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修了生インタビュー 佐藤直樹

修了生インタビュー 佐藤直樹


収録:2011年10月


美学校での二年間


 

 ※こちらは、2012年度教程案内チラシに掲載されている内容の続きです。

━━━ではその美学校の中身の話をお聞きしたいのですが、佐藤さんが取っていた菊畑さんの授業とはどのようなものだったんですか?

 最初はグラデーションを描かされましたね。鉛筆だったか木炭だったかで。大画面の用紙にただの濃淡だけを描くんですよ。

━━━今日はこれをやれみたいな感じで?

 そう。教室で、ただひたすらグラデーションの制作。筆じゃなくて鉛筆とか木炭とかだから一本でも線をシュッと軽くでも入れてしまったたら、今度はそれを打ち消すように別の線を引いて面にしていかなきゃいけない。黒く塗りつぶすだけなら最後は真っ黒にしちゃえばいいんだけど、一方の極をまったく何も描かれていない真っ白の状態に残して、もう一方の極をほぼ塗りつぶされた状態にするんです。その間をいかに滑らかにするか。これ本当に大変なことなんですよ!(笑)

━━━ものすごく大変そうな気がします(笑)。それを最初にやった時は、よーしやるぞみたいな感じで一生懸命にできたんですか?

 なんていうか完全に無心の状態になって。すごくいい経験ができたと思いました。今から考えればだけど。余計なことは考えずただ面を埋めて行くわけ。考えたってどうにもならないから。身体に覚えさせるしかない。とってもデリケートな作業。他の人はどうしてたのかなぁ。あんまり真面目にそれやってる人いなかったかもしれない。

 僕はよかったと思ってるけど今の人にそれをやれとは言えないよね。当時だって言われてもやってない人の方が多かった気がするし。少なくとも僕がやってたみたいには丁寧にやってなかったんじゃないかな。わかんないけど。

━━━その一方で教室を出たら肉体労働をして毎日働いて、将来も決まらないという自分の状態に対してはどういう気持ちだったんでしょうか?

 暗かったんじゃないですかね。かなり暗かったと思うな(笑)。

━━━信州から出て来てたら友達もそんなにいなかったですよね。その前は北海道だし。こっちで仲いい人とかいなかったんですか?

 いなかった。ほとんど。働いている現場で多少気の合うやつと飲みに行ったりとかいうことはありましたけど。芥川賞を取った西村賢太の『苦役列車』という小説があって、肉体労働の現場で仲良くなって飲みに行ったりする話が出てくるんですよ。それ読んだらそのまんまな感じだった。そんな程度だね。

━━━そこまで深い関係にもならず、暗いまま過ごしていたと。

 そう。そんな感じ。

━━━ではグラデーション制作の後は、自分の作品を作っていこうという感じになっていったんでしょうか?

 グラデーションが終わったら次は静物画を描いたかな。いろんな材質のものを。布を描かされたことはよく覚えてますね。布の質感くらいちゃんと描き分けられなきゃ駄目だよって感じで。そういうことがまず基礎訓練的なこととしてありましたね。

 あとは裸体のデッサンもかなりやりました。校長の今泉さんの指導で。だいたいの時間は一升瓶持ってそこらへんをうろうろしながら酒飲んでるんですけどたまに来てうしろでじっと見てるんです。で、去って行く。何も言わずに。なんじゃ?っていう(笑)。で、また来る。また去る。なんじゃ?と。

 ところが、時々ポイントを差すんですよ。黙って。そこらへんにある棒とかで。ポイントは1ヶ所の時も2ヶ所の時もあったし、すーっと線を引くような時もあった。そこを目で追うと「あ、なるほど、描けてないや」って気づくのね。それまで、すっごい描けてると思ってて、直すとこなんかないだろう完璧だろう、いや完璧とまでいかないまでもこれ以上は無理ってところまでは来てるだろうとそんなふうに思ってても、ポイントを示されてそこ見ると「あ」って。あれは不思議な体験だったな。

 受験のデッサンとかとはまるで違う…何て言うんだろう…ああした方がいいとかこうした方がいいなんてそんなことひとつもないの。ただ描いてみてるだけ。でも描いてるかぎりはその人なりの目標設定があるはずなわけなので「ただ好きに描けばいい」っていうのとも違って「そう描くんだったらこうじゃなくてこうなんじゃないの?」っていう感じだったんですかね。僕はそう理解して自分なりに伸びたとは思うな。どんどん描けるようになっていきました。

 そういう時には一言も発さなかったから、今泉さんの真意がどこにあったのかはわからないんだけど。しゃべったのはそういうことじゃなくてお酒つがれてぜんぜん関係ない話だけだったし。

 菊畑さんの方は基礎訓練の後は自由制作で、とにかく作品を作りなさいと。この段階ではもう何をしようが自由という感じで、油絵の具も使ってみたし、アクリル絵の具も使ってみたし、具象を描いてみたり、抽象を描いてみたりと描く作業はいろいろ試しました。けど、まぁ何もものにはならなかったっていう感じですかね。

━━━自分の中で手応えみたいなものはなかったということですか?

 なかった。自分が描いたものを見てぜんぜんいいと思えなかったです。なんだろうこれはっていう。いろいろ影響されて取って付けたみたいな絵を描いてバカみたいだなぁと自分の絵を見てつくづくそう思いました。

 ひたすら塗りで抽象的なものを描き続けてれば何か出てくるかなという感じでずっと続けてみたりもしたけどダメでしたね。自分がある意味でからっぽだから、ろくなものが出てこない。どこかで見たことがあるようなものがちょろちょろ出て来るくらいで。これはキツいなぁと。

━━━ますます追い込まれていった感じなんですか?

 そうだったと思いますね。経験の浅い、若いだけが取り柄の、どこにでもいるようなつまんない人間には、それ相応の絵しか描けっこないよなと最後はそう思い至った(笑)。

━━━やっているのは楽しいけど、その先がなかなか見えてこないという感じですか?

 やってるのもそんなに楽しくはなかったですよ。描けば描くほど苦しくなってくる。もちろん身体的な描く快感はありますよそれは。そういうふうに出来てるんだからね。人間というのは。身体的に。でも描いててこの先に何があるんだろうと思うと何もないなぁと。そう思うようになりました。もっと何か経験しないと絵なんか描けるようにはならないんだろうなと。僕の場合はですよ。描ける人は若くたって描けるわけだから。

━━━菊畑さんの講座は一年ですか?

 そうだったと思います。4月から入ろうと思ってその前の年の秋口くらいに美学校を訪ねたんです。そしたら赤瀬川さんのクラスはその年で終わりだということがわかって。じゃあ翌年の4月から菊畑さんのクラスに入ろうということになって、半年間はひたすらデッサンをやったりだとか、短い単発の講座を受けたりとかしてた。それでその後一年間菊畑さんのクラスに入って、その後にも単発のものをいくつか受けました。だから全部合わせて二年ぐらい行っていたんじゃないかな。

━━━単発の講座というのはどういうものなんでしょうか?

 夏休みなんかに何日間かで一塊だとかいうのがあったと思います。もうよく覚えてないんだけど。木版もやったし、シルクもやったかな。他に石版とか銅版とか写真とかの講座があるから全部やろうと思って、しばらく美学校にいるつもりでしたが、だんだん肉体労働に疲れ果てて来て。

デザインの世界へ


  それで版下や編集のアルバイトに仕事を切り替えていったんです。あ、今思い出したけど漫画家のアシスタントもやってました、そう言えば。浅草でおはぎ作ったりもしてたし。あと何やったかな。タタキの仕事もやりましたね。演劇の舞台づくりとか催事場の設営とかのことだけど。

 今版下とか言ってもわからない人がいるかもしれないけどデザインのフィニッシュのことです。今はDTPなんで全部いっしょくたですが、昔はデザイナーが指定をしてフィニッシャーが版下を作った。

 でもフィニッシュまでやるデザイナーというのもいて、そういう人に対する憧れもあったかもしれないです。平野甲賀さんとか。広告の人はフィニッシュまでやらなかったんじゃないかな。

 要するにイラストレーターとかインデザインとかでやることをアナログにやってたわけです。その次の工程は製版でレタッチの専門の人とかもいて。レタッチャーって言ってました。製版のアルバイトはやらなかったけど。版下のフィニッシャーより熟練の度合いが高かったってことなんだろうね。でもそれも今はいっしょくたになって。フォトショップでやるようなことをアナログの手作業でやってたって言えばわかりやすいのかな。

 あと印刷にも興味が向かいました。友人のライブだの演劇だののフライヤー…なんて言葉は当時は使ってなくてチラシだけど…を作ることもあって印刷所に足を運んだりは普通にしてたから。

 ちょっと話が逸れたけどつまり肉体労働から離れたと。版下作りだって肉体労働に近かったけど頭脳労働とは違う職人的な領域というか。でもデスクワークではあるわけなんで、僕にとっては肉体労働からは卒業した感覚。だって雨が降っても濡れずに仕事ができるんだもん(笑)。

 そんな時に翔泳社という出版社の求人の貼り紙が美学校にあって。「美学校に通いながら続けられる簡単なお仕事です」みたいなことが書いてあった。それで面接に行ったら話がぜんぜん違って、ディレクタークラスを募集してたんです。CI、広告、パッケージ、エディトリアルの四本立てでトータルにデザインするぞっていう感じで。すでにバブル期に入ってたわけですがそういう世界とは縁がなかったもんだからちょっとビックリしました。

 少し前には僻地教育を目指してたわけですしね。そういう意味で言うと僕は80年代的なバブリーなカルチャーってあんまり体験してないんですよ。音楽とかも70年代から続けてる人のものばかり聴いてたし。読んでる本もそうで。もちろん80年代に立ち上がったカルチャーには興味を持ってたけど、バブルな周囲の状況とは常にズレてたよね。それは教育大学にいた時からずっとそう。いろいろと面白い時代ではあったんだよ?世界的にも。でも国内のバブル組というのはちょっと独特であの空気には馴染めませんでしたね。

 翔泳社の面接に行った時にもそんなようなことを言われて。キミはいったいいつの時代の人なんだ?というようなことを。バブル真っ只中なのに美学校?みたいな(笑)。

 翔泳社は日本法人が出来たばかりのマイクロソフトの製品のマニュアルとかを作ってて、コンピュータ関連書籍中心の出版社でした。けど、それまで馴染めなかったはずなのに、なんか急に、ものすごく「ここに入りたい!」って思ったんですよ。直感的に。「ここに賭けてみるしかない!」くらいに。だけど向こうはそもそも美学校にそんな募集をした覚えはないと。「え?」っていう(笑)。

━━━美学校を続けながらやる人を募集したわけじゃないんですね。美学校で二年間を過ごした後に、翔泳社に入ったわけじゃないですか。そこでデザインをやっていこうというふうになったんですか?

 だって翔泳社で求められていたのがデザインだったんだから。そこに入った時点で余計なものを引きずっていてもしょうがないでしょう。徹底的にそこで求められている能力を高めること以外は全部禁じ手にしたぐらいです。

━━━その時はどうやって能力を高めようとしたんですか?

 完全にテクニカルなところで。版下づくりの時にやっていたことの延長線上で考えて。まずエディトリアルデザインができなければいけない。スピードをもって仕上げて商品になってナンボ、それがちゃんとできてなかったら何の言い訳もできないからそれをただひたすらやると。

━━━誰かが教えてくれるというわけでもなかったんですよね?

 教えてくれる人はいませんでした。フィニッシュの仕事の経験を生かしてやっただけで。あと編集的なこともアルバイトでやってたからそれも生かせました。優れた編集者はデザイナーが必要とする知識をすべて持ってるはずだと、なぜだかはわからないけど最初からそう思ってましたし。アルバイト時代には市ヶ谷にあった日本エディタースクールにも通ったりしてたんです。

 人に「これできる?」って言われるとできなくても「できます」って言うんですよ。それからすぐに調べて出来るようにする。編集もそうでした。「これの指定できる?」「はい」って言って買物に出た先で本で調べたりして。それをもっと高いレベルで応じようとするとどんなスキルが必要なんだろうってまた調べてみたら、日本エディタースクールに夜間の単発の講座があるのがわかってそれを受講して。そんなふうにして間に合わす。

 あとは自分で「いいな」と思うものをよく観察して、徹底的に真似して、数値化して、その数値をはめ込んだらこうできるということをひたすらやる。それだけですよ。

 その時にもう27歳になってました。大学を卒業してすぐ就職すると22歳じゃないですか。五年間遅れているわけですよね。だからいかに早く追いつくかということだけ考えてた。自分と同じ年の人がやれていることは、なに食わぬ顔をしてやれるようになってなければいけないと思って。ひたすら最短で追いつくことだけを考えてやってましたね。

━━━役割としてはデザイナーだったんですか?

 デザイナーですね。ただ、面白いものを作るために「こういう企画があったら面白いのに」という立案はいつもしていました。例を挙げると、旋盤機械のためのプログラムを開発している会社に営業の人が行くというので付いて行って、パンフレットを提案させてくださいと。で、デザイン評論の本を読んで知っていた柏木博さんと人類学的なメディア論が面白かった奥出直人さんとの対談を企画して載せたりだとか。あとはウォーターフロントの倉庫会社のために建築史家の陣内秀信さんのところに行ってインタビューしたこともありました。すべて自分で交渉して、インタビューや司会をして、録音してテープ起こしもして、見出しも立てて、さらにそれを自分でレイアウトして、写真はさすがにプロに頼みましたけど、キャッチコピーも書いて。それをクライアントに見せ、企画に関わってくれた人にも見せ、双方の修正を反映し、食い違った部分を調整し…っていう。

 営業の人と僕しかいないからコピーライターは打ち合わせの時には欠席ということにして。クライアントに「このコピー私が書いてます」なんて言ったらとてもじゃないけど信頼を得られないから(笑)。自分はデザイナーだけど「コピーライターがこの案でと言うのでそれをデザインして持って来ました」とそういうふうに言ってそれを見せてダメ出しされると「では伝えておきます」とか言ってその後も全部自分で書いて持ってってました。

━━━すごいですね。それは会社としては、コピーライターがいなくてもお前一人でできるだろみたいな感じだったんですかね?

 自由な会社だよね(笑)。

━━━デザイナーというよりもディレクター的な動きをしていたのかなと思います。

 でもフィニッシュまでやりましたよ。誰もやってくれないから。アシスタントもいないし全部自分でやってました。

 

翔泳社を経てフリーになるまで


 

 ━━━それでそこから次のステップはどう歩んだんですか?

 バブルが弾けて景気はどんどん下がりつつあったのかな、もっと新しい仕事を取ってこなきゃという感じになって。今まで通りにコンピュータのマニュアルを作るだけじゃなくて、ここにこういう提案をしたらこういうの作らせてくれるんじゃないかって、営業の人と一緒にいろんな会社を回って、広告を作ったりだとか、パンフレットを作ったりだとかしてました。

 その頃は国内ではNECの98シリーズというコンピュータが主流で。それ使ってみるんだけど、例えばグラフィックソフトの「花子」っていうのがあって、全部コマンドで打ち込んでやっと円が描けたとか、そんな世界だった。そんなもの使ってデザインなんかできっこない。書体もへったくれもないし。だからせいぜい版下のためのトンボを切ってみたり、アタリのための罫線を出してみるくらい。そのために覚えなきゃいけないことが膨大すぎてバカバカしい。だから最初はデザインとコンピュータって相性よくないんじゃないかと思ってた。でもテープ起こしのテキストとかは「一太郎」で書いていたりして、コンピュータのプロセスには慣れていくわけ。

 そんな時に会社で一台Macを導入してみるという話になったの。社長が「これからMacってどうかな」という話をしてて、そんなの判断材料が何もなかったからこっちはわからないんだけど、まぁとにかく一台は入れておきましょうと。

 そしたらMacは同じコンピュータでもまったく違うわけだよね。それで僕がMacを普通に使ってるのを社長が見て「Macの時代が来るかもしれない」って思ったらしい。「今までぜんぜんコンピュータに馴染めてなかった佐藤くんが使えるってことは、普通の人が使えるようになるってことじゃないか!」って(笑)。

 それまではすごく苦手意識があって、会社がそういう会社だから使わざるを得ないけど、でもこんなもの無理して使わなくてもいいじゃないですか、それよりデザインしたいしちゃんとやりますからコンピュータは勘弁してくださいみたいな感じだった。

 でもMacを使ってもまだ書体だって中ゴとリュウミンLくらいしか入ってない頃だったから、まだまだデザインの道具としては十分だったわけではないんですよね。とにかく書体が揃わないことにはフルDTPになんかならないわけですよ。だけど版下の台紙にするくらいのことはできる。罫を引いてみたりだとかは、ロットリングで引くよりもきれいに引ける。ロットリングはどれだけ腕を上げたって多少はよれるんですよ。もちろん訓練しながらだったけど、完璧に線を引けるものが出てきたなと。これは使わない手はないなと思って使ってた。

 それで、まだ相変わらず企画したり取材したりしながら仕事をしてたから、そろそろアシスタントが必要だろうってことになって募集したんですよ。そうしてやってきたのが   小林弘人(註4)だったんです。

━━━佐藤さんのアシスタントとしてやって来た?

 そう(笑)。それで彼がコンピューターにハマるんです。とにかく当時はまだコンピュータをいじれる人なんかいないから、誰だって素人で初心者なんですよ。とにかく来てもらって動かしてもらったら、ものすごくハマってどんどんやれるようになっていった。

 あっという間に僕なんかよりいろんなことできるようになって、翔泳社からMacの本とかを出すに至った。その小林くんがのちにワイアード・ベンチャーズ社と交渉して版権もらってきて、彼に声をかけられて   『WIRED』日本版(註5)のデザインをやるようになるわけです。

━━━小林さんはデザイナーだったんですか?

 自分でそう言ってたからそうなんでしょう(笑)。

━━━その一方で佐藤さんはディレクター的な仕事もして、営業して、自分で企画書を書けるようにもなって、もう一人でやろうというふうに思ったんですか?

 それは思わなかった。それくらいのことができたって仕事なんて取れないから。今みたいなネットワーク社会じゃないんで。僕に仕事を振ってくれる人なんていないですよ。業界に知り合いなんてぜんぜんいないんだから。大学もそういうところを出たわけでもないんだし。

 だから翔泳社でがんばろうと思ったんだけど、途中でふと翔泳社もういいかなと思った時があった。最初は営業もやらせてもらえるぐらいだったから自由だったんだけど、やっぱりある程度数字に反映させて会社に貢献していかなければならなくて、自分がやっていたいろんな動きが、必ずしも会社の役に立っているわけではないということがだんだんわかってきた。

 もっと会社で効率よく稼げるものをやらなければいけないという空気も感じるようになって、別のところを探さなきゃなと。そうしたらちょうどその頃に、ダイヤモンド社というところが出していた『BOX』というビジネス誌のリニューアルにあたってアシスタントデザイナーを求めているという話が舞い込んで来たんです。それで翔泳社を辞めてアシスタントを始めるんですね。そこからエディトリアルが本格化していきました。

 『BOX』は岡本一宣さんがADをやっていたんだけど、岡本さんが辞めることになって、その後に高田修地さんがADになることに決まったのね。高田さんというのは武蔵美の基礎デザイン学科で講師をやっていた人で、原研哉さんの恩師でもある人なんだけど。デザイン部長の篠崎さんも基礎デザイン学科出身で、高田さんの授業を受けてたんですね。その高田さんが僕の義兄で。美学校に通ってた頃に、知り合いから頼まれてフライヤーとかを作る時に話を聞きに行ったりしたことがあったんです。さっきエディタースクールにも行ってたという話をしましたけどその頃ですね。そんな縁もあって、高田さんのアシスタントを始めた。

 高田さんはもともと資生堂の宣伝部にいてそこからフリーになった人で、仲條正義さんの後輩です。後年になって仲條さんからも話を聞きましたが、かなり変わった人でした。

 しかしこうして話していると不思議ですね。なんで最初から高田さんに近づこうとしなかったんだろうな。僕は小さい頃から高田さんのことはかなり慕ってたんですよ。デザインやってることも知ってましたしね。小学生の頃から。でも高田さんには他のことで認められたいと思ってた。高田さんにデザインで認められても仕方ないと。変な考え方ですけど。

━━━その後は一人だったんですか?

 そうです。高田さんの手伝いをして、その雑誌が休刊するというタイミングの時に、どうしようかな、これで仕事なんて取れんのかなって思っていたんだけど、翔泳社時代から一緒に活動していた人が、営業的な動きを一緒にしたら仕事を取れるよって言ってくれて、それで一緒に仕事を取って回りながら、その後はもうあまり気にしてもしょうがないのでフリー生活を始めちゃいました。『WIRED』はその頃ですよね。小林くんに声をかけられて、渡りに船というか。フリーになって細かい仕事をつないでやっていたんですけど、その時はなかなか先が見えなかったですね。


  註4:小林弘人(こばやし・ひろと)
1965年長野県出身。メディア事業家、文筆家、大学教授、大学院非常勤講師。1994年『WIRED』日本語版を創刊。1998年株式会社インフォバーン設立。数多くのウェブメディア、ポータルサイト、ネット上のプロモーションサイト制作やプロデュースに携わる。

  註5:『WIRED』
1993年にアメリカで創刊されたコンピューターやIT関連の記事を中心とした雑誌。日本語版は1994年に創刊し、1998年まで全45号を発刊した。2011年には『GQ JAPAN』の増刊号として復刊された。


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