マンゴーの木のもとで International Theatre Festival of Kerala 2016にて
題字:佐藤直樹 撮影:鶴留聡子 英語タイトル:Mike Kubeck(SuperDeluxe)
庭劇場の庭は真実にわしづかみにされています。
まず天がありそこから降り注ぐ真下に庭があるからです。
(‥)
今を生きていること、その界隈をも共有として、わたしに伝えているのを感謝しないわけにはいかなかった。
首くくり栲象
(庭劇場 2010年1月10日~30日「涙」能書きより)
首くくり栲象さんは1960年代末から活動したアクショニストです。彼は50歳になったのを機に、自宅の小さな庭の乙女椿の木に首を吊るという行為を日課のように続け、時には観客を入れて公開していました。その自宅の小さな庭で行われる1時間程は緊張感に満ちた清廉な時間でした。庭をゆっくりと歩き、首をくくり宙に浮く栲象さんの身体。栲象さんと観客による無言の行為。その後は、お宅にあがり万年炬燵を囲んでのささやかな宴で繰り広げられた豊かな会話。夢のようだったその場所は庭劇場と名付けられていました。今でも何か見たり聞いたり読んだりして、考えや思いが動き出そうとする時、栲象さんのされていた行為のことが強く思い起こされます。ひとつの指針として、自分の中に在り続けています。
栲象さんが亡くなってから、彼が様々な人たちと関わり、実に気持ちのこもった手紙やメールをやり取りしていたことを改めて知りました。僕が栲象さんと関わったのは晩年の7年間ほどです。いくつかの作品を共に作り、庭劇場には出来る限り足を運びました。観に行きたいではなく、観に行かなければならないと感じていました。庭劇場で行われていたことは一見同じ繰り返しのようですが、何度観ても毎回新鮮でした。それは栲象さん自身が挑戦と発見をし続けていたからだと思います。彼はいつも早く壁に打ち当たりたいんです、と言っていました。栲象さんにとって行為(アクション)とは日常に接続した日々の行為であり、僕は栲象さんに芸術と生活は不可分であると身をもって教えらました。
美学校では2014年と2015年に「首くくり栲象に話を聞く」という実演有りの場を催したり(川口隆夫さんとの素晴らしくチャーミングな共演もありました)、2016年には栲象さんの行った最初で最後になってしまったワークショップ「ピーナッツ」が行われました。
人の全てを知ることなど出来はしないし、栲象さんからあの愉快で哲学的な話を聞くことはもう叶いません。でも別の誰かを通じて、また新たに出会い直すということは出来るかもしれない。そう願って、少なからぬ縁のあった美学校のウェブサイトでこうした場をつくらせてもらいました。あの本当に稀有な人、栲象さんにここで初めて出会えたという人がいれば、こんなに嬉しいことはありません。
生西康典
チャンスの世界
武本拓也
「いいかい。今から観る作品はね、感想を持とうと頭で考えて観るんじゃないよ。そうじゃなくて、頭で感想なんか持とうとせずに、踊っている人に寄り添うように観るんだよ。」
2016年、綱島の「スタジオクロちゃん」で黒沢美香さんのソロダンスの開演を待っている時、首くくり栲象さんに突然そう語りかけられた。
その当時、僕は美学校で生西康典さんがやっている「演劇 似て非なるもの」を受講している時で、まだ栲象さんとは1、2度話した事のある程度だった。
頭で感想を持とうとするんじゃなくて、寄り添うように、観るんだよ。
その時首くくり栲象は70歳近く。舞台表現の一つの極を極めたとも言える人のその言葉は、しかし30にもならない若造に先達としてものの見方を教えようなんていう態度とは違う、柔和な優しい言葉だった。
そんな風にものを言える人がいるのか。そういう静かな衝撃だった。
今の世の中に、こんな事を言える人がいるのだろうか。
今の世の中、と言った所で、首くくり栲象が生きたのはほんの3年前までの世の中だ。
ほんの3年。ほんの3年前まで、首くくり栲象が毎日自宅の庭で、誰にも見られず首をくくった世の中だった。僕は亡くなられた後に一度、庭に行った事がある。本当に静かな、世界の果てだと思ってしまいそうな、どこにでもありそうな住宅街の真ん中。ここで毎日一人で首をくくる事を想像した。十年、二十年。一日、一日。
ほんの3年前まで、そういう世の中だった。その行為に、立ち合おうと思えば立ち会える世の中だった。
いつだって、誰だって、そのチャンスがある世の中だった。
僕は栲象さんとは晩年の2年程に親交があっただけだ。
その短い間に、僕は本当に大切な事をたくさん教えてもらった。
あれは亡くなられる1ヶ月程前の事だった。僕は栲象さんの病室へお見舞いに行っていた。
その日は具合はまだだいぶ良さそうだった。
「あの本、読んでるか」
と栲象さんは聞いてきた。
僕は少し前、大野一雄の「御殿、空を飛ぶ」という本を栲象さんからもらっていた。その本の事だった。
(栲象さんは「この本は人生の春夏秋冬を経験した者でないとわからない」と言っていて、若い人達とこの本の勉強会をしたいと言っていた。しかし病気の為それは叶わず、その本を僕に譲ってくれた。この本の勉強会を、やらなくてはと僕は今これを書いて思っている。)
ちょうど持ってきていると言うと、「気になってるところを読んでみろ」と言う。
僕は以下の一節を読んだ。
身につけたものを一枚一枚剥ぐようにして降り積もった雪の上にそれを敷き、その上を歩いていった。舞踏の衣装は宇宙を羽織ることだと思っている。 -p.157
読み終えると、栲象さんはしばらく考えてから、こう僕に聞いた。
「で、君はどうなんだ。
宇宙を羽織っているのか。」
僕は答えに窮した。
栲象さんを前に、大野一雄と同じく「宇宙を羽織ってます」とは僕にはとても言えず。でも羽織ってません、なんて言う事もできず。
考えた末に、
「羽織りたいと思ってやっています」
なんて答えてしまった。
すると栲象さんはまた少し考えて、
「羽織ってないんだな。」
とぽつりと言った。
「いいかい。産まれた時から、君の周りにはいつでも宇宙があっただろう。君はいつだってそれができたんだ。だけどそれをしなかった。
君は、重要なチャンスを逃したな。」
そう聞いて、僕はあっ、と思った。
それはいつでもできた。重要なチャンスを逃したな。
栲象さんは、仙人のように淡々と日々同じ行為をして過ごすような人ではなく、常に挑戦の人だった。いつだって目の前にあるチャンスへの、日々の行為はその時々の初めての挑戦だった。
その事を僕はこの言葉を聞いて初めて、わかった気がした。
昨日も、今日も、今でも、チャンスはあるのだ。
その日の帰り際近くに、彼ははこうも言った。
「生きている限り挑戦し続けられる。俺は今でも、挑戦してるんだ。」
何に、とその時の僕は聞けなかった。
寝たきりになって、痛みで体を動かす事もできず、ものも殆ど食べられなくなり、首吊りだってもうできないそんな体で、何に挑戦しているんですか。
しかしその目が確かに、遥かに遠くを見ている目だった。
目の前を見つめ、それより遥か彼方へ、挑戦する眼差しだった。
その目を見ていると、何に、なんて事は聞けなかった。
今にも力尽きそうなあんな体で、いつ死ぬかもしれないという時に、どうしてそんな目ができたんですか。
死ぬということは大事なことだが、産まれてきたということはもっと大切なことだ。
亡くなる前の年の暮れ、庭劇場の後の宴会で、首くくり栲象はそんなことを言ったことがある。
最後の庭劇場は、2018年の1月だった。僕はその数日前、栲象さんから「庭の雪かきをしてほしい」と連絡をもらい、初日の朝に雪かきに行った。腰が痛くて、庭に積もった雪がかけないと言う。
庭に行くと、雪が一面積もっていた。
栲象さんが待っていた。
「腰の医者に行ったら、すぐに大きい病院に入院して精密検査を受けろと言われたよ。十中八九、癌だろう。」
「今すぐ入院してください。」
と僕は言った。
すると栲象さんは血相を変えて「今日は本番だぞ!」と叫んだ。
僕はそれ以上何も言えなかった。
その晩も、首くくり栲象は首をくくった。
死ぬということは大事なことだが、産まれてきたということはもっと大切なことだ。
俺がいなくても。庭がなくても。それはいつだって、テーマでしょ。
今の世の中は、首くくり栲象が首をくくっている世の中ではない。
その行為に立ち会うチャンスはもうない。
だけどいつでも、目の前には自分自身のチャンスがある。
誰もがそれを逃し続け、誰もがそれに挑戦し続けている。
いつでも、誰にでも、それはできる。
首くくり栲象と武本拓也
2016年の9月9日と16日に美学校で開催された首くくり栲象の最初で最後のワークショップ『ピーナッツ』の記録映像より
撮影:梨乃
武本拓也ソロ公演『山を見にきた』Dance New Air 2020>21
2021 ゲーテ・インスティトゥート東京
photo by Yulia Skogoreva
武本拓也
人の前に人がいる、という上演芸術の根底の状況と身体。
その事象にある要素一つ一つと関係を取る事、その状態を突き詰める事をテーマに、立つ・歩くなどの動作のみで構成された上演を行っている。
1990年 群馬県生まれ。
2013年 武蔵野美術大学 映像学科卒業。
2017年 美学校 実作講座「演劇 似て非なるもの」修了。
同時期にアクショニスト・首くくり栲象に師事し、表現とその態度を学ぶ。
2015年に現在の上演形式を確立し、2017年より観客の有無に関わらず上演を毎日行うことを開始。現在まで継続している。
これまでの公演に 『山を見にきた』(Dance New Air 2020>21)、『正午に透きとおる』(TPAM2019フリンジ)など。
自作の他、悪魔のしるし、生西康典、神村恵、百瀬文などの作品に俳優・ダンサーとして出演。
photo by comuramai
実作講座「演劇 似て非なるもの」プレゼンツ「首くくり栲象さんと」
第1回 安藤朋子「栲さんとの日々」
第2回 田辺知美「ガラス絵の画家」
第3回 村田峰紀「栲象さん^_^」
第4回 鶴留聡子「栲象さんのいるところ」
第5回 秋山珠羽沙「栲さんが居たこと」
第6回 山田せつ子「「首くくり栲象」さん、ではなくて古澤栲さんのこと」
▷授業日:週替わりで月曜日と金曜日 19:00〜22:00(6月から開講)
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。