修了生インタビュー 浅生ハルミン



浅生ハルミン (あさお はるみん)

1966年三重県生まれ。名古屋造形芸術短期大学卒業。美学校「写真工房」に在籍後、デザイン事務所勤務を経て、現在イラストレーター、エッセイスト。主な著書に『私は猫ストーカー』『ハルミンの読書クラブ』『猫座の女の生活と意見』『三時のわたし』などがある。『私は猫ストーカー』は2009年に映画化された。http://kikitodd.exblog.jp/


美学校に入った理由「赤瀬川原平」「トマソン」


━━━ハルミンさんが美学校に入った理由を教えてください。

赤瀬川原平(注1)さんですね。美学校の赤瀬川さんの教室に入りたかったんです。美学校に入る前は名古屋造形短大でグラフィックデザインの勉強をしていて、その頃にちょうど  トマソン(注2)を知ったんですけど、それがきっかけですね。

古本が好きだったので古本屋に行って『写真時代』とかをよく買っていたんですよ。それで『写真時代』を見てたらちょうどトマソンの連載があって、すっかりトマソンにはまり、発売されたばかりの『超芸術トマソン』を買って本屋さんから出るなりずっと歩きながら読んで、もうすごい面白いこれと思って。

━━━トマソンのどこが面白いと思ったんですか?

ものの見方ですね。例えばセメントの屋根が出ているだけの壁でも、見方を変えるだけでそこまで面白く思えるものなんだと思いました。あと一人ではなくお仲間達と一緒にやっていて。いい大人なのにそういうことをやっていてすごく楽しそうだったから、私も混ぜてもらいたいと思ったんです。

━━━自分でトマソンを探しに行ったりしたんですか?

もちろんです。私がやっていたのは、名古屋の街のバス停に置いてある椅子調べというのをやっていました。バス停にある椅子って、何かの広告が書いてあるちゃんとしたものと、誰かが持って来たような適当な椅子が置いてあったりしますね。立派な革張りの椅子と折りたたみのパイプ椅子が偶然居合わせたりする並びが何かいいなあって思って。

━━━外なのに布ばりのイスとか置いてあったりしますよね。あとソファーが置いてあったり。

そうなんですよ。ソファーは本来居間にあるものなのに、バス停にあるって変じゃないですか。あと丸イスとか。ああいうのとソファーが並んでいたりする光景を、なぜこうなってるんだ?と想像したりするのが楽しくてそんなことをやっていました。そしてソファーが置いてあるところは、バス停じゃなくて、どこかの家の居間の続きなんだという結論に至りました。家具中心で景色をみることができました。名古屋ではそんな感じでしたね。あとは岡本信也さんと奥様の信子さんという、考現学をやっている人がいたんですけど、その勉強会に参加したりして、美学校的、赤瀬川さん的感覚を育んでいました。

そんな時に名古屋のウニタという本屋に『ガロ』が置いてあって、その『ガロ』の広告欄に美学校の生徒募集の広告が出ていたんですけど、それを見て、あっ!ここに入口が開いている!って思ったんです。それで広告文も「切り結ばないか」とか書いてあって、切り結ぶって何?かっこいい!とか思って、舞い上がりました。

それでその美学校の広告に赤瀬川さんの考現学教室も載っていたんで、もうこれしかないと思って申し込もうとしていたら、考現学教室がその年で終わりになることがわかったんです。

━━━それは東京に来てからわかったんですか?

短大を卒業する年にわかりました。短大のみんなは就職を考えていた時期なんですけど、私は美学校に行くって決めていたので、就職は考えていなかったんです。そうしたら赤瀬川さんの教室がなくなっちゃったんで、あららーって思って。

それで美学校には写真の教室もあるので、路上観察に写真は欠かせないし、習っておくといいかなと短絡的に考えて写真工房に入りました。本気で写真を学びにきている人からは怒られてしまいそうですね。

写真を目指そうと思っていたわけではなく、きっと美学校には赤瀬川さんの残り香みたいなものがあるに違いないというよこしまな気持ちで入ったんです。美学校の校風というか、私にとっては全部赤瀬川さん的なイメージだったので、それぞれの教室で全然雰囲気が違うということが頭に入っていなかったんですね。

上京して美学校に


 ━━━それで短大を卒業して、上京したわけですね。

そうです。美学校に入って、まず初日に校長の今泉さんのガイダンスみたいな説明があるんですけど、じゃあ始めますって言ってから「もしこの辺が空襲にあった場合は・・・」とか始まっちゃって、えっ?あれ?空襲??「もし戦火に陥った場合は、みなさんは北の丸公園に避難しましょう。」とかそういうので(笑)。

━━━震災じゃなくて空襲(笑)。

それで、おー!来た来た来たと思って。

でも私はそういうのは変だとは思わなくて、むしろこういうところに来ることができて嬉しいと思ったんです。あ、でも地震のことだったかもしれません!

━━━それが87年ですよね。初めて美学校に来た時の印象を聞かせてください。

来ている人の年齢がバラバラで、今までの学校とは全然違っていました。Sさんという先生より年上のような人がいたんですけど、働いてもいないし、すごい不思議な存在で。読書好きで本を勧めてくれたりして『金瓶梅』を教えてもらったことを憶えています。けど何かやっぱりピリピリしている空気を感じました。

━━━では今と全然違う感じだったんですかね。当時と比べたら、たぶん今はかなりゆるい感じだと思います。

他の教室はわからないですけど、何かピリピリしていて、生徒は現状に不満を持っている人とか、今の時代に自分はそぐわないと感じてそうな人や、みんな難しい言葉を使って話してるような気がして、最初は緊張しました。

━━━やっぱり当時の美学校はバブルとは全然かけ離れたところにあったんですね。

そうですね。その当時は本当にバブル絶頂期でした。美学校では車を持っている人が一人もいなかったなそう言えば、って思ったりしました(笑)。

━━━大学生でも車を持っていた時代ですよね。

そうでしたね。あとやっぱり私が勝手に想像していた学校とは全然違っていました。美学校に来る前に行っていた名古屋造形短大は、生徒はてんでバラバラなことをしていて、先生はそれぞれの良さを見つけてその人に気づかせる人でした。私は世間知らずだったので、美大というのはそういうものなんだ、わーいと思っていましたが、それで美学校に来たら全然違って、先生の写真への思想と行為をまるごと引き継ぐ道場のような雰囲気があって、教えてもらうということには、教える側のそれぞれのやり方があるということを理解していないお子様のような状態で来ていたので、びっくりしました。

写真工房での授業


━━━写真工房の成田先生の授業は厳しい面もあったと聞いているので、大変だったんじゃないですか?

そうでしたね。カメラは基本、毎日首から下げていました。撮っている写真をデッサンと言って、普段生活している中で写真を撮って、家でプリントして、金曜日に美学校に来て先生に見てもらうんです。

だけどその時に撮ってきたものを見せて、先生がよしとする写真のどこがいいのか、私には全然わからなかったんです。それで、えー。これがいいんだ。そうかぁと思ってその感覚をわかろうとしました。その良さをわからないのは私が悪いのだと思ったんですね。反対に私がこれはいいと思った自信満々の写真は、何でこういうことをやろうとするのとか、やろうとしちゃいけないんだよって言われていました。意図的につくろうとすることと、ぱっと写ってしまうということの違いなんて、人生経験を積まないとわからないですよ。先生は写したものの絵柄を見て言ってるんじゃなくて、撮った人の写真への姿勢を見ていたのかな、と今は思っています。

先生の思想を学ぶ道場のようなところに来ちゃったんだなって思って、そうか、でも来ちゃったから来るかと思って来てたけど、頭の中はクエスチョンマークの嵐という、ろくでもない生徒でした。

━━━他にはどんな人が来ていたんですか?

昼部と夜間部があって、私は両方受けていました。今の写真工房の先生の西村陽一郎さんも一緒でした。

━━━西村さんと一緒に学んでいたんですか?

そうです。先輩でした。あと女の人で歯医者さんをやりながら来ている人もいました。あとは反骨精神をもった女の子。その子はすごくかっこいい女の子でした。その人は専門学校で写真を習って、そこを出てからも美学校に来ていたんですよ。それで私が先生の言っていることが全然わからないんですけど何ですかねって聞いたら、「・・・写真は、・・・時間よ。」って言うから、えー!!またわからない!ってなっちゃって、写真は時間よと言われてもむつかしすぎる!その人のことは強く憶えています。ふだんは働いていて、仕事が終わってから来ている人や、ナゴムギャルも来ていました。

━━━やはりガロにも広告が載っていたんでそういう人たちも来ていたんですね。

そうですね。授業が終わってこれからKERAさんを観に行くとか、パール兄弟のライブに行ったの、とかいう人もいました。

━━━美学校の授業は週一回じゃないですか、授業以外は何をしていたんですか?

アルバイトをしていました。ペヨトル工房という出版社がありまして、ミルキィ・イソベさんの下で、レイアウトの手伝いをしていました。あとは、日常の写真のデッサン。東京の探検。

それとアルバイトの話で言ったら、美学校に入ってすぐの頃ですが、白夜書房でティーンの女の子向けの雑誌が出るというんで、もうこれは是非働きたいと思って白夜書房の面接に行きました。それで面接に行ったら面接の人が   末井さん(注3)だったんですよ。

末井さんも美学校出身だったので、わー美学校だ、わーわーっていって話が盛り上がって、面接の時に作品を持って来てくださいということだったので、自分が好きで作った「自由にほくろが付けられる機械」というのを持って行ったら、これは・・・、こういうのは展覧会とかやるといいよねって言ってもらって、それで結局採用はされなかったんですよ。

━━━「自由にホクロが付けられる機械」って何なんですか?(笑)すごい気になるんですけど。

それはですね。私は本の形になっているものが好きだったんですよ。本やコラージュが好きなんですけど、まず本の形になっている箱を黒い厚紙で作りまして、開いたところに鏡をつけました。箱の下にくぼみを作って、そこに粘土で作ったほくろを詰めました。それでそのホクロを上の鏡に置いて、自分の顔を映すとホクロがある顔になるというものでした。

━━━なぜそれを作ろうと思ったんですか?(笑)

何でですかね?思いついちゃったからですね。

━━━美学校にはどのぐらいいたんですか?

12月までです。もうすぐ大晦日という最後の授業ですね。もうその頃は成田さんのご自宅と工房が一緒になって恵比寿に移っていたんで、美学校ではなくて、そこで授業を受けていました。

美学校は3月で1年の満期なのですが、それを待たずに辞めてしまいました。私が先生から指導されているときに、周りの人が気を使って聞こえないふりをしつつも、背中を向けながら耳だけこっちに向けているのがわかって。みんなの耳がうわーって見えてきて「・・・もう、やめよう。」って思ったんです。ちょうど私の立っている後ろにストーブがあったんですけど、言われている間にスカートが燃えて焦げていたんですよ。それでもういいやって。

━━━スカートが燃えてやめるって強烈ですね。

ハルミンさんは美学校の写真工房にいた頃から猫の写真を撮っていたんですか?

撮っていなかったです。その頃は壁のシミを撮るのが好きでした。一番ほめられたのが、ブロック塀があってそこに白い国産の車が停まっている写真でした。

━━━美学校を12月にやめてからその後を教えてください。

美学校をやめてからは、しばらくペヨトル工房でアルバイトをして、それからバブル真っただ中の、就職情報誌を出していた学生援護会のデザイン部に就職しました。

そののちデザイン会社へ転職してみっちりグラフィック・デザインの修行を積み、独立後イラストレーターになりました。


 注1:赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)
1937年横浜市出身。画家、作家。武蔵野美術学校中退。前衛芸術家として1960年に吉村益信、篠原有司男、荒川修作らとともにネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成、活動。美学校では、1970年に菊畑茂久馬、松澤宥とともに「美術演習」講師、1972年より「絵・文字」講師、1980年より「考現学」講師をそれぞれ務める。

  注2:トマソン/超芸術トマソン
赤瀬川原平らによって発見された芸術概念。「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」と定義され、「観察者が発見することで芸術作品になる」という特異性によって「超芸術」と呼ばれる。例として高所にある扉、埋め立てられた門、意味のない階段などが挙げられる。白夜書房の雑誌『写真時代』で1982年に発表され、その後ブームとなった。

注3:末井昭(すえい・あきら)
1948年岡山県出身。編集者/白夜書房取締役編集局長。上京して働きながら美学校へ。キャバレーの看板描き、デザイナー、イラストレーターなどを経て編集者となる。主な著書に『素敵なダイナマイトスキャンダル』『絶対毎日スエイ日記』など。