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ギグメンタ2021 「日々の公演2」感想文集 B面

ギグメンタ2021 「日々の公演2」感想文集 B面


 

「最終日の上演前に撮影された集合写真」撮影:皆藤将


2021年11月から2022年3月まで全7回開催された「日々の公演2」の参加者による感想文集の第2回目、B面です。

演者役として参加された三井朝日さん、野口泉さん、加賀田玲さん、演出役の生西、観客役の小野亞斗子さんの5名です。

あと残り4名、C面に続く、、かも。

そして今月16日(土)、31日(日)に三鷹のSCOOLにて同じメンバーによる公演『抱えきれないたくさんの四季のために』を上演します。

(生西康典)

 

 

ギグメンタ2021 「日々の公演2」感想文集 B面

B-1 「所感と備忘録」 三井朝日
B-2 「みえるもの、きこえるもの、つながるもの」 野口泉
B-3 「観客役として参加しました。」 小野亞斗子
B-4 「日々の果て」 生西康典
B-5 「日々の公演2」 加賀田玲

 

 

 

「所感と備忘録」 三井朝日

 

日々の公演2。
積み木を一つずつ積んでいくような行為ではなく、雪が気付いたら積もっていた、という体験だった。
雪の粒一つ一つがどんな形をしているのかはまるで分からない。と言うか、形なんてもはやない。でも高く積もっていた。
「演劇 似て非なるもの」第9期の講座を受講していても思ったけれど、生西さんが設ける場所はそんな場所になるのだと思う。生西さんの寄り添い方は、一つ一つの作業をこなしていく、というかたちでは決してない。進んでいるのか、進んでいないのか、が道中分からないけれど、気付いたらこんな場所に居た、という感覚。それが僕にはとても心地良かった。
……畠山さんの「なかなかないよなああいう場所は」という言葉が印象に残っている。その通りだと思う。
自分は演者として参加していたけども、こんなに他の演者を見ることは初めてだった。
演出として作る時以上に、他の演者を見ていた。多分、演出として演者を見る時と、演者として演者を見る時では見方も違うのだろうけど。
いや、演者として演者を見ていたと言うよりも、人として人を見ていたように思う。
……見る、という言葉では足りないな。
人を体感していた。
それが楽しかった。本当に楽しかった。

*****

1日目。
「真っ暗闇」という台本を一人ずつ自由に読む(演じる)。
その後、3人組のグループを4つ作って、それぞれが自由に演出して発表する(発表は本番含め2回行う)。
僕は加賀田さんと野口さんとの組だった。
普段、僕は主に演出をしている。演者経験は非常に少ない。
演出をする、と言っても誰が演出という取り決めもない中で演出をつけていくのは、僕にとっては非常に恐ろしいことだった。
気を抜くと、自己中心的に、僕の見たいものを立ち上げることに躍起になってしまう。……このときも、なっていたな。
演者経験も少ないから、演者としての自分より、演出としての自分によってここに居ようとしていた。演者として居るはずだし居るべきなのに、とは気づいていたが、やり方が分からなかったからだ(そんなものがなくたってここには居ることができる、と気づいたのはもう少し後のこと)。
そんな感じで、加賀田さんと野口さんの言葉を聞きながらも、自分の見たいものへ進むように、コソコソと進め進め~と念じていたように思う。恥ずかしい。
だけど、稽古や発表をしている中で、先に僕が思っていたようなことが本当にちっぽけでどうでもよく思えてくる瞬間が度々あった。
僕が言葉をこう発したら、加賀田さんと野口さんはこう発する。
野口さんがこう動いたら、僕と加賀田さんはこう動く。
加賀田さんがこう見つめているから、僕はこう見つめる。
端的に言うと、ドライヴ感。
ああ、今僕がこうしたから二人がこうしてくれたけど、すげえどんどん動いているぞここにある全部が。。。そんで、超楽しい。。。という。
(この楽しさに関しては、感想文集A面で小林さんが驚くほど的確に捉えてくださっていた)
演者を生業にしている人からすると初歩的なことかもしれないが、これが生じる瞬間を経験できることはなかなか無いように思う。

2日目。
「崖ぎわの群れ」という台本を、5人組のグループを2つ作って、それぞれ自由に演出して発表する。(演者2名欠席)
グループ1(畠山さん、増井さん、桒野さん、高橋さん、宮崎さん)は、宮崎さんが演出の立場を取りながら、各々がやりたいことをやれるように、というスタンスで作っていた。皆さんがとても伸び伸びとしていた。
グループ2(根本さん、加賀田さん、三井、星さん、小林さん)は、さてどう進めようかと話合いから。まず台本についてそれぞれの解釈を聞き、どの役とどの役が同じ時空間にいるか、互いの認識はどうなっているか、を話してそれをベースとした。
そこからどんな構成にしていくか。僕は自分の役を中心に台本を読み、カメラと写真を使う案を考えていたので、小道具としてワイドチェキを持参していた。しばらく話していたが、特に具体的な「こうしよう」が出なかったので、カメラ案を伝えると、採用になった。
ただ、このときも、自分が演出のような立場になることを恐れていた。
1日目を踏まえて、日々の公演はそういう場所ではない、と思っていた。
そういう場所?
もっと、自然発生的に、誰にも主導権がないままに、何かが生まれるべき場所……そんな風に考えていたのだと思う。同時に、それを無責任だとも思っていた。いやいや、責任なんて不要だ、とも。(その後、何日目かで思ったかは分からないけれども、「そういう場所でもなかったな」と思う)
だから、僕の中ではぐるぐると行ったり来たりしながら、皆さんと作品を立ち上げていった。
根本さんの冒頭の声が聞こえると、頭の中がすんと澄んで、情景が広がっていったのを覚えている。
加賀田さんの隣で演じていると安心したのを覚えている。
星さんの切実さが場を揺らしていたのを覚えている。
小林さんはこの時は、何を考えているのか、何を反省しているのか、全然わからなかったなワハハ(後に小林さんは僕にとって勝手ながら、ずっと話していたい人になるのだけれども)。
写真が残るのが嬉しかった。
ので、持ってきて良かったと思った。

3日目。
この日は非常に特殊な回だった。
生西さん、観客役の方々、演者の数名が来れなくなり、猿渡さん(本来観客役)と鈴木さんと坂藤さんが代役で演者をやってくださった。つまりは、外から見る人が誰もいない回となった。
はじめに、「今夜の上演は誰も観客はいない」ことを前提に、どのように今日を進めるかという話をした。
どこから見られる「はず」とかは考えずにやりたい、客席は設定したくない、と意見をした。そして、今日が今日のためにある回にしたい、と提案をした。
外から見る人が誰もいない……外からの見え方を一切意識しない、のは初めての体験かもしれない。
どこかに向かう必要のない言葉で、どこにも晒されず、とても親密な誰かと二人きりで会話をしているような感覚だった。
演者は複数人いるけれど、二人きりで会話をしている。僕対誰か、ではなく。そんなものも通り越して。
演者としての当事者意識、を非常に濃く持てた気がした。
一番刺激的だったのはこの回だった。

4日目~7日目。
4日目から、今回の作品の方向性が定まっていった。
演者それぞれの視点を持ち寄って、そのできる限りを肯定する、のが3日目までの印象。
4日目からは、それぞれが持ち寄った視点を、生西さんと鈴木さんが集約·整理する(生西さんと鈴木さんの視点も含む)という感じ。
慣れ親しんだ作り方にグッと近づいた。
それでも、最初に書いたように積み木を積んでいく行為ではなかった。
その要因は、代役の方々が毎回新たな風を通してくれていたことや、回ごとにいるメンバーが異なっていた(演者12人が全員揃ったのは1日目のみ)ことも、大きく関係しているだろうけど、それだけではないと思う。
きっとあの場所では、「的確な言葉」を使ったときにこぼれ落ちてしまう「何か」がちゃんと「何か」のまま、存在し続けていた。
(「的確な言葉」は、理に基づいていて、納得のためにある言葉という意。僕はこれに意識的にも無意識的にも絡めとられることが多々ある。「的確な言葉」をあまり良く思っていない)
それは、とても、重要なことだと思う。

*****

それと、鈴木さんの書くテキストに間近で触れることができて本当によかった。
最終的な上演は「演出」「抱えきれないほどたくさんの四季のために」「歌う」「死なない程度にこわいことを」「再演」「真っ暗闇」の順で1本の作品となったが、特に「再演」は素晴らしかった。台本をもらった時点ですごくいいなと思ったが、読み合わせをした時、上演した時でさらに飛躍した。「再演」は他のテキストと比べると、もっともエモーショナルなものだったと思う。テキストは素晴らしいものだが、テキストとの距離感を間違えると押し付けがましくなってしまう危うさも含んでいた。でも、星さんと根本さんをはじめとする演者が絶妙な距離感で、テキストに依存しない動かし方をしていた。
6日目が終わった日、眠りにつくと明け方に夢を2つ見た。目が覚めてあまりに良い夢だったので、すぐさまメモした。僕なりに鈴木さんのテキストのことを考えていたのがわかった。
以下2つがその時のメモ。

夢1
翡翠色の丘が段々と広がっている。奥には海がある。空が広い。丘の向こうに人身事故が走っていて、丘を越えたときに身体がばらばらに四方に飛び散る。浅い緑の中を赤い線がずっと続いていく。長い長い長い。

夢2
嘴を持った虹色の長い毛をした四足歩行の獣が人間を殺しにくるから、部屋の入り口には虎の死骸を置いておく。死骸の霊が獣と戦う。ホワイトタイガーは一番強い。だけど、獣はもっと強いから虎の霊を殺して部屋に入ってくる。狼は虎より弱い。でも白い狼の死骸を置いておいたなら、その一回だけは獣は呪われて逃げ帰るしかなくなる。

*****

日々の公演、またやりたいなあと思う。
この企画を、また、ということではなく(やれても嬉しい)、ここで出会った人たちと、いっぺんにじゃなくてもいいから、またどこかでふわっと集まって…………集まったからどうしたいわけでもないのだけど。
でも、こんな体験が、またできたらなあと思う。
いや、回数じゃないんだよな。
でも、欲深く、また、なんて思ってしまう。

三井朝日 Asahi Mitsui

1995年生まれ。武蔵野美術大学彫刻学科卒。
「IE-イエ-」にて、代表·作·演出などをつとめる。たまに出演したりもする。
美学校「演劇 似て非なるもの」9期生。「劇のやめ方」2期生。

 

 

 

「みえるもの、きこえるもの、つながるもの」 野口泉

 

日々の公演の第1回目をお客さんとして見に行った事がありました。その時に一番強く印象に残っているのは鈴木健太さんの書く言葉で、その言葉を自分に喋らせてみたいという欲求がありました。英語を喋ると普段の自分とは全く違ったパーソナリティが現れてくるのと同じで、自分の口からは100%出てくる可能性のない言葉を発することで、私という個を超えられるのではないか、という思いがありました。今回の日々の公演2の初回で「なぜこの講座に参加しようと思ったか」という質問があり、答えとしてそのようなことを言いました。

言葉というものは曲解してしまったり、うまい言葉が選べずに伝わらないことが多く、そのせいでコミュニケーションを諦めるということがよくある。語彙力やその場の空気を読み取る力や言葉の扱いに長けていないなどの様々な理由があると思うけれど、自分の普段の言葉のコミュニケーションが大雑把というか、デリカシーが欠けがちということを薄々感じていました。伝えよう、相手のことがわかりたい、という気持ちはあるのですが。
そんな日常的な言葉のコミュニケーションの中で伝えることが不可能と思われる絶妙なやり取りが、前回の日々の公演の私が見た回の中で行われているのを感じました。日々の公演2のホームページで聴くことができる生西さんと鈴木さんの対話にも同様のものを感じました。デリカシーとかニュアンスのかたまりであるコミュニケーションの形が実現されている、といったらいいのでしょうか。ちょうど自分の主宰する団体の公演稽古期間と重なっていることもあり、演出の手がかりになればという期待もあり、今回参加しました。私は全7回中3回しか出席できなかったのですが、その3回を振り返ってみたいと思います。

 

第1回目 (2021年11月6日) 台本タイトル:『真っ暗闇』

事前に暗記してきた鈴木健太さんの『真っ暗闇』という台本を12人の参加者それぞれがモノローグとして演じた。その後、3人づつ4グループに分かれ、台本を3人用に解釈し直して一つの作品として4グループが上演した。自分以外の参加者11人の演技を驚きを持って見た。人前でまずゼロの状態から自分でしかないものを表現する最初の立ち稽古はハードルが高かった。手足を縛られて言葉だけが上すべりしていくような辛さ。だがその分、演者の内面が出て、見ている側にとってはとてつもなく刺激的で感動的でもあった。
グループ分けでは三井さん、加賀田さんと組ませていただき(このお二方は別のベクトルで演技が似ていて虚構度も高く興味深かったので)短い時間の中で作品を作るのを一生懸命やった。
モノローグ調の台本を3人用に分解するため、三井さんが置いてきぼりにされた「記憶」、加賀田さんと私がそれを振り返る存在であるという解釈をした。観客役の猿渡さんから「私的には見ていて苦しかった」という感想をもらい、何か切実なものが出ていたのかもと思った。三井さんは自分とは全く違った視点で意見を出され、それがかなり演出家の目線であり、こだわる部分が自分と全く違った。具体的に思い出せないが私にとっては三井さんの台本の解釈がけっこう難解であり、しかし的を得ていることだけはわかった。反対に加賀田さんは完全にイマジネーションの先行するタイプで自分となんとなく似ていた。初めて会ったこのお二方と本番の上演を終え、何か共通の「真っ暗闇」の記憶を共有したような不思議な感覚があり、ある種のセラビーのようなものを感じた。
一組目の上演は星さん、畠山さん、小林さんのグループでコミカルでラフなコント的な試み。作品の中で、相手の身体に触れるシーンが難しそうだった。人が人に接触するということがものすごく大きい体験だということを感じた。触れることによる情報の多さ、豊かさ、存在が流れ込んでくる感じ。台本が『真っ暗闇』だからなのかより触覚的なアプローチが引き立って見えた。
二組目の上演は、増井さん、瀧澤さん、桒野さんの女性だけのグループ。3人が布団の中に入って記憶を辿っているというシチュエーション。身体は動かないが意識が自由な状況から「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という松尾芭蕉の句を思い出した。桒野さんにとって「真っ暗闇」は野川公園だそうで、自分にとってそれは水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる地獄の描写だった。ねずみ男や鬼太郎は光も音もない真空のような真の闇の中を歩ける。空間ではなく時間としての闇。しかし「真っ暗闇」の台本では五感が戻ってくる。
四組目の上演は、根本さん、宮崎さん、高橋さんのグループで、根本さんが「自分以外の人を演じることができないので自分にできることをやる」というような趣旨の事を言っていて自分にはむしろそんな「自分」がないな、と思ったりした。「演技」と「在る」ということの違いは「演技」は辞められるけど「在る(being)」ことは辞めることができない、などの興味深い考察があった。
13時頃集まって21時半の解散まであっという間に経ってしまった。

 

第4回目 (2022年2月12日) 台本タイトル:『演出』『抱えきれないほどたくさんの四季のために』

この日は長編の『抱えきれないほどたくさんの四季のために』を主にやり、『演出』は数回稽古をした。
『演出』は「未来を思い出す」というパラドックスの情景が描かれており、まさに演出ってこういうことだよなと納得してしまった。自分がいただいた役が、普段自分と全く同じようなことをやっているので驚いた。ただなかなか「こうやってみて」とお願いしても恥ずかしがってやってくれないことが多いので今回は加賀田さんにやってもらえて嬉しかった。
『抱えきれないほどたくさんの四季のために』では、欠席の星さんの代役を武本拓也さん、同じく欠席の畠山さん、宮崎さん二役の代役を鈴木さんが担当してくれた。
『抱えきれない~』の台本を初めて読んだ時とても難解で、どうにか理解しようと12人の役割や勢力図を図解してみたりしたがそういうことじゃなかった。ト書きにもあるように12人の「各々の価値判断、情や悪意」が交錯する。一回しか会ったことのない参加者12人がまさに言いそうなセリフが当て書きされている。自分で稽古している時に他の役のセリフをその人になった気持ちで練習してみたりした。そうするとその人になったような気がする。
生西さんが、2020年に幡ヶ谷のバス停で起こった事件(路上生活をしていた女性が頭部をコンビニ袋に入れたペットボトルと石で殴打され亡くなった)がこの脚本の発端になっている、ということを仰っていた。
それぞれの役柄の噛み合わないセリフ、独り言や過去の思い出、欲望、無責任なあいづちが頭の中でいろんなイメージと重なり続け、役者の声帯が異次元に繋がっているような錯覚を覚えた。

 

第7回目 (2022年3月26日) 台本タイトル:『演出』『抱えきれないほどたくさんの四季のために』『歌う』『死なない程度にこわいことを』『再演』『真っ暗闇』

昼の1時頃集まって夜の7時頃からの上演に向けて6つの台本をつなげて1時間くらいの一つの演劇にした。この日は宮崎さんのみがお休みとなり、黒木(くろぎ)洋平さんが代役を務めてくれた。この日はやることが多くてあまり記憶がないのだが、やはり全体の中でも『再演』が一つの全体の中のクライマックスになっていて、内容も重いものだった。その中でも後半の兄役(星さん)、畠山さん役(畠山さん本人)、原作者役(宮崎さん、この日は黒木さんが代役)のたたみかけるようなセリフが切実さを持って迫ってくる。自分1人の稽古をしている時も、ここらへんのセリフから『真っ暗闇』のラストの瀧澤さんのセリフの流れはどうしても涙が出てしまう。
「もっと、死なない程度に、こわいことを、したいよな。雪の中をひとり歩き。目をつぶって。木登りや川下り。空を飛ぶための訓練。崖のそばでテントを張って。(中略)お前まだここで待ってるの?オッケー先に行ってるわ」という畠山さんのセリフから、中園孔二という2015年に他界した若い画家のことを連想した。動画で見られるインタビュー(※1)によると、中園さんは、明け方の渋谷の繁華街などの汚い都会と、美術館みたいな白いきれいなところ、森などの自然の三点を、いつも移動していたいという欲求があると言っていて、最後は海で亡くなってしまった。

日々の公演2の台本は、私は参加できなかった回の『崖ぎわの群れ』を含め、全体を通して死の存在が見え隠れしていると思う。(まったく死の匂いを感じないといっていたあとこさんすごい。)私も鬱につかまることが時々あるけれど、死というものからは全力で逃げなければいけないものなのだと思う。神話の中では神々ですら毎日悪と戦っているではないか。そのために芸術といわれるものがあり、何かを見たり、聞いたり、創作し続けるのかもしれない。ほんの少しでもみなさんと時間を共有できたことを感謝しています。また今回いただいた台本の言葉は宝物だと思っている。どうもありがとうございました。

※1
中園孔二インタビュー 中園孔二 1|NAKAZONO Koji 1「神話的な雰囲気を感じたんですが、意識していますか?」


https://youtu.be/v3Jo_2U1Fvk

 

野口泉 Izumi Noguchi

笠井叡に師事。オイリュトミーシューレ天使館第三期及び舞台活動専門クラスを経て国内外の様々な公演に出演。こうもりクラブ主宰 http://noguchiizumi.com http://koomori.club

 

 

 

「観客役として参加しました。」 小野亞斗子

 

観客「役」となってるからにはただ観て帰るわけにはいかないので、感想なりなんなり言わなければならないのですが、感想を言うのを前提としてなにかを見ると、見てる時点で考えてしまうというか、見えてるものを言葉に変換しながら見ちゃいそうでやだなと思ってました。ただ実際はそんな事はなく、というか、言葉に変換して見るなんてそんな技術は持ち合わせてなく、結局普段通り見てました。
それでも「観客」と「観客役」にはだいぶ違いがあるだろうと思います。
観客役ふたりしかいないし、、その他大勢になれないのはなかなかの緊張感がありました。すぐ慣れましたけど。
どういうふうに(自分が)見るのかというのを考える時間でもあったような気がします。
作り手の意図することを掴み取りたいという欲求が自分は希薄で、公演が終わった後、みんなで感想を言い合う時間に、作り手側の意図すること(という言い方はしていなかったと思いますが、こんな意味合いがあったみたいなことを)聞いてふーんとかへーとか興味深くは聞くのですが、じゃあ別の日に同じ台本で行われたものを見た時、それに影響されるかといえば、あ、忘れてたとなっていて、見たいようにしか見てないもんだなと思ったりしました。
いつかまたこういう機会があれば、別の見方みたいなものを試してみたい気がします。
それができるかどうかはわかりませんが。

 

小野亞斗子 Atoko Ono

ドゥイのこども造形教室主宰。
2006年より、横浜・石川町で出会った元クリーニング店の建物を自ら改装した「ドゥイ山」にて「ドゥイのこども造形教室」を開き、こども達との閃きのセッションを日々展開。「ドゥイのこども造形教室」以外にも、保育園や幼稚園、学童保育所の他、各種の催しにて、参加者それぞれの発想や閃きの面白さと、即興性を大切に考える「クリエイティブな遊びの時間」を通し、創作行為をより身近でより深いコミュニケーションの手段とすべく活動。http://duilab.com

 

 

 

「日々の果て」 生西康典

 

かつて首くくり栲象さんと話した言葉でとても印象的だった言葉を二つ憶えている。
そのひとつはあの国立の栲象さんの家で万年炬燵を挟んで二人で話していたときだった。
「生西さん、天人五衰というのがあるけれど、本当に一番怖いのは、生きるのに飽きることですよ」

飽きているというのは少し違うかもしれないが、正直言って生きるのは煩わしい。自分はかなり恵まれていると思っている。若いころに病気で死にかけたことはあるし、10代の頃から50代の今まで友人がいろんな理由で死んでいった(理由なんて本当のところわからない)。だけれども、本当に心から尊敬出来るような人たち、愛すべき人たちに、たくさん出会えた。存分に生かせたかはわからないが、出会いには恵まれて来たとはっきりと思う。

だけれども、やはり生きるのは煩わしい。
生きている人たちより、死んだ人たちから親しく話しかけらているような気にもなる。
フィクションはどんなにそれが辛いものであったとしても、
それは受け手のなかで、雪が手のひらで溶けるように、
水たまりが痕跡だけ残して空に蒸発して消えていくように
いつしか昇華されていく。いつしか記憶の中で美しいものを感じたような気にさえなる。
しかし現実は割り切れるようなものではない。
どこか消化しきれないものが、澱のように積もっていく。

今回の日々の公演2で鈴木君とやろうとしていたことは、
まず悪というものをきちんと取り上げること。
それは物語の中の絶対悪のようなものではなく、さまざまな色が混ざり濁っていったときの
何色とも言えないような、ただ濁りとしか言えないような、誰の中にでもあるもの。
そしてもう一つは感情が揺り動かされることについて。
それは、それぞれ個々の記憶とぶつかりあって生じて来るだろう。
前者については、12人がコンビニ袋をぶらさげて横並びに棒立ちした『抱えきれないほどたくさんの四季のために』において。それぞれが誰かに語りかけているような、独り言のような行き先不明の言葉を語り続ける。コンビニ袋を片手にぶらさげた人間というは普段ありきたりの風景である。コンビニ袋の中に入っているのは、その人が生きていくのに必要なものかもしれないし、ただのゴミかもしれない。それは誰かの糧にもなり、誰かを傷つける凶器にもなるだろう。
後者については『再演』というシーンに顕著だが、そこでは妹を無くした兄の記憶が別の人たちによって演じられる。いや、兄の記憶ではない、それはすべて鈴木健太さんによって書かれたフィクションなのだ。
だから本当には兄と妹は居ないし、いたるところに居るかもしれない兄妹である。
フィクションは現実では無いかもしれないが、必ず現実から生まれている。
『再演』をはじめてやったとき、兄を代役だった五十嵐五十音さん、兄役を星和也さん、妹役を根本美咲さんがやった。終始クールに見える根本さんから「は。しょーもな」という一言だけ軽い感じで漏らされる妹の言葉が、ただその一言であるだけに実感を伴って重く響いてくる。そして何より星さんの切実な演技に、涙が出た。舞台上や客席にいた人たちが星さんたちの立ち上げたフィクションに打たれて感情を大きく動かされていた。何がそこに起こったのか、それは一度きり起こったことなのか、それとも何度でも繰り返し再演することが出来るものなのだろうか。

現実は煩わしい、というか正直めんどうだが、
柔らかな春の光のなか、花が咲き緑が生き生きと風にゆれる日々は確かに美しい。

 

生西康典 Yasunori Ikunishi

1968年生まれ。舞台やインスタレーション、映像作品の演出などを手がける。
作品がどのようなカタチのものであっても基本にあるのは人とどのように恊働していくか。
美学校 実作講座「演劇 似て非なるもの」講師。今年で第10期目。
近作は『棒ダチ 私だけが長生きするように』
インスタレーション作品:『風には過去も未来もない』『夢よりも少し長い夢』(2015、東京都現代美術館『山口小夜子 未来を着る人』展)、『おかえりなさい、うた Dusty Voices , Sound of Stars』(2010、東京都写真美術館『第2回恵比寿映像祭 歌をさがして』)など。空間演出:佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている』(2017、アーツ千代田3331メインギャラリー)。書籍:『芸術の授業 BEHIND CREATIVITY』(中村寛編、共著、弘文堂)。

 

 

 

「日々の公演2」 加賀田玲

 

思っていることをそのまま100パーセント言えたと思えることがほとんどない、そもそも人前で何かを話す、何かの意見を開陳するということがなかなかできない、そのような自分にとって、演劇の台詞は、まず人から与えられたものである、ということが最大の安心できる要素である気がしています。どのように発話するかはさておき、ひとまずは言うべきことはあらかじめ決まっていて、おもしろいかつまらないかはともかく、観客はそれを制度として聞いてくれることに(一応は)なっています。何ものでもない自分という人間から出た言葉ではなく、それが演劇の台詞だからです。演劇に出て台詞を言っているときはとても楽しいのですが、その作業や状態について意見を求められてもいつも何もうまいことが言えません。それは、自分のことではなく、あらゆる場で何か言葉を求められるとき全般に渡ってそうです。何かを言おうとしたそばから、すぐに思っていたことからずれていくし、そもそも自分の話を誰かに聞いてもらえるはずがないと思っているかもしれません。
日々の公演でも、楽しかったことよりも、もっと積極的に発言すればよかったという後悔の記憶ばかりが残っています。
そのなかで、初回の日のことをすごくおぼえています。その日におこなわれたのは、三人ずつのグループにわかれて、事前に渡されていた短い戯曲について、グループのなかで演出を考えて、俳優も兼ね、何度か稽古をして夜に上演する、というものでした。グループは自分と三井さん、野口さんの三人。自分は演劇の演出をするのはまったくのはじめてで、といってもほんの数分の上演、それを三人で演出するという形ではありましたが、それがほんとうに楽しかったです。自分と三井さんが大まかな演出の方向性を考え、細かな動きを決める段になって、野口さんがここはこうしたいと提案してくれる、そのような進み方だったと記憶しています。そのやりとりが、何と言ったらいいのか、どれも言葉に拠らないような、月並みな言い方をすればお互いの波長が合うような、信じられないスムーズさで交わされた、冒頭に書いたことに引き寄せて言えば、思っていることが言葉にするより前の未分化な状態のまま、そのまま伝わっていくような感覚があったように思います。全員が全員にイエスマンであったわけではなく、ちゃんとそれぞれがやりたいことをやれたと、これは自分の錯覚にすぎないのかもしれませんがそんな気がしています。実際の上演も、演じているなかですごいものができているような感覚がありました。観客として客観的に見ることはもちろんできませんでしたが、縦に細長い美学校スタジオの向かいのビルのガラスの扉に自分たちの上演が道路を一本挟んで反射してうつり込んでいて、それを見ることができたのはさいわいでした。
そのときのことを三井さんは、

「言葉の無い「ここはこれで良い」「ここはこうじゃない』の意思疎通は楽しい」

と言っていたとこの感想文集のA面にある小林さんの感想文のなかには書かれています。それについて小林さんは、

三井さんのグループで起きていたこの奇跡 みたいな状況

と言っていて、それはまさしくその通りだったと思います。ここでも自分はうまく言葉であらわせないので人の書いたものの引用ですませてしまっています。
日々の公演に参加してよかったです。またあの「奇跡」のような時間が持てたらいいなと思います。

 

 

加賀田玲 Rei Kagata

1996年福島県生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。小田尚稔の演劇『是でいいのだ』(2020-2022)、亜人間都市『草、生える』(2022)などに出演。

 

 

 


実作講座「演劇 似て非なるもの」 生西康典

▷授業日:隔週火曜日19:00〜22:00+月1回外部開催
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。