【レポート】実作講座「演劇 似て非なるもの」校外へ 第1回(ゲスト:飴屋法水)


今期の実作講座「演劇 似て非なるもの」は美学校での開催は隔週にして、月に1回は校外に集まることにしました。
外の風にあたりながら、受講生たちと時間を過ごしてみたいと思いました。
「校外へ」第1回のゲストは飴屋法水さんです。
娘さんのくるみさんを伴って参加してくださいました。

飴屋さんは演出家、美術家で、、と肩書きを書いたところで、何の説明にもならないかもしれません。
飴屋さんのやられていることは非常に多岐にわたっていますが、
「演劇」とか「現代美術」とか、なまじ知っている人ほど無意識にフォーマットされているような枠組み、
「○○とはこういうものである」という考えをいったん取り払ったところから、
常に創作を始められているように僕には思えるからです。
カタチはどうあれ、いつも根源的でアクチュアルな飴屋さんからの応答なんだと感じます。

これは受講生のあおいゆきさんと三井朝日さんふたりのレポートと飴屋さんからの返信です。

生西康典

追記
飴屋さんの近作は新潮8月号に掲載された「たんぱく質」。
徳永京子さんによるインタビュー

くるみさんの個展『イッツ・ア・スモールスモールワールド』が今週末SCOOLで開催されます。


拝啓、飴屋法水さま

お元気ですか?お会いした5月22日は小雨が降っており、小さな黒い蛙がアスファルトにおりました。時おり寒く、陽が照ると暑くなるようなむしむしした日で、飴屋さんが少々薄着で、娘のくるみちゃんと一緒に自転車でいらしたのを覚えています。ふたりの自転車は車輪の内側とブレーキケーブルが黄色いゴムになっていて、お揃いのようでした。

あの日、飴屋さんが話されたことで1番記憶に残っているのは、恋愛や親子といった人間関係を演劇に例えられたことです。飴屋さんの言葉を一字一句拾いあげていくのは、事情聴取のようで意地が悪いのですが、『(恋愛をする人達は)みんな近い人同士でくっついている。発情のようなもの。本当に人間性(で恋愛相手を選んでいる)ならば、(もっと多くの人達が)同性を好きになるはずだ』と仰られましたね?くるみちゃんの前でいうのははばかれるが『親子も演劇』とお話しされたのを今でも覚えています。

その後、右手に新国立競技場をみながら公園の中をみんなで散歩しました。わたしたちは生西さんを含めて3人だったので、みんなで5人でした。軟式球場の横には自動販売機があり、みんなで飲み物を買いました。わたしは苺ミルクを買いました。こういった道順や日常行為すら、飴屋さんが計画された演劇の一部だとしたら、とんでもないことなのでしょうけど、そこにあるのは只の日常の時間だったと思います。あの日の距離感は、間違いなく日常のそれだった。改めて有難うございます。

2つ目に記憶に残っているのはVISIONの話です。飴屋さんの演劇「いりくちでくち」の中で神社の長い石の階段を飴屋さんが転がり落ちていくという息を飲むようなシーンがあり、あれはどうしてそうなったのかという話になり、飴屋さんは初回公演の時に『VISIONが見えたから(転がり落ちた)』と答えた。直感的に私もそういうこともあるかもなと思ってしまったのですが、普通はないのかもしれません。あの時、私の話を遮って、飴屋さんが『新幹線に乗っていて“わたしは動いている”と思うのか、“わたしは止まっている”と思うか?』と私に質問し、『50%:50%だけど、どちらかというと私は“止まってる”と思います』と答えた。そして、飴屋さんは『人間は二つのことを同時に感じられる生き物』という話をされました。ただし、その事とVISIONは別物というのが飴屋さんの結論だったのですが、わたしには未だにその違いがわからず、今でも考えています。

思うに、VISIONというのは意志のようなものも含まれていて、単なる知覚ではないということなのかもしれませんが、わたしは流されて生きているタイプの人間なので、ほとんど同じように思えてしまいました。見させられていると見ているは殆ど同じで、相当のことがないと、能動的に見ているということは起こらないような気がしているのです。もちろん能動的に見ているつもりになっていて、実は自分の頭の中でグルグル何かを回転させているだけで、何も見ていないということは人間よくあることだと思うのですが。

『高倉健を見て「あれは男らしい」と言う人がいますが、‥そういうふうに映画が決めてしまうことも、それこそがフィクションであって、自分の人生を生きる人間の一人ひとりが持つ父親のイメージ、母親のイメージは全部違います。映画や国家というものは、それらをひっくるめて一つにしたいわけです。‥だから、映画監督はきらいなのです』。これは授業の中で扱った「まだ見ぬ映画言語に向けて(作品社)」の中の吉田喜重さんの言葉です。この言葉を読んだとき、日々の中で固定のイメージを受動的に摂取しすぎて、能動的にみることができなくなった自分を反省しました。ただ一方で、これはみんなが抱えている問題というか、乱暴に言えばこのような世界になってしまったことは現実なのだと思います。

私にとって「みる」ということは重要なことです。それは私にとってはカメラアングルの話でもあります。離人症という病気があると思うのですが、私は1度だけ大学の飲み会で似たような感覚になったことがありました。その日は体調も悪く、とても苦手な人も遠い席に座っていて早く帰りたいなあと内心思っていたのですが、ふと身体がぼーっと宙に浮いたようになり空中から宴席を俯瞰しているようなアングルに知覚が変化してしまったのです。また幼少期にDVほどではないにせよ、母がヒステリーになり、お皿を割ったりお風呂のお水を頭から被ったりして私を怒ったことがあり、その翌日に記憶が白黒やセピアに変化しているのに気付きゾッとしたこともあります。それは「みせられた」もので「みた」ものではないのかもしれないけど、受動的ではあれ私にとっては確かに「みた」、色んな映像処理を施しながら、その映像記憶を能動的に「選んだ」のだと思います。飴屋さんが仰っていたVISIONとは少し違うかもしれませんが、私にとっては反発係数のようなものです。反発係数が1以上になってボールが地面から跳ね返ってくるように、いつもより強い反発力で、それを見て私は選んだ。

ジェットコースターのように、あっという間に時間が過ぎてしまい、お別れのとき、自転車に乗ったくるみちゃんが「じゃあね」と手を振ってくれたことを覚えています。最後(3番目)の引用ですが(検察みたいですみません‥)、飴屋さんが映画と演劇の違いを話して下さったとき『役者が楽しんでないといけない』と仰いましたね?この日の一同は、飴屋さんのお話を楽しんでいたので、演劇としては大成功だったと思います。ただ1つだけ思うのは、それは映画にも言えることではないかと思います。芝居の前でカメラが回り、後で編集可能だからといって、全てが自由にできるわけではないし、全てが支配できるわけでもないと思います。

もしかしたら現実の世界もそうかもしれません。どんな状況でも、何かしら楽しんで私たちは生きているような気がします。

不自由と自由のはざまに。

かしこ

あおいゆき

撮影:あおいゆき


現実と虚構の差は無い、と飴屋さんが仰った。
今、自身の周りにある日常とされるモノ・時空間・感情だって、誰かの意図(演出)によって立
ち上げられたものばかりで、自身がこの場所にいること・何かを感じていることだって、自身の
意図(演出)に基づいて成り立っている。そういう意味で現実と虚構(演劇)の差は大して無
い。
という話をした。
……それならば、逆に人工的ではない(意図が含まれない)ものって何なのだろうかと僕は考え
ている。
真っ先にポンと出てくるのは、人の手が入ってない海・森・空などいわゆる「自然」と呼ばれる
もの。
ただそう言った自然現象に対しても、自身がそこに対峙するとなると、どんな関わり方であって
も意図は必然的に生まれる。
例えば、一本の植物が生えている。何となく僕はセイタカアワダチソウを想像する。
その植物は人が関与しない環境で生えているとする。
僕がそれを観測できる場所にいる。きっと植物のすぐそば。
そして植物は風に吹かれて揺れている。
この植物の「揺れ」は誰の意図も含まれていないように見える。
だが、僕が植物の隣に立ち、風を遮ったのなら、植物の揺れは小さくなる。
ここで小さくなった「揺れ」は僕の意図(演出)によるものである。
……では、僕が風を遮らなかったのなら。
自然に生まれた植物は、自然に生まれた風に吹かれて揺れている。
だけどこのとき僕は、植物に対して「風を遮らない」といったような意図(演出)を持って接し
ている。何もしないというのも意図の一つであるから。。。
……だから、結論がまとまっているわけではないけれど、何となく、主観が存在する時点で、全
てのものには意図(演出)が付与されるように思う。
僕が観測している範囲のものは全てが、意図が含まれているもの・人工的なものと言えるのかも
しれない。
……では、意図が含まれていない・人工的ではないもの、とは。
主観が存在しない、誰にも観測されていない事象・空間。
だけど、それは観測できないのだから、意図が含まれていないものを求めたとき、僕らはそれを
手にすることはできないのだろうか。手にしてみたい。。。
……人間の無意識的な行動はどこに配置されるんだろう。
主観を失った無意識的な行動・行為そのものは、主従関係から抜け出したところに存在する。
ある肉体を媒介にして立ち現れた自然現象と言える。言えるのかな。
だけど、その無意識的な行動を手にしたいと考えたとき、途端に手にすることは難しくなる。
手にするとは、僕でいう作品に起こす。ということなのだけど。
意図を持って扱わないと、作品に起こすことはできないから、どうすればいいのか、てんで分か
らない。
分からないので、つくり手の意図は盛り盛りでも、観客にとっては自然現象として見えるもの、
をまずは目指しても良いのかもしれない。
……まとまらない。
……ぼんやりと、何者にも観測されない海面を想像する。
360度、海面。水平線を境に空もあるわけだが。
それ以外何もない。
だだっ広い海面がどこまでも広がっている。
その海面に、雨が降る。
雪が降る。
雷が降る。
それでも何者にも観測されない場所と現象。
そこに、夜が来る。
僕と同じ夜の長さがある。
東京のアパートの一室で過ごす僕と同じ夜の長さ。
そんな海面をぼんやりと想像する。
想像するだけ。

******

僕は演出として作品をつくるとき、自分のジャッジの物差しに対して、よく不安感を抱く。
不信感ではないが、不安感。
僕には演者の上手い下手を判断できない。
僕には観客に何が伝わっていて、何が伝わっていないのかを判断できない。
……飴屋さんは、作品をつくるとき、頭に浮かんだイメージを現実に立ち上げるということをして
いると仰った。イメージが浮かんでしまったのだから、それをただ立ち上げていくという風な。
そこで僕は「浮かんだイメージに対する良し悪し」「実際現実に立ち現れたものの良し悪し」の
ジャッジを、飴屋さんは演出としてどのような物差しで決めているのかを訊いた。
飴屋さん曰く物差しは、自分がそれに楽しめているかどうか。役者も含めて。
自分や役者が楽しめているときは、観客も楽しめている。
そう仮定する。
仮定するしかない。
全ての人間が、楽しいと思うものをつくるなんてことは、そもそも不可能だから。
判断基準の第一は自分の楽しさ。
……非常にシンプルなことだが、僕自身、飴屋さんの作品を観ているとその通りだと思う。
実際その判断基準で、観客の立場である自分も、飴屋さんの作品を心底面白いと感じている。
ただ、それは経験と実績が豊富な飴屋さんの場合でもある。
大いに飴屋さんの独自の感覚・技術の結果でもある。
だから僕が手放しに自分が楽しめるものを作れば、必ず面白い作品が出来上がるというわけでは
ない。
それでも、飴屋さんの言葉から、勇気というか、励みというか、そういったものをいただいた。
……飴屋さんはこの話をしている最中、「皆さんに対しても、今日のこの会話が楽しいと感じて
くれていたらいいなと思う。だから僕は一生懸命楽しくなるようにはする。でも実際皆さんがど
う感じるのかは分からない」という風に仰っていた。
実際、僕はとても楽しかった。
飴屋さんは僕のことを「あさひさん」と柔らかい響きで呼んだ。

三井朝日


あれは5月でしたか。お久しぶりです。
コメントをお返しするのに、すいぶんと時間がかかってしまいましたね、ごめんなさい。

あの時はまだ、このままオリンピック本当にやるのかねえ、、などと話してましたっけ。開会式までもうあと4日。 ほんとうにやるみたいですね。やるのでしょう。無人の競技場は本当に大きかったですよね。もうなんだか今では、巨大な闇がそびえ立っているように感じられます、千駄ヶ谷に、あそこに。

あおいゆきさん、こんにちわ。
お手紙?、、ありがとうございました。

途中にあった、「その事とVISIONは別々というのが飴屋さんの結論だった」、というのは、あまりそう言った覚えがないのですが、覚えがないというのは、言ってない、というより、おそらく僕の話し方が下手なのでしょう、うまく伝えられてなかったのだな、のだと感じました。

いくつかのことを、改めて、修正してお伝えします。でも、対話しながらではなく、言葉でここに短く書いても、一方的な、ただの謎掛け、みたいになってしまうかもしれませんが。

ええと、「親子も演劇である」、という僕の言葉と、「演劇ではなく、それはまちがいなく日常の時間だった」、というあおいさんの感じた言葉がありましたが、この、僕が言うところの、「演劇」というのも、うまく伝えられてない気がしました。ぼくにとっては、「日常」の全部、「現実」の全部が、演劇なんです。と同時に、その演劇とは、決して、ボクが演出家であり、僕が計画している、というような意味の「演劇」ではありません。

演劇、であるとか、劇的、というような言葉の対立項として、日常、があるという風には、僕は感じないんですよね、、というのがあの日、喋ったつもりのことでした。まあ、「演劇」も言葉だし、「日常」も言葉だから、なかなか、それぞれに染み付いた、それぞれの概念のようなものがあるので、うまく伝えられないのかもしれません。ええと、缶コーヒーも、カフェも、「現実」や「日常」も、まったく同時に、虚構である、というようなことが、僕の言いたかったことです。完全に同時に起こっているので、それは、対立項、対立概念では、ないのだろう、、ということです。

また、VISION、つまりあの日、寝て、「夢に出てきた」「夢を見ちゃった」ようなものだ、そしてそれは、道で交通事故を「見てしまった」ことと同じ、という風に言ったと思うのですが、なので、僕は、それは自分の「意志」ではない、という風に捉えています。無意識の表出、などというふうには言えるのかもしれませんが、、そこはわかりません。あおいさんは「みせられた」(受動)と「みた」(能動)、と分けてましたが、僕のいうVISONの感触は、「見ちゃった」、、という感じでの、受動、でしょうか、、、。

最後の、演劇と映画の違い、も、もちろん、映画の場合、すべてが支配できる、すべてコントロールできる、とは思っていません。しかしながら、それでも、俳優が、カットの拒否権や、編集の決定権を持っていない、というだけで、僕には、それはやはり大きな違いに感じる、ということです。あくまでも、僕には、ということですが。

僕がなにかを見る、僕がなにかを感じる、というのは、やはりどこまでいっても僕からの視点です。この、僕からの視点に、映画の眼差し、、まさしくあおいさんが書かれていた、カメラワーク、は、近いように、思うのです。しかし、これはまさに日常も現実もそうですが、2者間の行動や行為は、合意がなければなされないだろう(理想は対等な合意ですが、対等さの精度はまちまちだったりもする、それでも)、ということです。しかし、眼差しは、もうちょっと一方的で、ありうる、ものですよね。個人的というか。それぞれの眼差しは、それぞれのもので、、個人的というか、どこか合意の外にあるように思えます。そして、映画のほうが、この、個人的な眼差し、に、どちらかといえば近いような、特色は持っているだろう、、と、僕には感じられるのです。まさにカメラワーク、カメラの作業、ということですね。

もちろん、これは表現形式としての、良し悪しや優劣ではありません。僕が抽出しがちな、それぞれの特徴、と思うだけです。そしてまた、なにを抽出するは、人それぞれだとも。

一番最後の、不自由と自由のはざまに。

これは、まさしく、ほんとうに、ほんとうに、それにつきるなあ、と思います。

機会があれば、また、お会いしましょう。

ありがとうございました。

三井朝日さん、こんにちわ。

誰も、見ていない、誰からも、見られていない、海面、を、見たい。

この矛盾は、とてもわかる気がします。

意図から完全に、開放された、人間の行為は、あるのだろうか。

あるいは、完全な、手つかずの、自然、というようなもの。

最近、「たんぱく質」という小説もどきみたいなものを書いたのですが、その中で、やはり、このことを考えています。人間にとって、人為でない時間が無いのであれば、、人為の時間の終わり、死の瞬間、だけが、自然だろうか。しかし、死んだら、もう、その時間の中には、いない、ので、その、瞬間、というのは、0,1秒、、0,01秒、0,000000001秒、、みたいな感じの、時間、なんだろうか。

僕はいつも、バランスだけを考えていて、あらゆるバランスがとれて、あ、ゼロになった、みたいな、瞬間を目指すのですが、もちろん、それはとてもむづかしくって、たえず、目指してはいる、が、行き過ぎて、戻し、また行き過ぎて、戻し、その繰り返し、、、という風に感じます。朝日さんも、がんばってください。

また、お会いましょう。

ありがとうございました。

飴屋


実作講座「演劇 似て非なるもの」 生西康典

▷授業日:週替わりで月曜日と金曜日 19:00〜22:00(6月から開講)
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。