【9/9,16】実作講座「演劇 似て非なるもの」ワークショップ『ピーナッツ』特別講師:首くくり栲象



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特別講師:首くくり栲象
日 程:2016年9月9日(金)、9月16日(金)[全2回]
時 間:19:30〜22:30
参加費:10,000円(全二回通し)
定 員:5名程度
会 場:美学校 本校(地図
    東京都千代田区神田神保町2-20 第二富士ビル3F

※当日の衣服について
栲象さんより「衣服ですか 『一張羅』 が発案にあるのですが からだを床にするときもあるでしょうし 発汗もあるでしょう 発汗があれば着替えたいでしょう そうなると動きやすい服装になりますか その合図は着替える場所があるかないかの示唆なんでしょうね」とのこと。美学校には更衣室はありませんが、必要な場合は着替える時間、教場を空けるなどして対応するようにしますので、動きやすい、汚れても良い服が良いかと思います。


身体表現にかかわる者のひとりとして、ぼくが最重要人物だと信じているアクショニストの首くくり栲象さんにワークショップをやって頂くことになりました。栲象さんにとっても初めてのワークショップだそうです。

栲象さんは国立のご自宅の庭で「庭劇場」と称することを不定期に続けられています。ぼくはここ何年かその庭劇場に通い続けていますが、行く度に、驚きと発見があります。それを生み出しているのは、日々の研鑽を「今」に懸ける栲象さんの意気だと思います。

「今」、その場所(ヒト、モノ、イキモノ含む)、その時間に懸けるということは、どういうことなのか。ぜひ、栲象さんの発する「ことば」「からだ」「いき」に触れに美学校に来てください。

(生西康典)


このワークショップのタイトルを『ピーナッツ』とします。その由来は後ほど書きますが、ワークショップ講座の内容ですが、いわゆるダンスでも、演劇や美術でもないです。しいていえば行為です。いわば「人が為してしまう動き」です。まぁ人生のただ中の動きとイメージして下さい。しかし、けっしていわゆる人生訓ではないと請け合います。あの仏陀も八十八歳のおり、提供された豚と茸あえの料理にあたり、激しい下痢で命を消しました。イエスは十字架にからだを釘づけされ、激痛と血を流してキリストに引き上げ天に召されたといいます。また幾多の知の巨人も歴代、時代、時代に出現しましたが、その巨人も、いったん痴呆になれば知の戸棚に何が置いてあるのか、引きだしになにが入っているのか、そもそもその動かした手は何をしようとしたのか、そもそも、なんだっけ、ワタシとは。目にはいるもの、触れるものに感謝いがい相当するコトバは見当たらない。そうなればしめたものですが、人間はごう慢ですから、なかなかそうは為らないのです。人間は 男女性別の上をゆくごう慢のやからです。人生の頭脳にはゴウマンのメロディーが流れています。このフレーズからのがれがたいのです。それは砂漠を移動するキャラバンに参入するとわかるようです。その人の人生の反省のみしか砂漠では供与するものが見当たらないそうです。反省をしながら絶大な乾燥地帯を行く。そうなると逆に人間のごう慢が砂漠でのたのしみのひとつになるわけてす。それを、その反省をこの都会の美学校の教場で試みるのは場違いで難しいことでしょうが、しかしこの『ピーナッツの講座』でやってみたいあこがれのテーマなのです。いわく「この都会で砂漠のたのしみである反省を為(な)してゆく」。「反省」とは『呼吸』です。空中に細部で宿る空気を見つけ、ただ中に接近し、入り、呼吸してゆく。それだけです。これと人間のごう慢と、砂漠の反省のたのしみと、どう繋がるのか、論理的には言えませんが、しかし触感では、肌触りでは呼応しています。顔を上げて、前を見つめて、夜には天空の星を案内に、しかし星暗の見えない黒の、あるいは砂嵐での歩行もかなわないときもある。そこをどのように移動するか、それは、反省イコール呼吸もなんの手立てにならない、全身全霊でアンテナを立てて、運を天に任せる。人生にはこんなときが必ずやってくるわけです。そんな時ですら まだ道はある。たとえば心臓の鼓動がつかめるほどに飛び出してくる。窮鼠猫を咬むのたとえです。ふだん隠れていたものが現れてくる。それは怒りや欲望ではない。それらはごう慢の一族です。この講座は、そうではない一族の話が肝心です。そういった一族をも、われわれの着ている人間の、煙となり天に昇る、一張羅(いっちょうら→一番上等な晴れ着)のふところの中にあるだろう。その感覚を一張羅に誘導する動きをたのしむのが、このワークショップの狙いです。

さてピーナッツです。ピーナッツは透明な小袋に入っていました。袋は開封されていましたが、半分以上入っていました。話によれば新宿の老舗のジャズ・バーのカウンターにあったようですが、巡り合わせでわたしの座敷のテーブルで見つけました。それを食するにあたり、すり鉢で叩き、こすり、細かくしました。長年の首つりでわたしの上の歯は抜けてしまい、ボリボリ、ガッンガッンと豆類は食べられなくなったのです。出来上がり 砕いたピーナッツの脂ののりが芳ばしく、わたしもおいしくいただきました。ちょうどそのとき庭のすぐとなりの駐車場で、四ミリほとの黒蟻がせっせと動き回っていました。その住穴に細かく砕いたピーナッツを囲むように撒きました。おすそわけです。黒蟻はビックと体を震わせて立ち止まりました。それから触覚を鋭く動かしピーナッツに飛びつきました。周囲にいた数十匹が一斉です。とたん、その周辺は黒蟻で沸き上がっていました。黒蟻といっても一張羅の黒は、駐車場はアスファルトではなく、土をかため、砂利をひいただけの地面ですから、いくらか埃で白っぽい黒なんですね。ところがです、翌日。穴の周辺を見てみました。ピーナッツの山は減っています。黒蟻の動きが威勢がよい。大きく感じる。さらに一張羅の黒いろの光沢がすこぶるよい。太陽光線を吸収し、全身で反射させてグラグラ黒く光っているのです。その光沢はあきらかにピーナッツの脂身です。そのなかの一匹の蟻。後ろ脚を地面に立てて立ち上がり、前脚を腕のように鍵型にして、我々が腕力を誇示する力瘤の動作をやっているのです。 驚きましたが一瞬その様に観察できたのです。わたしを見つけて感謝したのか、さらにわたしの先にある太陽に誇示したのか、ともかくそのフォルムは事実なのです。これがこの講座を『ピーナッツ』と発案の瞬間です。

さいごに私のいわゆる横顔です。1947年、昭和22年生まれです。四十年ばかり「行為」と表して身体表現をやっています。その中に首つりのアクションがありました。その様な行為を日本でもとをただしてゆけば、1960年代の美術の領域(美術だけではなく時代で流行した)画廊からはみだした身体で表現している、当時はハプニングス、またはイベントと表し、名称されていました。それがわたしの源流で、いまに至っています。しかし、行為と表現は出生地が違います。たとえば体操選手も試合に臨むさい「自分のパフォーマンスをしっかりやっていきたい」という、いいかたをします。行為と表現を束にしたいいです。しかし体操選手のやったことは表現として審査員は評価します。では行為はどこにいったのか、瞬間、瞬間、生まれては消え、消えては生まれる、ときもあるが、ことが終えるまで消えしまったままのときもある。行為は表現ののぞむ出来栄えの程を請けてはいません。行為は表現に必要な動機と空気を、表現のすぐそばで、極端に言えば次元の違う領域で、その細部に巣ぐっています。それに照応すれば表現は豊になるでしょうが。このワークショップではそれはそれとして置いておいて、行為の存在の、細部の領域に触れてゆく。細部ですから小さいです。そこに感覚の舟に、風にのり接近してゆく。それは論理的でありかつ幻想的であり、夢でありかつうつつであり、ごう慢の、じたいの上にふく風であり、砂漠をゆくキャラバンに参加した我々の身体に施すの反省であり、いまの身をどこかで清る行為かもしれない。

首くくり栲象

▷授業日:週替わりで月曜日と金曜日 19:00〜22:00(6月から開講)
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。