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実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ リレーエッセイ『いま、どこにいる?』第19回 いしわためぐみ

実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ リレーエッセイ『いま、どこにいる?』第19回 いしわためぐみ


実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ

リレーエッセイ 『いま、どこにいる?』第19回 いしわためぐみ


「2018年習作」いしわためぐみ


実作講座「演劇 似て非なるもの」は「人と人が出会うところから始まる」と考えています。
でも今は人と接触することに、どこか恐れや不安を互いに感じてしまうような状況が続いています。
家族や職場の人たち、ごく限られた人にしか会わない生活をしている人も多いのではないでしょうか。
そんな中、みんな、どんなことを感じたり考えたりして暮らしてるのかなと思ってみたりします。
実際に会ってはいなくても、いろんな場所に信頼する人たちが居て、それぞれ日々の暮らしがある。
そのことを灯火のように感じています。

今週のリレーエッセイは、いしわためぐみさんです。
僕はめぐみさんがつくるものが好きです。
平面や立体の作品、そして日々の営為。普通は作品とは呼ばれないかもしれないけど、ごはんをつくり、家をリノベーションし、子どものために何かをつくり、、等等。彼女にとって作品と生活は当たり前のように地続の創作活動で、めぐみさんを見ていると「生きてることはつくること」なんだと自然体で教えてもらえるようです。昨年の末に頂いた自家製の柚子胡椒、ピリッと香ばしくて美味しいんだ、とっても。

(生西康典)


 

「OK空白」  いしわためぐみ

生西さんにきっかけをいただいて、3月以降わたしは何を感じて考えてきたのだろうなーという問いを頭の隅に置きながら、しばらく生活していました。いま、思うことは、まだ、死にたくない。

子どもが小さいということを抜きにしても、わたしはまだまだ「もういつ死んでも悔いはない」と言い切れる状態にはないということがはっきりわかってきました。そもそもいつか言い切れる時が来るのかどうかもわかりませんが、これは、わたしが自分を生ききれていない証拠だと感じます。
コロナ禍のようないつもと違う状況に身を置いたとき、人はほんとうに欲するものが見え易くなるのだなぁと痛感し、なんだかんだ小さな気になることを変えたり、始めたり、捨てたりしてきた半年間でした。それにもかかわらず、自分を生ききれていないと感じるわたし。変えきれず、始めきれず、捨てきれず、納得いくと言える所まではまだ届いていないことを思い知らされています。

いつでもやりたいことが山ほどあるので不思議に思いますが、わたしの生ききり問題においては、何をするかや、何かを成し遂げるみたいなことはそれほど重要ではなくて、その何かをどのようにやるか、というところにのみ鍵があるように思います。そして、その鍵で開けた扉の向こうにあってほしいのは、多分、すごく素朴なもの。だけど、とてつもなく重要に思えるもの。なんというか、日々の暮らしの中にある、今にも過ぎ去り続ける瞬間瞬間の自分に、それがどんな自分であろうともいつも、ほんとうに、納得がいってる状態、みたいなもの。OKわたし、みたいなもの。なのかなぁと思います。

きのうはこれを書き始めて、中途半端な自分を痛感し、少し落ち込んでしまいました。生ききるとはなんなのか。今の自分に出来る限りのことをするしかないのだけど。そう思いながら寝ました。

今日。
ねこの喧嘩で目が覚める。起きて、ねこチェック。1匹しかいない、2匹は外。毛が散乱、少し拾う。きのう捨てないで乾かしておいたコンタクトレンズがキレイに固まってた。ムスメに見せたい気持ち。珈琲を淹れて飲みながら、出版社にメール返信など6:07ちょっと早いが今日は張り切っていた。洗濯機を回し、ごはんを炊きながら、金継ぎ作業。時間が余りムスメのカトラリーケース作り。7:20ムスメが3歳だけど0歳役を演じながら起きてきた。0歳役なのにタマゴを食べたいと言うので、変なのと思いながら炒り卵を作る。一緒にごはん。魔法と煙で悪者をやっつけながら、保育園の準備手伝い。一緒に日本昔話を観つつ洗濯物干し。8:40プリンセス役のムスメが靴を履く間に、王子様として玄関を履き掃除。庭で見つけた花をプレゼントしてくれた。保育園バスが来てムスメとバイバイ。もらった花を飾り9:00作業着に着替えて畑へ。大根と苺のことが気になるが暑すぎ。10:00過ぎにシャワーを浴びて一休み。ご近所に持っていくデザートを作りながら、夜ごはんの下拵えをしながらドライトマト作りながら焼豚を仕込んでいたら、パートナーが起きてきた。片付け、2回目の洗濯をしてたらお昼。お昼はパートナーと一緒に簡単に作り、済ます。書きかけの文章を見せ感想をいただき、意見交換。まさか、というところが伝わっていなかったり、重要と思っていたところが要らないようだったりして不思議。そして心配。生西さんのことを想う。その間、ムスメのカトラリーケース縫い終わる。数日前スタジオにこもり熱中症になったパートナーが隣の山へ車中仕事に出かける。文章を再考していたら15:00焦る。作業台に向かい、今度は言葉のない世界へ。集中。16:00頃?うまくいかず集中切れて夜ごはんのパン仕込む。あっ!と思って戻って作業。しばらく後あっ!と思ってやりかけのパン終わらせてから作業。16:50タイムリミットのアラームと同時にパートナー帰宅。ムスメも保育園バスに乗って帰宅。

ここに書いてきた、出来事と出来事の間のようなところ。ねこの喧嘩で目が覚めてから、ねこチェックするまでの間の空白。ねこの毛を拾ってから、固まったコンタクトレンズ発見までの空白。これといって取り上げられることもなく、思い出されることもない、なんにもないみたいなこの空白に、わたしの通奏低音みたいなものが流れているような気がする。
日々の小さな出来事への取り組み全てがこの空白に、見えない結果を落とし続ける。それが積み重なって作られていくわたしの通奏低音みたいなものに、いつでも納得できる自分をつくりたいと思う。それが、どんな音であっても。

もう20年近く前、認知症の祖母の介護をしていた時期、祖母はわたしが出掛けようとするときまって不安になり「外は危ないから出かけるな」と懇願しました。テレビばかり観ていると、こういうことは多いようです。たしかに、おばあちゃんの言う通り、外に出たら車が走ってるし、何かの事件に巻き込まれる可能性だってある。だけど、泣いて止めるおばあちゃんの手を振り切ってでも、わたしは、危険に向かって外へ出かけていくことを選ぶんだ。と、強く想ったのを今でも覚えています。
コロナウイルス感染症の確かな情報がよくわからない今、少しこわいです。
それでも、外に一歩踏み出す時の覚悟のようなものは、今のわたしにとって、おばあちゃんを残して家を出た時とは比にならないくらい微かなものに感じられます。
わたしたちはもともとみんな致死率100%で、この世界にはいつも、生に対する死、光に対する闇や影のようなものが一緒に在るからこそ、ここにキラキラも存在するんだろうなと思っています。

(2020年8月23日)

 

 

いしわためぐみ Megumi Ishiwata

山梨県大月市にある山に囲まれた小さな集落で、音楽家のパートナーと3歳の娘、3匹のねこたちと共に暮らしています。
http://megumishiwata.wix.com/works

 

撮影:藤田むい

 

 

リレーエッセイ『いま、どこにいる?』

第1回 植野隆司「トゥギャザー」
第2回 鈴木健太「交差点」
第3回 黒木洋平「もっと引き籠る」
第4回 武本拓也「小さなものの食卓」
第5回 冨田学「面白かった本について」
第6回 竹尾宇加「新しい日常」
第7回 ドルニオク綾乃「集えない」
第8回 冨岡葵「Letter」
第9回 岡野乃里子「体を出たら窓から入る」
第10回 奧山順市「17.5mmフィルムの構造」
第11回 千房けん輔「中間地点」
第12回 佐竹真紀「お引っ越し」
第13回 山下宏洋「休業明け、歌舞伎町に映画を観に行った。」
第14回 小駒豪「いい暮らし」
第15回 伊藤敏「鹿児島にいます」
第16回 コロスケ「無意義の時間」
第17回 嶺川貴子「空から」
第18回 加戸寛子「YouTubeクリエイターは考える」

 

 

▷授業日:毎週金曜日 19:30〜22:30
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。