実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ リレーエッセイ『いま、どこにいる?』第27回 野田茂生


実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ

リレーエッセイ『いま、どこにいる?』第27回 野田茂生


「筆者が催したライブ打ち上げ後にサンヘドリンのメンバーとローズガーデンホテルにて」
(左から吉田達也さん、筆者、灰野敬二さん、ナスノミツルさん)


実作講座「演劇 似て非なるもの」は「人と人が出会うところから始まる」と考えています。
でも今は人と接触することに、どこか恐れや不安を互いに感じてしまうような状況が続いています。
家族や職場の人たち、ごく限られた人にしか会わない生活をしている人も多いのではないでしょうか。
そんな中、みんな、どんなことを感じたり考えたりして暮らしてるのかなと思ってみたりします。
実際に会ってはいなくても、いろんな場所に信頼する人たちが居て、それぞれ日々の暮らしがある。
そのことを灯火のように感じています。

今週のリレーエッセイはジャズ大衆舎の野田茂生さんです。
広島県福山市で先鋭的なジャズやロックからクラシックまで様々な音楽ライブを催されています。

僕がまだ10代の頃、4つ年長の野田さんを通じて何の予備知識もないままいろんな人たちのライブに行きました。クリスチャン・マークレイ、デビッド・モス、スティーブ・レイシー、デレク・ベイリー、鈴木昭男、アルタード・ステイツ、高橋悠治、等々。
当時の自分は何も分からないなりに面白がって大いに刺激を受けたり、何が何だかさっぱりでポカーンとしてたと思います。
その時は自分が特に何も受け取っていないように思っていても、30年以上も前に聴いた、確か銀山町の電車通り沿いにあった地下1階のライブハウスの階段に座って聴いたレイシーのサックスがとても澄んでいて綺麗な音だったなぁとなどと思い出されてくるから不思議です。同じ場所で初めて兼好くんのドラムも聴きました。見るからにヤバそうな坊主頭の男が弾くノイジーなギターに、ひたすら同じリフを弾き続けるベース、その中で高らかに歌い上げるようなドラム。出会ってはいけないものに会ってしまった!というような衝撃と同時にその格好良さに痺れた当時の感覚は自分の中で冷凍保存されたみたいに今も消えないままです。そして遅れて届いて来た月明かりに照らされたようなレイシーの音。それらが裏表で今の自分を形作っている一部だと思います。野田さん、ジョン・ゾーンと兼好くんのデュオ観たかったね。才能と言えば、首くくり栲象さんという老アクショニストが「自分のやっていることは才能とは何の関係もない」とキッパリと言われていたのが忘れられません。むしろ、今はそういう人に僕は凄みを感じています。

(生西康典)


「よくわからないなにかを求めて」 野田茂生

生西康典くんのことを知ったのは、広島の街なかの貸スタジオでのライブでのことだった。1985年、彼が高校2年生、私が大学3年生の頃だった。いま思えば、現在の生西くんは東京でアート関係の仕事をしているのであろうが地方都市在住の私には「よくわからないなにか」を、その時点で体現していた。生西くんたち高校生が企画したのだろう、ライブハウスを借りる金の無い故か、そのライブは「シークレット・ライブ」と銘打って、客を入れてはいけないことになっているスタジオに、半ばこっそりとしかしいささか公然と客を入れて催されていた。当時の広島はなにかと鷹揚だった。その時の生西くんは、どこで集めたのか一斗缶をいくつも積み上げ、それを棒切れで叩いたり、放り投げたり、あるいは観ている客の中になだれ込んだりしていた。共演していたのは、これまたその後深いつきあいになる兼好健(かねよしけん)くんがドラムを叩いていた。他にもギターやベースがいたのかもしれないが、それは覚えていない。私は、兼好くんの切れ味鋭いドラムに感心しつつも、生西くんには「よくわからないなにか」を感じてはいた。(その後のつきあいで、山塚アイや遠藤ミチロウの影響があったのだろうと想像する。)

実はその時点でその彼の名前は知らなかった。どこで言葉を交わすようになったのか、覚えていないが、その後、私たちはしょっちゅう会って話をするようになった。それは、スペース宝船(当リレーエッセイ伊藤敏さんの文章を参照されたし)だったり、平和公園を見下ろす彼の住むマンションだったり、私のアパートの一室であったりした。他にも友人たちがいたことも少なくないはずだが、私の記憶に残るのは、私と一対一で話をする彼だった。私が帰ろうとすると、「もう帰るんですか」としばしば引き留められた。そして、長々と音楽や文学や美術のことについて話をするのだった。生西くんは私にとって、彼にとってもそうだろうが、美意識を共有する友であった。私は、彼に阿部薫やデレク・ベイリーといったフリージャズを紹介し、彼は、私にキング・クリムゾンやハナタラシ(山塚アイ)等のロック文脈の文化をおしえてくれた。ランボーや中也、それから、クレーや岡本太郎、なんかもよく話題に上ったように思う。もっとも、彼も私も方法的・分析的な視点が弱く、これがカッコいい、とか、これはダメだ、とか、その程度のことばかり言っていたように思う。しかし、いっぱしの審美家ではあった。

彼は、時々ライブに出演していたが、ミュージシャンではなかった。表現を具現化するための技術の錬磨に当時はあまり意識的ではなかった。同時に様式化・定型化された表現にもすぐ飽きていた。当時はハードコア・パンクが全盛であったが、彼はその動きには距離を置き冷笑的でさえあったのは、とてもよく理解できる。ハードコアのワンパターンな表現に耐えられなかったのだろう。一方では、当時は知る人ぞ知る存在であったアルトサックスの阿部薫に心酔し、カセットテープに録った『彗星パルティータ』を深夜の平和公園をふらつきながら聴いていた。私も、『彗星パルティータ』をひととおり聴かないと一日が始まらない入れ込みようであった。また、山塚アイや遠藤ミチロウの“音楽”というより生き様というか方法というか、そんなものには強い関心を抱いていた。彼は何かを表現する者になりたかったのだろうが、何をしていいのか五里霧中の状態だったのだろう。ひょっとしたらいまもそれは変わらないのかもしれないが。

当時の私は、「広島リアルジャズ集団」というグループでフリージャズのライブをオーガナイズしていた。平たく言えば、興行屋である。客を集めるのは苦戦続きで、いつも持ち出してばかりいた。私は、表現者になることははじめから諦めていた。そんな才能が無いことは自分自身がよく知っていたからだ。だから、生西くんのような悩みは無かった。大学を卒業して2年浪人して高校の教師になり故郷の福山に帰った。教師としての仕事にもちろんやり甲斐や喜びはある。しかし、ライブのそれとはまったく別の種類のものではあった。

福山で数年を経る頃になって、またむしょうにライブをやりたくなった。生きていることの実感・喜びを感じる場や時間、私にとってライブ以上のものはなかった。この街でひとりで始めて、時々に協力者はあらわれるが、基本的にはいまもひとりでやっている。はじめは「正解本舗」と名乗り世紀の変わり目に「ジャズ大衆舎」と改称した。最初は、アヴァンギャルドなジャズ/ロックが主体だったが、いつからかクラシックも企画するようになった。やっていて気づいたのは、大都市なら違うかもしれないが、私がかつて住んでいた広島やいま住んでいる福山のような地方都市では、お客さんの数は街の人口規模とか文化的成熟度とかとあんまり関係が無いということだ。催す人間の係わる範囲、つまり友だちの数ということなのだ。あとは情熱だな。情熱さえあれば、アイディアや工夫、それに協力者も出てくるものだ。これも立派な創造行為だと勝手に思っている。何回やったか長く頓着しなかったが、年をとっていささか懐古的な気分になったのか、数年前から数えてみたくなった。するとその時点で70回に達しており、今年で100回を超えた。だからって何か特別なことをしたわけではないが、ひそかに喜んだ。

今年は、「コロナ禍」などと巷間ではしきりに恐れられているが、科学的根拠が乏しいので、私は一切信じていない。だが、マスクだのソーシャルディスタンスだの「けっ!」と思いながら、社会的に抹殺されない程度にその「ふり」をしている。そうは言っても、7つのライブをキャンセルせざるを得なくなった。それでも、ドリンク代だけで会場を貸してくれる小さなカフェを見つけ10人限定のライブを続けて催した。今年はいまのところ5つやって、11月12月も5つ計画している。二人の子どものうち、一人は大学2年、もう一人は高校3年、金がかかる。隣の家に住んでいる両親も高齢で手がかかるようになってきた。いつまで出来るかわからない。だからいま、少々無理してでもやりたい。

生西くんの名前に再会したのは、福山出身で親しくさせてもらっている風変わりなチェロ弾き坂本弘道さんのウェブサイトだった。「美術家」とか「演出家」と書かれている。東京で長く活動して著名な人とも一緒に仕事をしているみたいだから、いまの彼の「作品」がどのようなものであるのか、私には想像もつかない。高校生の頃の生西くんは、メシも食わずにやせっぽちで不健康、そしてあまりにも審美的であり、彼から「生活」というものを感じることは無かった。これは早く死ぬに違いない、と思っていたのに、50歳を過ぎていまもって「よくわからないなにか」を追究しながら、この世に生存しているのは、かなりの驚異だ。貧乏には違いないだろうが。一方で最初のライブで共演していた兼好くんは、風の便りに亡くなったと聞いた。驚きはしなかった。そうならざるを得ない生き様だったから。最後に会ってから30年も経っているから、お互いに風貌も変わってしまっているかもしれないが、本質の部分は、出会ったころと何ら変わってないんじゃないかな、と想像する。

私は、ライブ、が好きだ。一義的には、ジャズやロックの生演奏みたいな意味になるのだろうが、私は、これを「生きているという状態」と捉えておきたい。生西くんとその周囲の仲間たちも、「よくわからないなにか」を求めて、きっと「ライブ」という状態を生きていることだろう。

(2020年10月30日)

野田茂生 Noda Shigeo

1964年生まれ、広島県福山市在住、高校教諭、カトリック信徒

リレーエッセイ『いま、どこにいる?』

第1回 植野隆司「トゥギャザー」
第2回 鈴木健太「交差点」
第3回 黒木洋平「もっと引き籠る」
第4回 武本拓也「小さなものの食卓」
第5回 冨田学「面白かった本について」
第6回 竹尾宇加「新しい日常」
第7回 ドルニオク綾乃「集えない」
第8回 冨岡葵「Letter」
第9回 岡野乃里子「体を出たら窓から入る」
第10回 奧山順市「17.5mmフィルムの構造」
第11回 千房けん輔「中間地点」
第12回 佐竹真紀「お引っ越し」
第13回 山下宏洋「休業明け、歌舞伎町に映画を観に行った。」
第14回 小駒豪「いい暮らし」
第15回 伊藤敏「鹿児島にいます」
第16回 コロスケ「無意義の時間」
第17回 嶺川貴子「空から」
第18回 加戸寛子「YouTubeクリエイターは考える」
第19回 いしわためぐみ「OK空白」
第20回 井戸田裕「時代」
第21回 Aokid「青春」
第22回 佐藤香織「ここにいます」
第23回 池田野歩「なにも考えない」
第24回 皆藤将「声量のチューニングに慣れない」
第25回 寺澤亜彩加「魂の行く末」
第26回 しのっぺん「歩きながら」

▷授業日:週替わりで月曜日と金曜日 19:00〜22:00(6月から開講)
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。