修了生インタビュー 佐藤直樹


収録:2011年10月


佐藤直樹 (さとう なおき)

1961年東京都生まれ。北海道教育大学卒業後、信州大学で教育社会学・言語社会学を学ぶ。美学校菊畑茂久馬絵画教場修了。肉体労働から編集までの様々な職業を経験した後、1994年、『WIRED』日本版創刊にあたりアートディレクターに就任。1998年、アジール・デザイン(現アジール)設立。2003~10年、アート・デザイン・建築の複合イベント「セントラルイースト東京(CET)」プロデュース。2010年、アートセンター「アーツ千代田 3331」立ち上げに参画。2012年、アートプロジェクト「トランスアーツ東京(TAT)」参加を機に絵画制作へと重心を移す。サンフランシスコ近代美術館パーマネントコレクションほか国内外で受賞多数。札幌国際芸術祭2017バンドメンバー。3331デザインディレクター。多摩美術大学教授。著書『無くならない─アートとデザインの間』(晶文社)、画集『秘境の東京、そこで生えている』(東京キララ社)など。2009年より美学校「絵と美と画と術」で講師を担当、2018年5月より単独講座「描く日々」を開講予定。http://satonaoki.jp/


━━━佐藤さんが美学校に入ったきっかけは何だったんですか?

  赤瀬川原平(註1)さんの存在ですね。尾辻克彦の名で作家としてもデビューしていたので『肌ざわり』なんかの小説も読んでいましたが、決定的だったのは『超芸術トマソン』だと思います。「考現学」や「路上観察」という赤瀬川さん特有の言葉が時代を象徴するキーワードになっていった時期でした。小さい頃からずっと絵は好きで、物づくりとかそういう方面への興味も強かったし、当たり前に美大に行くんだろうなと思っていた時期もありましたが、結果的には行かなかったんです。

 高校生になって進路を選ぶ時にもし将来的に美術に関わるようなことがあるとしてもそれは目指すようなものじゃないだろうと思うようになって。ずいぶん生意気なことを考えてたもんだなと今では思いますけど。それで僻地で先生でもやろうかなと思って北海道教育大学に行き、僻地教育の研究をしている先生のゼミに入ったんです。その時は美術とかデザインとか縁なく生きていけるならそれに越したことはないくらいに考えていました。ところがその先生が亡くなってしまったんですね。教育大学の中では、望んで僻地に行くぞというような人間は主流じゃないので、心の支えにしていた師がいなくなってしまうと、そこでぐらついてしまうわけです。まだ二十歳そこそこですからね。

 そんな中で将来のことを考え直した時に、ずっと好きだった美術やデザインをもう一度辿り直すことはできないかなと思ったんです。だけど卒業してからも教育社会学の勉強を続けようと信州大学に行っちゃう。亡くなった先生との関係が尾を引いてたんでしょうね。でもさすがにその先はもうなかった。僻地で先生をやる道はなくなっているし大学で研究者になるつもりもない。その時期に赤瀬川さんの活動への興味がどんどん大きくなっていったんです。

 で、信州大学の研究生としての一年間を終えた時に、とりあえず食っていかなきゃいけないんで、土方を始めたんですよ。全てを保留しているような状態で自分の食い扶持を確保するためには日雇いが一番手っ取り早く現金になって、しかも明日辞めてもいいという。そこで散々悩んで働きながらもう一回、一から美術の勉強をし直そうと思って美学校に来たんです。

 そしたら赤瀬川さんはその年をもって辞めることになっていた。それで   菊畑茂久馬(註2)さんの絵画教場に入るわけです。菊畑さんのことも知っていましたから。赤瀬川さんと同時代人で、九州派という前衛芸術集団に属しながら反芸術と呼ばれる潮流の中で活動してきた人物ということで。入るのは恐る恐るでしたけど(笑)。

━━━赤瀬川さんの授業のどのようなところに魅力を感じたんでしょうか?

 「考現学」にしろ「路上観察」にしろ、自分もその中に混じって、一緒になって色んな物件を見つけてきたりして、そのプロジェクトに参加できそうだったところでしょうね。自分に武器も何もない中でただ個性的なことをって言ったってできないでしょう。枠組みの設計をしたのはあくまで赤瀬川さんであって、そこに参加したところで自分の手柄ではないんだけど、何かそういうとっかかりがないと次は見えないから。それで赤瀬川さんの教室を希望していたんです。

 菊畑さんは美術家として自分自身に向き合った作品制作をしていて、あなた達はあなた達で自分で何か作りなさいというスタンスだったと思います。そういうところから何かを見つけていくのは自分にはちょっと難しいかもしれないなと思っていました。菊畑さんの教室を最初に選ばなかったのはそれが理由です。展望も何もないところでただひたすら絵を描き続けるというのは苦しいものです。それができたことはよかったと今は思いますが。

 もし赤瀬川さんの教室に行っていたとしてもすぐに何かできたわけではなかったでしょう。何らかの宿題を抱えることになったはずです。僕の場合は赤瀬川さんの授業を受けなかったけど、受けたのと同じように宿題を抱えて、結局それが   『絵・文字2010』(註3)に繋がった。つまり赤瀬川さんの活動と自分自身の活動を繋げるのに25年かかった。でもぜんぜん長くは感じてなくてやっと序章のところを抜けることができたという感覚です。これからが本番だと。「学ぶ」っていうのはそれくらいのスパンのことなんだなと思います。そういう意味で美学校というところは間違いなく「学び舎」だと思います。菊畑さんにもいつか会いに行きたいですがそれはまだもうちょっと先になるでしょう。未解決な感覚は今も続いていますから。

━━━今佐藤さんは美大でも教えてらっしゃいます。美大と美学校の違いって何でしょうか?

 一番の違いは圧倒的な自由度ですね。大学も元々は自治があって自由な場所だったはずだけど、今は管理する側からの制約が強い。美学校はそういうところはまったくないので。この時間(深夜一時過ぎ)に教室でこんな話をしているというのもそうだけど、今大学でこんな教室の使い方絶対できないもの。教室閉め切って、生徒と少人数で部屋の中で一晩明かしたら逮捕されるんじゃない?(笑)

 昨今多くの人は学校に学習成果というわかりやすい見返りを期待するようになりました。学校側もそれに応じて生き残ろうとしています。市場原理の導入が学校の問題を解決するという話になってしまった。でもそんなことでサービス的なメニューが用意されてしまったら人はいよいよ「学ぶ」ことから遠ざかってしまうはずです。美学校は「教えることをみずから意図し果たしうることはない」と言い切っている。今の時代にあってある意味ものすごく奇妙な学校です。こんなに貴重な場所は他にないと思います。

━━━大学だと圧倒的に学生の数が多いと思います。一対不特定多数でやれることには限界がありませんか?

 ありますね。だけど大学でできるいい体験というのもあって、人数が多くいると制度的なこととは関係なく多種多様な人間が混じり込んでもいるわけです。人間て自分の意志で計画できる部分は限られていて、偶然出会ったものに強引に決められてしまう不自由さから得るものも大きいと思います。それは大学じゃなくても職場でもあることですが。美学校は自由な分だけ自分で活用するようにしないとダメで、コースの中での修練みたいなものはあると思うしそれももちろん大事なんだけど、それ以外にも必要なことっていろいろありますよね。町田くん(インタビュアー)も一般大学にも美術大学にも行って他では得られなかった関係がそれぞれの場所でできたと思う。そういう意味で言うと別に美大ということじゃなくても、大学というのは行けるんだったら行っといたら?っていう、そういう場所かな。あんまり意味を持たせ過ぎない方がいいというか。だから美学校と大学とはそもそも比較するようなものでは全くないと思いますね。僕の時代には中学とか高校とか辞めて来てる人もいました。とにかく圧倒的な自由があると思います、ここには。大学に通いながらとか働きながらとかって人がたくさんいます。昔も今も。美学校の「使い方」はそんなふうに考えるのがいいんじゃないですかね。
 


  註1:赤瀬川原平
1937年横浜市出身。画家、作家。武蔵野美術学校中退。前衛芸術家として1960年に吉村益信、篠原有司男、荒川修作らとともにネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成、活動。美学校では、1970年に菊畑茂久馬、松澤宥とともに「美術演習」講師、1972年より「絵・文字」講師、1980年より「考現学」講師をそれぞれ務める。

  註2:菊畑茂久馬
1935年長崎市出身。画家。美術大学へは行かず絵画を独学。1957年に福岡県で結成され、「反芸術」の一翼を担った前衛美術家集団「九州派」に中心メンバーとして参加。美学校では、1970年に赤瀬川原平、松澤宥とともに「美術演習」講師、1971年より「描写」講師、1981年から「絵画塾」講師をそれぞれ務める。

  註3:「絵・文字2010」
2010年7月に3331 Arts Chiyodaにて赤瀬川原平、佐藤直樹、大原大次郎によって美学校出張特別講義として行われたトークイベント。3331 Arts Chiyodaグランドオープン記念展にて、佐藤直樹と大原大次郎によって行われた展示「文字と即興 IMPROVISED TEXT」の関連イベントとして開催された。