段を這い上がる動物
目の前の階段は、ダニがしがみつく枝
通勤ラッシュの中野駅で、怒涛の人間の塊を避けて、壁に寄りかかりながら、見あげると、そこにはわたしのように杖をついて、足を震わせて、手摺りにもたれかかりながらも、這いあがろうとしているものたちがいた
似て非なる動物たちが、階段を這い上がっていた
おはよう、世界

這い上がっているあいだ、急ぐ人が目の前を通り過ぎるのを待っているあいだ、
わたしは階段のうえの光を待ち構える
声が満ちてくるのを待つ
漏れだした声が狼煙となるのを、その交信の色を、眼を閉じて想像する

そして似て非なる、遠くの誰かの狼煙を探している

(2021年12月5日)

原田淳子 Junko Harada

漫画家、画家、司書
http://www.haradakikaku.org
2019年に漫画単行本『水の岬』(チイサイカイシャ)発刊
2009年~2020年「路地と人」運営メンバー。
2022年1月に個展開催予定です

リレーエッセイ『いま、どこにいる?』

第1回 植野隆司「トゥギャザー」
第2回 鈴木健太「交差点」
第3回 黒木洋平「もっと引き籠る」
第4回 武本拓也「小さなものの食卓」
第5回 冨田学「面白かった本について」
第6回 竹尾宇加「新しい日常」
第7回 ドルニオク綾乃「集えない」
第8回 冨岡葵「Letter」
第9回 岡野乃里子「体を出たら窓から入る」
第10回 奧山順市「17.5mmフィルムの構造」
第11回 千房けん輔「中間地点」
第12回 佐竹真紀「お引っ越し」
第13回 山下宏洋「休業明け、歌舞伎町に映画を観に行った。」
第14回 小駒豪「いい暮らし」
第15回 伊藤敏「鹿児島にいます」
第16回 コロスケ「無意義の時間」
第17回 嶺川貴子「空から」
第18回 加戸寛子「YouTubeクリエイターは考える」
第19回 いしわためぐみ「OK空白」
第20回 井戸田裕「時代」
第21回 Aokid「青春」
第22回 佐藤香織「ここにいます」
第23回 池田野歩「なにも考えない」
第24回 皆藤将「声量のチューニングに慣れない」
第25回 寺澤亜彩加「魂の行く末」
第26回 しのっぺん「歩きながら」
第27回 野田茂生「よくわからないなにかを求めて」
第28回 野口泉「Oの部屋」
第29回 瀧澤綾音「ここにいること」
第30回 鈴木宏彰「「演劇」を観に出掛ける理由。」
第31回 福留麻里「東京の土を踏む」
第32回 山口創司「場所の色」
第33回 加藤道行「自分の中に石を投げる。」
第34回 市村柚芽「花」
第35回 赤岩裕副「此処という場所」


実作講座「演劇 似て非なるもの」 生西康典

▷授業日:週替わりで月曜日と金曜日 19:00〜22:00(6月から開講)
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。