実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ リレーエッセイ『いま、どこにいる?』第28回 野口泉


実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ

リレーエッセイ『いま、どこにいる?』第28回 野口泉



実作講座「演劇 似て非なるもの」は「人と人が出会うところから始まる」と考えています。
でも今は人と接触することに、どこか恐れや不安を互いに感じてしまうような状況が続いています。
家族や職場の人たち、ごく限られた人にしか会わない生活をしている人も多いのではないでしょうか。
そんな中、みんな、どんなことを感じたり考えたりして暮らしてるのかなと思ってみたりします。
実際に会ってはいなくても、いろんな場所に信頼する人たちが居て、それぞれ日々の暮らしがある。
そのことを灯火のように感じています。

今週のリレーエッセイはオイリュトミストの野口泉さんです。
ちょうど3年前の今頃、泉さんが構成・演出・出演をされたオイリュトミー公演『おしごとは呼吸すること』を観に行きました。
泉さん自身が経験されたとても切実な切っ掛けから生まれた公演で、是非、ご本人の文章を読んで頂けたらと思いますが、そこにはこんなことが書かれていました。

「働かざるもの食うべからず」という言葉がありますが、例えば赤ちゃんや高齢者、また病気にかかっている人は働くことができません。ですが、彼らの存在は他の誰かにとってかけがえのないものです。仕事とはお金を稼ぐことだけではありません。「存在する」こと、そのこと自体が人間の「しごと」と言えるのではないでしょうか。
私たちが無意識に行っている呼吸のなかには大きな秘密があるのだと思います。生命のいとなみを縦糸とするならば、呼吸という横糸で、社会と個人、時代と個人、また自然環境と個人とはつながっています。

『おしごとは呼吸すること』の当日パンフレットには、リーディングで参加された甲田益也子さんや灰野敬二さんが舞台上で読まれたテキストが掲載されていて、僕は一時期、その言葉たちをお守りのようにずっと鞄に入れて持ち歩いていました。
言葉は時に人を傷つける凶器にもなるけれど、本来は人を繋げ守る、そういうものであって欲しいと願います。

(生西康典)


「Oの部屋」 野口泉

オイリュトミーという踊りを始めてから二十年くらいの間で、今年の四月ほど稽古のない月はなかった。
二千年代に入ってい大きなインパクトがあったのはやはり東日本大震災だ。その時のことを思い返してみると、放射能飛散に関する正確な情報が出ないための不安はあったものの、今回のコロナのような感染症ではなかったので、集まっていけないわけではなかった。電力消費の問題と、津波の被害で多くの人が亡くなったため、開催を自粛するイベントがあったような記憶がある。むしろ死の恐怖に支配され引きこもってしまいそうな時ほど稽古に出かけていくことが自分にとっては必要だった。

当時はテレワークの存在もなかったので、ホームから落ちそうになりながら殺伐とした空気の中で来ない電車を皆待っていた。あまりにも電車が来ない上、ホーム上の人たちの雰囲気と表情がいたたまれなくて一週間くらいアルバイトを休んだところ首になったりもした。

四月の自粛期間のことを思い返してみると、パソコンで話題の感染症を扱ったパニック映画を次々と見たり、陽だまりの中で枝毛を切ったりしていただけの日もあった。
太陽の光で毛先の傷んだ部分が光って見えることに「おお、すごい!」と驚いたり、なんとも贅沢な時間を過ごしたと思う。世間は混乱の極みにあるというのに、これは人生のボーナスステージなのか、と思わざるをえないほど静かな日々。空白のような時間。

一ヶ月の間、自粛し通した人も多かったと思うが、私個人はというとそうでもなく、それなりの対策をして散歩や買い物に行っていた。また、仕事として関わっている幼児教育機関は、感染症対策を講じつつも普段通りに開いていたので、片道14キロを自転車で通っていた。それでも予定されていた公演が延期になり、やはり家にこもる時間がかなり増えた。毎日仕事や稽古に出かけて行くのは外に向かう活動だが、コロナによる自粛で家にいることで内省的な時間を過ごすことになった。自分の生活を見直したり、これから世界がどうなっていくのかに思いを馳せたり。
前提として人が集うことで成り立つ舞台活動の場に身を置いてきたけれど、それが不可能になり、そしてこれからもどうやら今まで通りにはいかないらしい。

タルコフスキーの『サクリファイス』で核戦争の報が流れた後に、家族が家に閉じこもるシーンがある。
自粛期間中は、そんなどっちともつかない空気、台風の目の中にいるような、何かから何かへの移行を保留しているような、緊迫した凪とでもいうような何とも表現し難い空気があったように思う。
私個人としてはちょうど三月に引越して、新しい街と環境の中での自粛。部屋の窓から山が見えるようになり、そこに夕日が沈むのを毎日「おお!」と驚きながら眺め、そんなふうに「おお」という言葉が出るのは、外から何らかの刺激を受けた時だと気付いた。

何かを見たり聞いたりして感動した時の「おお…!」
思わぬ出来事に遭遇して驚いた時の「おおっ!」
不審な空気を感じた時の「おぉ?」
急に何かを思い出した時の「おお!」
力強く応答する時の「おぅ!」
興奮した時の「うおお!」

じつに様々な「おお」は、外界の事象の数だけある。

神事で霊を迎えたり送ったりする時に祭官が発したり、 神楽で曲終わりに唱えたりするのも「おお」という音であるらしい。
漫画『ガラスの仮面』では、主人公の女優北島マヤが、役の上で“梅の精”という神的存在に転じる時も「おおおお」と繰り返し発声する。

かくして「おお」という音には、相反する二つの状態の境界を介するような働きもあるように思う。

オイリュトミーでは、この「おお (O)」という母音を、両腕で輪を作った形で表す。人体の消化器系・内分泌系や、無限の愛、などのいろいろなイメージを持ってこの動きを練習する。いずれにしろ最終的な「おお (O)」の形をきれいにポーズとして形成することが目的というよりは、そこに至る感情や、思考の過程の拡がりの方が重要である。その過程には、各々が実践の中で創造する千差万別の身体感覚がある。

個々の身体感覚による世界観の拡がりが、人間関係や社会の空気に何千何万もの小さな微風を送る。自粛という巣篭もり期間は、何千何万もの部屋の中で、また外で、それぞれの人がその微風を発したのかも知れないと、そんな夢想をしてみる。彼岸と此岸の境界線上にある期間限定の部屋のなかで。

映画『サクリファイス』では主人公は自らの自由と所有物のすべてを手放すことで、核戦争が起こる前に時間を巻き戻したが、今はそんなことが起こる気配もない。信仰や神話の世界と切り離されたからだろうか。

四月の自粛から半年を経て状況は大きく変わり、情報技術の進化や感染症対策もあいまって自分の好きなもの、理解できるものにしか触れずに生きていくことが前より可能になった。見たくないものや理解できないものはスワイプできる。だが何度目をそらしてもそれらは形を変えて自分の中に表れてくるような気がする。(あらわれ方もスワイプ様に唐突になるとちょっと怖いですね)

東日本大震災、新型感染症を経て、方法やかたちは変わっていくけれど、これからも今やっていることを自分なりの完成形に近づけていくために稽古を続けていきたいと思う。まず自分の体のうちの分断を身体感覚のうえで繋ぎなおしていきたい。そうしていくなかでこわれたものを再構築していけるような気がする。

(2020年11月15日)

野口泉 Izumi Noguchi

笠井叡主宰オイリュトミーシューレ天使館第三期及び舞台活動専門クラスを経て国内外の公演に参加。近年作に「おしごとは呼吸すること」(2017)、「魂を踊る」(2019)、「ルンペルシュティルツヘン最後の三日間」(2020)などがある。こうもりクラブ主宰。
http://noguchiizumi.com

リレーエッセイ『いま、どこにいる?』

第1回 植野隆司「トゥギャザー」
第2回 鈴木健太「交差点」
第3回 黒木洋平「もっと引き籠る」
第4回 武本拓也「小さなものの食卓」
第5回 冨田学「面白かった本について」
第6回 竹尾宇加「新しい日常」
第7回 ドルニオク綾乃「集えない」
第8回 冨岡葵「Letter」
第9回 岡野乃里子「体を出たら窓から入る」
第10回 奧山順市「17.5mmフィルムの構造」
第11回 千房けん輔「中間地点」
第12回 佐竹真紀「お引っ越し」
第13回 山下宏洋「休業明け、歌舞伎町に映画を観に行った。」
第14回 小駒豪「いい暮らし」
第15回 伊藤敏「鹿児島にいます」
第16回 コロスケ「無意義の時間」
第17回 嶺川貴子「空から」
第18回 加戸寛子「YouTubeクリエイターは考える」
第19回 いしわためぐみ「OK空白」
第20回 井戸田裕「時代」
第21回 Aokid「青春」
第22回 佐藤香織「ここにいます」
第23回 池田野歩「なにも考えない」
第24回 皆藤将「声量のチューニングに慣れない」
第25回 寺澤亜彩加「魂の行く末」
第26回 しのっぺん「歩きながら」
第27回 野田茂生「よくわからないなにかを求めて」


実作講座「演劇 似て非なるもの」 生西康典

▷授業日:週替わりで月曜日と金曜日 19:00〜22:00(6月から開講)
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。