いい「作品」をつくることは、いい「おもちゃ」をつくること── 「「おもちゃ」と「テストプレイ」のアートへ」講師・岸井大輔インタビュー


※このインタビューは2021年度に開講した「「おもちゃ」と「テストプレイ」のアートへ」の時のものです。「「おもちゃ」と「テストプレイ」のアートへ」は集団創作で制作するところまでしたが、23年度開講の「自分を越えた作品を 計画的につくる方法と発表の実践」は個人創作での発表も含まれます。

2021年5月より開講した「「おもちゃ」と「テストプレイ」のアートへ 〜ポストコンテンポラリーアート実践編〜」。講師を務める岸井大輔さんのインタビューです。

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岸井大輔|1970年生。劇作家。他ジャンルで遂行された形式化が演劇でも可能かを問う作品群を発表している。代表作「potalive」「東京の条件」「好きにやることの喜劇(コメディー)」「始末をかく」。2019年に自身のカンパニー「PLAYS and WORKS」旗揚、ポストコンテンポラリーアートについて考えている。https://playsand.work/s/
(写真:松尾宇人)

演劇は「劇場」より「おままごと」

妹相手に人形劇をやっていたのが最初の記憶なので、演劇にはそれ以前に出会っているかと思います。演劇って言うと、みんなまず劇場を連想するじゃないですか。だけど、僕は「おままごと」から始まっているので、そこに人形があるともう演劇なんですよ。落書きから始めている画家みたいなもので、僕は演劇をおままごとから始めた劇作家です。

劇場との出会いは中学ですね。演劇部員で中学2年、3年と演劇ばっかり観ていました。演劇部には各劇団から宣伝が来て、中に一枚招待券が入ってるんですけど、部員が僕しかいなかったので、観に行きたい放題。帰り道に演劇を観て帰る中学時代を送っていました。ジャンルとかよく分からないので、歌舞伎もピーター・ブルックも寺山修司も全部観るみたいな。だから僕にとって演劇イコール小劇場ではないです。それは結構大事かもしれないですね。

15歳のころには、演劇を仕事にしたいと思うようになっていました。だけど、上演って作れないんですよ。おままごとの作者っていないじゃないですか。絵画だったら作者がいるけど。おままごとの作者っていうやつがいたら、だいぶヤバいやつですよね。だから僕、演出家って絶対に名乗りません。上演は「できちゃう」ものなので、上演を作るってなんだろうという気持ちがあります。僕は劇作家なので戯曲を作ると。上演したい人がいたら勝手にやったらいいという考えです。

「演劇の形式化」を考える

僕は1970年生まれなので、80年代の演劇を子供時代に観てきました。運動系のいわゆるテントとかアングラの左翼的な演劇から、エンターテイメントへと俗に言われている時代です。僕が大学に入ったころはバブル真っ盛りで、東急Bunkamuraがオープンしたのもその頃。それまで小劇場とかテントでやった人たちがBunkamuraを目指すようになった。だけどBunkamuraに行っても「俺ここでやりたいかな?」と思うわけです。そのあたりから現代芸術に興味を持つようになりました。現代芸術の人と話をすると、すごい自由なんですよね。

例えば、ノイズのライブを観に行ったら、魚を舞台で投げ合ってた。これ音楽なのかはわからないけど、演劇だよなって思うわけです。でも、当時劇場に観に行っても誰も魚を投げあったりしていない。「俺がやりたいの、魚を投げたりするほうなんじゃね?」と思って。そうすると演劇界に居場所がないんですね。そんなことがあって、1995年くらいから「演劇とはなんだろうか」ということを考えて作品を作る作風に切り替えました。それを「演劇の形式化」と呼んでいます。フォーマリズムをどうやって演劇でやるかを25歳から真面目に考えるようになったわけです。

ちなみに、フォーマリズムはそもそも反演劇なので、フォーマリズムの演劇はこれまでほとんどなかった。世界中で、僕と同世代の人たちが頑張ってやっていると思います。リミニプロトコルや、『人工地獄』のクレア・ビショップも同い年です。『人工地獄』も演劇的な芸術史を考えているわけでしょう。モダニズムの最後の仕事が演劇を破壊することで、まさに今やっている最中なので、演劇は超楽しいですよ。みんなデュシャンと同時代に美術やりたかったと思うんですよ。今演劇をやるとそれができる。君もデュシャンになれるかもしれない、みたいな(笑)。

僕はデュシャンになりたいわけじゃないけど、「魚を投げるのが音楽だ」と言うためには、ジョン・ケージが必要なんです。音が鳴ってれば全部音楽だって言った人がいたから、その後の人が魚を投げられたわけじゃないですか。自由になるためには一回形式化を経る必要がある。美術も「美術」という名で何をやってもいいことになっているけど、バウハウスとかグリーンバーグとか、「美術」というジャンルとは何かを問うた人たちのお陰が大きいと思います。演劇でそういう仕事をする人はまだいなかったので、演劇の形式化を考えて作品を作ろうと決めた。それが25歳のときです。

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人々は「渋谷」を演じている

じゃあ、具体的にどんな作品を作ったか。形式主義を考えるときは、よく、メディウムを考えます。演劇は何を素材とする芸術なのか。絵画だったら平面、音楽だったら音、ダンスだったら身体とか言えると思うんだけど、「演劇のメディウムって何?」っていう問題がある。30代の僕の答えは「集団」でした。人間の集まり。集団を素材とする芸術は全部演劇だと思ったんです。

これは、渋谷の駅前に立ってたときに思いつきました。渋谷の景色が全部消えて人間だけになったとします。スクランブル交差点を渡る人しか見えない。それでも直感的に渋谷だなって分かると思うんですよ。格好とか集まっている人々の種類とかで。新宿は新宿に、浅草は浅草に見えると思うんです。僕らは渋谷にも新宿にも浅草にも行くじゃないですか。ということは、僕ら知らないうちに演技しているんです。渋谷に行ったら劇団渋谷に出ているわけです。

つまり、これはサウンドスケープとかと同じことで、ジョン・ケージやマリー・シェーファーが「鳴っている音が音楽だ」と言ったのと同じことを演劇で言っている。渋谷を歩いているときには、「渋谷」をやっているわけですよ。しかも一人じゃなくて集団でやっている。これを取り出して表現できれば演劇の形式化になるじゃんということで、街を歩くスタイルの演劇をはじめました。ポタライブと言われているやつですけど、2000年からはじめて2007年までやりました。指示書を持って歩いたり、人と一緒に歩いたりした結果、そこにあるものが演劇に見える。

演劇の形式化による作品制作の別の例を示します。例えば、演技は何かと言ったときに、たいていの場合「他人になること」といった答えが返ってくるけど、よく考えると分からないですよね。で、演技を形式化してみました。人間には記憶がありますよね。ある記憶を思い出したときにすごいお腹が重くなるとか、表情筋が動かなくなるとかあるじゃないですか。そういう現象を演技と言うんじゃないかと考えたんです。つまり、記憶と身体がダイレクトにつながってしまうケース。それを作品化したのが、《記憶の再生》というパフォーマンスです。10年前の今日何があったかをリアルに思い出させるだけの作品です。会話をするだけなんですけど、僕と2時間のセッションを5回やると、半分くらいの確率で思い出します。ただ、10年前の記憶を思い出すと、記憶から消していたつらい過去も思い出してしまうので、責任とれないなと思ってやめました。

他にも、記憶が再生された瞬間を他の俳優がやるとどうなるかという実験のシリーズもあります。いずれも、やっていることは「演劇の形式化」で、演劇は人間の集団の表現だから、街を劇として見ることができれば演劇であるとか、演技とは記憶の再生であるから、記憶が再生された瞬間を作れば演劇であるとか、そういう作品を作ってきました。

大事なのは「おもちゃ」だ──「ポストコンテンポラリーアート」

そうして「演劇の形式化」を考え続けた結果、たどりついたのが「ポストコンテンポラリーアート」です。「コンテンポラリー」って語源的に言うと、ある一次性を共にするということですよね。それはつまり演劇から見れば「上演」のことなわけです。コンテンポラリーアートにはいろいろな理屈がありますが、現実のコンテンポラリーアートなるものを見ていると、どんどん上演に向かっている。インスタレーションもそうです。今ここで話題になっていることとか、今起きていることの表現とか。本来、絵画は超時間的な存在だった。それに対してコンテンポラリーアートは「上演的な芸術」を目指す癖がある。ところが、ずっと上演をやってきた演劇からすると、上演だけを目指すとつまらなくなる。2500年上演を続けてきた演劇をやっているからわかるのです。

コンテンポラリーアートがなんで行き詰まっているかが僕には分かる。なぜなら、僕は演劇をやってるから。「あなたたちがやってることは、演劇界は2000年前に通過したんだ」という、中国拳法の達人みたいなことを思うわけ(笑)。では何が大事かと言うと、「おもちゃ」が大事なんですよ。ただみんなで集まってなにかやろうとか、集まって起きたことをただ見ようってことじゃなくて、そこに集まっている人たちが「何」をやっているかをつくったり考えたりすることで面白くなる。その「何」かは、みんなでプレイするモノだから、簡単に言うと「おもちゃ」です。だから、コンテンポラリーな事態は何をPLAYしているか、つまり、ある状況の「おもちゃ」に対して意識的になるべきだと思います。コンテンポラリーアートでは「おもちゃ」に意識的じゃなくなってきちゃってて良くないと思うんです。起きている現象のほうにみんな持っていかれてしまっている。

これは、サッカーの試合とサッカーボールで例えることができると思います。サッカーで面白いのは試合のほうでしょう。ですけど、サッカーボールのことをすっかり忘れちゃうと質が低下すると思うんですよ。サッカーボールがなかったらサッカーをするのはキツイ。常にサッカーボールを良くしていこうという努力が必要です。今のコンテンポラリーアートはよいサッカーボールをつくったり考えたりすることが弱まっているように僕には見える。だからみんなでサッカーボールをちゃんと考えて作ろうぜって言いたい。

従来の芸術で「作品」と言われていたものが「おもちゃ」です。そして「展覧会」は「試合」です。絵画がサッカーボールで、展覧会をするのが試合をすること。みんな作品よりも展覧会の仕方、キュレーションとかマニフェストを工夫している。その結果、みんながだんだん作品について考えたりしなくなっているような気がします。そうじゃなくて、作品は遊ぶ対象だと思うと、考え方が変わると思うんですよ。そういう考え方で絵を描いてみたり展覧会をつくってみたりすると、どうなるのかっていう実験をみんなでしたいんです。

キュレーターや演出家は重要だと思いますが、作家みたいな扱いになるとおかしいのではないかと思っていて。なぜならばそれは「おままごと」の作家になってしまうからです。「おままごとが盛り上がったほうがいいよね」は分かるし、おままごとの盛り上げ役としてキュレーター役がいるのも分かる。だけど、そういうことを言っているうちにおもちゃを忘れてないかと。おもちゃを作るのが本来我々がやってきたことなのに、ままごとばかり盛り上げてどうするんだと言いたい。そして、コンテンポラリーの、一時的な上演の、展覧会の、盛り上がった遊びの「後で」、来るべきプレイのためのおもちゃをつくる。それがポストコンテンポラリーアーティストです。

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ワークショップ「生活工房で日常の食事をする」より
(撮影:皆藤将)

馬で遊びたいなら「棒」でいいんじゃないか

美学校には、生西康典さんの講座「演劇 似て非なるもの」がありますが、この講座をもじって言うなら、僕の講座は「作品 似て非なるもの」だと思います。つまり、美術から見たら門外漢の僕が、作品制作の講座をやるということです。生西さんは、演劇の外の人間だから客観的に演劇のことを考えられる。僕も美術教育は受けてないけど、僕の観点から作品を見ることができる。それはつまり「おもちゃ」ってことですけど。ですから、むしろ美術の人に受講してもらいたいですね。

最初に今のような話をレクチャーで2回やります。そのうえで、みなさんに作品をつくってもらいます。普段つくっているものでいいと思うんです。ただ「おもちゃ」として見るとどうなるか。その次に来るのが、展示をするとかってことになると思うんだけど、「おもちゃ」なので、他の人がどうやって遊ぶかを考えないといけない。つくったものをおもちゃだと言い張っても、誰も遊ばなかったら意味がないですから。もちろん普通に飾るのも遊びです。だけど、おもちゃとして見たときの展示の仕方や上演の仕方を提案してみて、つくった人がOKだったらそれで一回やってみる。そのときに公開したほうが面白かったら公開もします。作家がテストプレイを公開して他人に委ねるのは、次回作を作るための取材だと思うので、講座では1回目の制作とテストプレイを経て、2回目の制作とテストプレイを行います。

ゴンブリッチという人が『棒馬考─イメージの読解』という本を書いています。馬のおもちゃ──棒の先に馬の頭がついているあれですね──について書いた本です。実は、これは演劇の、あるいはおもちゃの形式化の話なんです。子どもが馬に乗って遊びたいと言ったときに、馬がいなかったらどうするか。絵画の場合は馬の形を描こうとするし、その形式化を考えるでしょう。でも、馬が「おもちゃ」なら、つまり遊ぶために馬が必要なら、適切なのは「棒」なんです。美術は見た目の形式主義を中心に考えてきたけど、演劇の形式化では、乗るための棒をつくるのが作品なんじゃないか。「棒でいいんじゃない?」って言うのもアートだと思うんです。棒が置いてあるだけなのに、展覧会に来た人がみんなお馬さんごっこをし始めたら大成功じゃないですか。それでみんなすごい楽しかったと。僕が今考えていることは、美術の中に先行的なアイディアをたくさん見つけることができたので、すごく美術的なアイディアだと思います。

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岸井の個展の記録本、戯曲集
(『岸井大輔個展「戯曲は作品である」記録本』、『始末をかくと前後の戯曲』、
『戯曲は作品であると東京の条件とそのほかの戯曲』)

見立てる前に土偶を作る─自由になるための形式化

「棒馬」の話は、「見立て」と言ってもいいんだけど、見立てだと遊ぶ側の問題になりますよね。そうするとまた上演の話になっちゃうんですよ。コンテンポラリーアートに逆戻りしてしまう。僕らそういう癖がついているんです。ところが、縄文時代の展示をみても、おもちゃがある。偶像も人形ですから、おもちゃですよ。土偶を見ると、人は土偶を拝んでたんだなって思うじゃないですか。見立ててないですよね。何も知らずに拝んじゃう。

つまり、棒があると人は乗ってしまい、土偶があると拝んでしまう。すごく不思議なんだけど、ここに芸術の問題があると思うんです。見立てる側の問題でもあるけど、土偶側の問題でもある。いい棒馬や、いいサッカーボールや、いい土偶を作ることが重要であって、よく見立てることよりも前にいい土偶を作りませんか?と言いたい。狙った行為が生まれなくても楽しいと思うんです。土偶のつもりでつくってみたらみんな拝むんじゃなくて、乗って遊んでたってことになっても、それは自由じゃないですか。芸術は自由ってことなんであって、まず見立てる前に土偶を作ろうよ、と。

25年前に、ライブで魚を投げあっているのを見て形式化に至ったのと同じで、自由になるための形式化ということです。それを美学校でやりたいと思ったのは、いろんな人に関係があると思ったからです。いろんなジャンルに関係があるし、プロのアーティストにも関係があるし、アートのファンにも関係がある話だと思った。美学校っていろんな人が一緒に学ぶことが魅力だと思うので、美大の授業でやるよりも、美学校でやったほうがいいなと。

僕は演劇のことをずっと考えていたのに、演劇畑からは浮いてしまった作家だったわけで、そのおかげでいろんなジャンルの人と仕事してきたので、たいていのジャンルの話はなんとなく分かります。作ってみたい人はノンジャンルで来ていただいて大丈夫です。だけど自分が50歳になって思うのは、本来、ちゃんと芸術作品をつくっている人は同時代からは浮いちゃうはずなんですよ。「今、浮いているな」とか「自分の作品はどこに行っても発表できないな」と思っている人は、むしろ正しき芸術家。そういう人に来てほしい。そういう人と一緒に悩みたい。僕はそういう状態で50歳まで作家ができたので、あなたがその状態で50歳まで作家をやる方法が共有できればいいと思っています。孤独なまま50歳までバイトもせずにアートやって生き延びる方法を一緒に考えよう(笑)。

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展示&トーク「遠藤薫さん、最近何してるんですか」遠藤薫×岸井大輔 より
(撮影:皆藤将)

「おもちゃ」は現実社会の外への入り口

さっき話した偶像がそうですけど、おもちゃってすごく雑に扱われるものであると同時に、むちゃくちゃ崇拝されたりコレクションされたりするものですよね。振れ幅がむっちゃ大きいじゃないですか。僕は芸術作品って、本来ゴミであるけど崇拝されるものだと思うんです。今はみんな芸術作品を崇拝ばかりしてますが、よく考えたらあんなのはゴミですからねって、両面あることが大事。だから作品を「おもちゃ」と言うことで、その両面を思い出せると思います。

「大人がおもちゃで遊ぶなんて」って思う人がいたら、その「大人」って、結局、資本主義のこと、あるいは現実社会に適応した人だと思うんです。「現実社会でなんの役に立つの?」って考えている人にとって、おもちゃは現実社会と関係ないものだってことです。だけど、その結果どうなっているかと言うと、僕らには現実社会しかなくなっちゃったんです。アートも現実社会に対するオルタナティブであったはずなのに、現実社会にわかりやすいとか、現実社会に意味があるとか、そういうのはオルタナティブじゃないわけです。現実社会で生きていきたいと思うなら、むしろアートは関係ない。ただ、この現実だけだとおかしいんじゃないか、辛いんじゃないか、つまらないんじゃないかと思っている人にとって「おもちゃ」は、手近に転がっている現実社会の外への入り口です。おもちゃなら、子どもから老人まで本当に誰でも入ってくる。世界の外を目指し、しかもそれはただの外じゃなくて、そこから先には次の現実が待っているかもしれない。そういうものを目指しているのを見たときに、つい人はくだらないと思ってしまうわけですけど、僕はくだらなくないと思います。

それこそ中学生ぐらいってそういうことに関してすごい敏感な時期だと思うんです。やっぱり僕は中学の頃に芸術に憧れたわけですけど、それは芸術家を見て「あいつら明らかに非現実的だな」と(笑)、なんでこんなバカなことやってんだって思うから憧れたわけですよ。みんな中学生の頃はそうだったんじゃないのって。今の芸術家は、中学生に憧れられる存在になれているのかって問いたいですね。アートは中二病の人が見たときに、「俺よりもバカだ」と思わせなきゃならないんですよ。

2021年3月26日 ZOOMにて収録
聞き手・構成=木村奈緒


「おもちゃ」と「テストプレイ」のアートへ〜ポストコンテンポラリーアート実践編〜 岸井大輔 岸井大輔

▷授業日:隔週火曜日 19:30〜22:30
ポストコンテンポラリーアートでは作品をおもちゃと考えます。絵画もおもちゃ。だから展示はテストプレイ。詩も遊具、Tシャツに刷るのはテストプレイ。いつもの作品を「遊戯具」発表を「テストプレイ」としてやってみましょう。そしてキュレーションも演出も業界もないアートの在り方を実現します。