2011年11月某日 美学校にて、卒業生と生徒による座談会が開かれました。
美学校生徒の生の声を、お聞きください。
参加者
雨田芳明 2010年度10月期「アートのレシピ」修了
宮嵜浩 2011年度10月期より「天才ハイスクール!!!!」「アートのレシピ」「生涯ドローイングセミナー」受講
太田悠 2009、10年度「絵画表現研究室」修了(「絵画表現研究室」は、2012年度は休講となります。)2011年度より「生涯ドローイングセミナー」受講
美学校に入ったきっかけは?
雨田 僕は大阪芸術大学にいた時はアート志向で、アートゼミにいたんですけど、大学を出てからはずっとカメラマンをやっていました。広告やマスコミといった業界でどっぷりやってきたんですが、何を思ったのか、美学校に。きっかけは何だろう。仕事が減って暇になったことですかね。不景気だし、この業界で働いている人はみんな厳しい。
それで暇になって何をするかなと考えた時に、たまたま美学校のことを知り合いから聞いて、「アートのレシピ」のオリエンテーションに行ってみた。そこで講師の松蔭さんと話をしたら、同い年でしかも僕と同じ大阪芸大写真学科出身だったんです。けどお互いに全然覚えていなくて。僕は一年浪人をして、彼はストレートで入ったんで一回生上だったんですけど絶対にかぶってる。そういえばヴェネツィア・ビエンナーレに行ったりアート活動をして目立っていた人がいたなという程度で、実際に会って話をするまで知らなかった。これは面白いぞ絶対来いよなと松蔭さんが言ってくれて、それで入りました。だから同じ年齢の人に教えを乞うというかたちで入って、逆に彼は彼で同じ年齢の人に教えなければいけないということで、すごく面白い関係が成り立っていて、とても楽しかったですね。
宮嵜 僕は美学校に入る前は小学校の先生をしていたんです。小学校には平和教育というのがあって、僕のところは広島の原爆ドームに行くんですけど、うまく伝えられなかったんです。基本的には戦争は駄目だよねということを言うんですけど、言葉では言えてもどう伝えたらいいのかはわからない。そんな時にChim↑Pomが原爆ドームの上空に飛行機雲で「ピカッ」と描いたことを知ったんです。これは面白いなと思ったんですよ。面白いというか、戦争は駄目だよねという、そうではない方向からアプローチしている感じに惹かれたんです。それでChim↑Pomを調べたら、震災直後に岡本太郎の「明日の神話」に福島第一原発の絵を付け足すということをやっていて、こいつらはヤバいな、一回会いたいなと思い美学校に見学しに行ったんです。
けれどもその時はChim↑Pomの「天才ハイスクール!!!!」は見学できなくて、「アートのレシピ」を見学しました。その時のエピソードなんですが、前に僕が電車の中で隣の人の膝の下に100円玉を落とした時になかなか拾えなくて、その時の気持ちをどうしたら作品にできますかねって聞いてみたんです。そうしたら、吊り広告に僕の100円玉知りませんかとか載せてみるとかそういう話ができて。何でもない話なんですけど。そういうところを真剣に受け取ってくれるというところで、こんな場所があるんだと思って、入った感じですね。
太田 私は高校卒業後、大学進学を考えていて浪人している時に、予備校で内海信彦という先生に出会ったんです。その時に、周りのみんなが大学行くから自分も行こうと無意識に考えていたということが、その人によって気付かされた。なぜ大学に行くんだろうなと改めて考えていた時に美学校という場所を紹介されて、内海さんの授業を見学させてもらったんです。今まで絵を見ても表面的な面白さだけを見ていて、昔の絵はつまらないなと思っていたんですが、社会的な背景とか、今までの歴史や技術の蓄積だとか、そういう絵の背景を教えてもらって、今までのアートの見方がガラッと変わっちゃった。それで美学校でもうちょっと絵やアートの深いところを見たいなと思ったんです。その後結局大学進学はやめて、一年浪人した後そのまま美学校に来たという感じです。
美学校では二年間内海信彦さんの元で絵画の勉強をしました。その二年間は絵の表現的な部分ではなくて中身的な部分を見てたけど、今度は絵自体の方を見たいなって、絵から社会が見えないかなって思って藤川代表に相談したらじゃあOJUNさんのクラスがいいんじゃないかって。「絵から社会を見る人だからそういう見方をしたいんだったらOJUNさんのクラスに行ったらいいんじゃないか」って。それで今OJUNさんの「生涯ドローイングセミナー」というクラスに通っています。美学校に入って今年三年目です。
生きることの豊かさを探したいから生きたい
皆藤 太田さんのことは美学校に入る前から知っているけど、美学校に入ってからかなり変わったよね?最初すごく真面目で、今でも真面目だけど金髪でもなかったし、美学校に来たり、渋家に住んだりするうちに、どんどん外へ外へと向かうようになっていったなと思う。
太田 だからあのまま大学に行っていたらと思うとすごく怖くて、私と同い年で大学行った人たちは今大体就職活動をしているんですが、何で働くのかという一番プリミティブな問題に対して考えていない人が多くて、「何で働くの?」って聞いたら「みんな働いているし。」とか、「働かなきゃ食えないし。」って。じゃあ何のために食うのっていう話になるじゃないですか。その話になると「何でだろうね。」ってその人たちはなっちゃう。私は楽しいから生きたい。楽しくなかったら生きるの辞めてもいいわけだし。経済的なものではなくて、もっと広い意味での生きることの楽しさとか豊かさというのを探したいと思うから、生きたい。だから働いて経済的に自立していかなきゃいけないということが出てくる。
今はそこのところがあるから動けてる。大学とか行っちゃって、今までエスカレーター式に続いてきた自分の生き方というものに対して、何も疑うことのない人たちは、何で生きるのかというところに対して、あまり疑問に思うことがない。多分あのまま大学とか行っていたら、私も今の時期は「就職しなきゃ。」っていって色んな会社行って特に興味のない会社もたくさん受けたりしたんだろうなって。
変われる可能性を見つけた
皆藤 雨田さんは半年間美学校に通ってどうでしたか?
雨田 半年で劇的に変わったかといったら正直変わってないです。それを求めてきたわけでもないし。学生の時に写真芸術といわれる分野のゼミだったんですね。余談ですけど松蔭さんは高岡ゼミというゼミで、ぶっちゃけていうとぶっ飛んだゼミで、写真なんだけど何でもありのゼミなんです。
それで高岡ゼミと有野ゼミというのが険悪の仲だったんですよ。有野さんは写真芸術一本。写真の範疇からは絶対に飛び出さない写真の芸術を追求する。高岡さんは面白ければ何でもいい。写真にペイントしてもよかったり、そういうゼミだった。
それで僕は有野ゼミでずっとやっていて卒業して、アート志向ではあったんですけど現実的に一人で生きていくにはお金を稼がなければいけない。お金を稼ぐためにはどうすればいいか。写真という技術が手元にあったから写真で手っ取り早く稼ごう、それで作品を作っていこうと思っていた。
けれども仕事一本でずっとやってきてしまって、振り返った時に自分の写真は何だって思った。自分で写真を撮ろうと思ったら何も取れない状態なんですよ。クライアントの依頼はちゃんと奇麗に撮るし、お金も払ってくれるしそれはそれでいいんですけど、いざ自分の写真を撮ろうと思った時に、何も撮れなくて、写真を撮ろうとするとストレスなんですよね。
何を撮ったらいいのかわからない。何か作らなきゃいけないけれども何もわからない。それに気付いたのが40歳近くて。暇になったから気付いたんですけど、結局自分一人であがいていてもどうすることもできない。
そんな時に美学校という存在を知って、最初大学かと思っていたんですけど私塾だということで来て、実際松蔭さんの授業を受けて、劇的に考え方が変わるとか、仕事の内容が変わるとか、自分の写真が撮れるようになったかといったら、やっぱりそうはなっていないけれども、なる可能性を見つけたということですよね。
太田 撮るの楽しくなりましたか?
雨田 まずiPhoneで撮るのが楽しい。iPhoneで撮るなんてあり得なかったんですよ。
太田 そうですよね。ちゃんと一眼レフで撮って、キレイな額に収めて。
雨田 まあそういう仕事でもなくて、額にも収めたことはないし、実は写真展もやったことがない。納品といったらポジで出版社なり、デザイン事務所なり、代理店に持っていってそれで完結。自分の写真は印刷物になるという感じ。そういう仕事で、とにかく写真展をやったことがない。iPhoneで撮るなんてまずあり得なかった。
皆藤 松蔭さんは最近いつもiPhoneで撮ってますよね。
雨田 彼の真似しようと思って、今対抗してFacebookに載せてます。
どういう環境にいようがその人の考え方一つ
太田 今の話を聞いていて言いたいのが、就職するのが悪いっていうことじゃないんですよ、ただ就職することの制約というか、就職してもいいんだけれど就職することが、自分の生きることの言い訳になっちゃってるというのかな、それって多分違うかなと思うんですよ。
やっぱり生きてるのって自分自身の問題だし、何で生きるのかって聞かれた時に、自分が生きる上での社会的な役割、学校の先生だとかカメラマンだとか、その前に、何で生きるのかという問いにどこかで答えを、言葉にならなくてもいいから出していなくちゃいけないと思って、それを就職とかしちゃうと「この仕事があるから。」とか、「俺がいないとダメだから。」とか人のせいにしちゃうじゃないですか。それって多分生きる理由にはならないと思うんです。
雨田 生きる理由というのは本当に個人的なことだと思うんだけど、僕は長年色々な会社員の人と付き合ってきて、彼らはサラリーマンで会社からサラリーをもらってやるべきノルマをやっているんだけど、彼らは彼らなりにそういう状況下で対応したり妥協したり色んな事をやってきて、哲学を持っている人もいるんですよ。
以前、会社員でプロデューサーをやっている人と出会ったんです。その人は、俺はお前よりも物づくりができると言っていた。それは何でかというと、会社という組織を使ってお前よりも予算をダイナミックに大量に使えるし、しかも自分が作りたいものをアーティストなり、音楽家なり、絵描きに頼んで、自分の思う通りのものを作れると。そういう人出会ったことがあるんですね。
そうなってきたら、一人で技術を学んで、絵を描いて人に知らしめるというのは本当に狭い範囲でしかない。それに対して彼は会社というものを使って、劇的にダイナミックに何千人も人を集めて、自分の思いを伝えることをやっている。その時に、どういう環境にいようがその人の考え方一つだって思った。そういう環境に持っていくことによってやりやすいこともあるし、だから会社に勤めることが良くないということでもないしね。
太田 そうなんです。
振り返ってみて正しい道を来たんだという自信
皆藤 宮嵜さんは大学行っていた頃はどうでしたか?
宮嵜 理工だったので、建築系に進む人が多かったですね。大学院とかに進んだ人はゼネコンとかに行ってるんでけど、でもその流れみたいなのはあって、就職活動する時期だからするみたいな。
皆藤 今の日本のシステムの悪い部分が就活というかたちで見えてしまうけれども、就職自体は何も悪いことではないんですよね。それで、大学に通いながら美学校に来ている人も実は結構いて、美学校と大学のどちらがいいというような話ではないんですけど、例えば就職活動をする時期だから就活をするというような大学の流れの中で、そういった問題を問い直す場所として大学とは別に美学校を活用してもいいように思います。大学は大学でいいところもあると思いますし。
太田 逆に美学校しかない社会っていうのもちょっと怖いよね(笑)。学校が美学校的なものしかない社会ってちょっと不安(笑)。
雨田 でもそれを知っていればいいんじゃないかな。
太田 むしろ美学校万歳というよりも、大学があって、色々な専門学校があって、その中にある美学校万歳っていう感じがする。
雨田 でも確かに大学を卒業して、エスカレーター式に就職活動をして、就職をしてという流れだとやっぱりわからないですよね。自分が何をしたいかだとか、何のために生きているのかとか。
太田 プリミティブなところが見えなくなる。予備校で内海先生に出会うまでそんなこと考えたこともなかったんですよ。当たり前のことなんだけど考えてみるとわからなくて。そりゃわからないよね。わかるわけもないんだけど、わからないことに気付いてなかったということが怖かった。
雨田 僕の時代は就職難なんて言葉がまったくあり得なかった時代で、バブルから少し外れてるんですけど、それでも引く手あまた。卒業が決まって内定すると他で就職活動できないように監禁されるぐらいなんですよ。電話かかってきてどこにいるのって聞いたら今ハワイとか。新卒を何十人も。
そういう時代だったので、就職に対しても疑問は全くなかったし、逆に生きていけるから、生きる価値とか全く見失っていた時代ですよね。卒業したらフリーランスで何の心配もなくやっていけるし、幸せ=お金という時代だった。まあ不幸な時代と言ったら不幸な時代ですよね。
だから今こうして悩んじゃったり、何を撮りたいのかとか、何のために写真を撮っているんだとか、何のために生きてるのかと疑問に感じている部分もある。そういう意味では不幸だったのかなと思いますね。
皆藤 どっちがいいのかという話になるとすごい難しいですけどね。今に比べ昔の方が仕事はあっただろうし。
雨田 その仕事のあり方というのが歪んでましたよね。学生が卒業して、フリーランスだという名刺を刷っただけで月収50万なんて当たり前の時代でした。
太田 具体的な数字を聞くとすげーって思う。
雨田 僕の友達が某出版社にカメラマンとして入った初年度の年収が800万ですからね。
一同 すごいな。
雨田 3年目で一千万越えというのが当たり前だったんです。けれども今彼は会社を辞めてフリーランスになって、今は年収400万とかそれぐらいなんですよね。何が正しいとか間違いだかとか、本当に過去になってみて初めて気付くという部分は多いですよね。
人間の生き方も正しい道というのはなくて、振り返ってみて正しい道を来たんだという自信を持てる生き方、これを一生懸命考えていくしかないのかな。僕が出た大学は大阪芸大なんですけど、大学を出て不動産業に行った人がいっぱいいた。当時の不動産は本当に良かったんですけど、そういう人たちは見失っちゃってますよね。
太田 逆に私たちの世代なんか夢を見た経験が一回もないんですよ。私は89年の平成元年生まれで、それからすぐバブルがはじけたんで。だから美学校というところがストンと自分の視野の中に収まってきた感じはありますね。多分バブルの時に美学校を知ってもピンとこなかったんじゃないかな。大学を出た後にバラ色の人生が待ってると思うと、多分美学校なんて見逃しちゃう。
皆藤 不況の時こそ絵を学びたいという人が増えるという話は聞きますね。働けない分、それこそ余計なことを考えてしまうんでしょうね。
太田 ソクラテスもただのニートだったらしいからね。
直球をストーンと投げてきてくれた
雨田 アートのレシピの授業は、松蔭さんの主張とか考え方とか授業の内容というのが、断定的なんですよ。アートとはこうであるとか。よく彼が使う手癖とか表現とかも、彼なりの考え方があり断定的で、それに対して自分は賛成するのか反対するのか、はっきりと自分の中で決められるという部分がすごく良かったかなと思います。
やっぱり松蔭さんの意見に反対な部分もあれば賛同できる部分もある。それで反対なら反対意見ぶつけてこいよって言われる。反対するにもこっちにはまだ確実なものがないから、それができなかったのが少し悔しいかなと思います。向こうは経験や裏付けがあっての言葉で、僕は思いつきでしか言えない言葉だったのかな。
皆藤 けれどもその引っかかりは多分先につながっていきますよね。
雨田 乞うご期待。
皆藤 断定する物言いが良かったというのは面白いですよね。
太田 内海さんの話を初めて聞いたのが予備校だったんです。それまで受けていた予備校の授業は、お客さんとお店の人みたいな距離感だったけど、内海さんはストーンと私に向かってくるんですよ。それが衝撃的だった。これは良くない、これは悪いって断定するんですよ。内海さん以外の先生は模範解答はするんですけど結局じゃあ何なのっていう感じだった。私とあなたという距離感で答えてはくれない。そこのところを直球でストーンと投げてきてくれたのが内海さんだったんですよね。
雨田 そうなんですよね。だから難しい理論とか言われても、もう頭が固くなっちゃっているので多分ついていけなかったんでしょうけど、松蔭さんの場合は好きか嫌いか、こういう考え方だ、だからお前等も倣えっていうふうにストーンとくるので、いや嫌だ、嫌なら反論してみろ、そういう言い方、授業内容。もうしゃべくり授業ですけど、それが僕の場合はよかったですね。
皆藤 宮嵜さんはアートのレシピを受け始めて一ヶ月ですけどどうですか?
宮嵜 何でも松蔭さんの美術につながっていくんですよ。100円玉を落としたのもそうだし、前髪を自分で切る女とか、話題が色々あって、それが全部松蔭さんの中でつながっているというのが自分としては嬉しかったというか。その分逆に僕の話とかもつなげてくれるし、振り返ると自分がダンスしていたこととか、そういうことも美術として意味があったのかもしれないなとか。
皆藤 今宮嵜さんは三つ授業を受けているじゃないですか。アートのレシピ、天才ハイスクール、生涯ドローイングセミナー、それぞれどんな授業ですか?
宮嵜 小学校の先生をしていた反動なのかもしれないですけど、今ハレンチなものばっかり作っているんですよ。特に天才ハイスクールではそれ満開な感じで。ロリコンではないんですけど少女を扱ったものだったりとか、裸とかを全面に出しているのが天才ハイスクールですね。
太田 元小学校の先生が(笑)。ヤバいね(笑)。
宮嵜 とりあえず作品を持ってきてと言われるんで、何も考えずぽんぽん出してる感じです。逆にアートのレシピは考える感じですね。松蔭さんが授業で色々言って、それを形にする前に振り返らないとダメな感じですね。
絵を描くこと、写真を撮ること
太田 私の場合は、受けて来た二つの授業の対比になるんだけど、内海さんの授業では基本的にその場では描かなくて、作品を持ってきて講評してもらうというスタイルで、逆にOJUNさんのクラスはその場で制作をするし、OJUNさんがほとんどしゃべらない日もある。
それぞれの面白さがあるんですけど、内海さんのクラスでは内海さんの話を聞くのが面白いですね。絵を描く行為ってすごくプリミティブなことだし、電話しながらでもやっちゃうようなことだけど、でもそれって一体なんなのかなということを考えさせられる授業なんです。それに対してOJUNさんの授業は基本的に、ただ描くという作業に没頭するっていう場所なんですよ。自分もグッと描く方に入れるからそれが面白いのと、描いている場を他の人たちと共有できるのがすごい面白いんです。
制作って個人の格闘じゃないですか、一つの画面に対して一人で取り組まなきゃいけない。だけどパッと前を向けば何人か生徒がいて、それぞれがそれぞれの絵に対して、一人で戦っている姿を見れるわけですよ。それに勇気づけられるし、どんな画材を使っているのか勉強にもなるし、それはそれで面白い。
雨田 絵を描く行為が最も原始的だという部分はすごく引っかかっていて、写真というのは道具がないと撮れないじゃないですか。しかもその道具の性能が年々上がっていて、持ってるカメラによって撮れる写真が違ってきたり、能力を決められてしまう世界なんですね。特に仕事で写真を撮っていると。
太田 だってどのカメラを持ってますというだけで仕事がくるぐらいですもんね。
雨田 それに対して今思えば、僕は松蔭クラスに救いを求めていたのかもしれないというのがあります。それは何でかというとiPhoneで撮るという行為はまさにそうで、松蔭さんのクラスを受けなければiPhoneで撮るという行為は絶対しなかったんですよ。それは完全に道具に頼っている仕事しかしてこなかったからなんですね。
道具の進化が止まったり、カメラがなくなった時に僕は何をすればいいかという部分で不安を感じていたり、もしカメラを買う財力がなくなってしまったらどうしようとかね。そういう意味では松蔭さんは何で勝負をしているかというと、アイデアとか思想であるとか、アートをやっていることだったりする。
松蔭さんは僕の根拠はマン・レイだと言いきった。そのすごさに僕は本当にびっくりして、マン・レイの時代というのは写真の機材なんてあってないようなものだけど、未だに通用する写真だし、気付かされたというか、思い出した。機材に頼らずに自分を表現していくという部分を。
皆藤 写真は今携帯でも撮れるし、みんな撮ってますけど、結局残ってきた写真もしくは残っていく写真というのは何なのかということですよね。
雨田 そうなんですよね。未だに残っている写真というのは、アンセル・アダムスだったりマン・レイであったりする。でもそれじゃ悲しいだろうって。ブレッソンやダイアン・アーバスとか、戦争カメラマンのキャパが撮った写真は、地球の裏側で戦争を終わらせたと言われるぐらいの写真ですけど、そういったものはデジタルになってからないですよね。だから道具ではないんだという部分は最もアートのレシピで学んだことですね。
宮嵜 道具じゃないと思ってからスマートフォンで撮るようになったんですか?
雨田 そうわけでもないんだけど、スマートフォンで撮っている自分に気付いて、えーっていう感じですよね。楽しくてしょうがないんですもん。
皆藤 絵に感覚が似てきているのかもしれないですね。絵は誰でも描けるわけじゃないですか。写真も誰でも撮れるようになった。一つ一つのカメラの性能も上がってきてるし。
偏りとしての美学校
太田 私たちの世代って、みんな違ってみんないいって教えられてきた。みんなそれぞれ個性があるんですよ、だからみんないいんですよって言われてきた。でもそれっておかしいじゃないですか。みんないいわけないじゃないですか。みんな違うんだからお互い反発もあるし、良い悪いはあるんですよ。
美学校というものを意識し出した時にやっとそこに目が向いた。悪いものは悪いんだって。それは内海さんとか、松蔭さんも多分そうですけど、偏った人を見てこれでいいんだって思った時に、心が自由になったんですよね。私が良いと思うものを良いって言っていいんだ、ダメだと思ったものをダメだって言っていいんだって。
雨田 偏りって大切ですよね。
太田 みんな違ってみんな悪い場合もあっていい。みんな違ってみんないいっていう甘い言葉が、無意識の中でずっと自分の中の基底にあった。そしてそれを壊してくれたのが美学校かな。
雨田 集団があってみんな同じ方向を向いているのか、集団の中に色々な偏りがあって集団が成り立っているのか。今の日本はまだまだ一つの方向を向いてしまっていますよね。
皆藤 だからこそ一つの偏りとして美学校という場所が価値をもってくる。
雨田 そう。美学校はもっとここを宣伝しなきゃダメよ(笑)。
皆藤 美学校だと、例えば高校を出てまだまだ右も左もわからないような人と、雨田さんのように長年仕事をこなしてきた人が、同じ机で授業を受けている。そう状況は日本の大学だったらあり得ない。大学は同世代の横のつながりはあるけど、世代間の縦のつながりはない。美学校は逆ですよね。美学校に来るとまず藤川代表と話すことになるわけじゃないですか。
雨田 僕が藤川さんと最初に話した時は、声が小さすぎて聞こえねぇー、って(笑)。
太田 そうなんですよね(笑)。最初の時は、すごい近づいて聞いて、えっ?えっ?って。
皆藤 あのなゴニョゴニョ・・・、だからなゴニョゴニョ・・・、お前なゴニョゴニョ・・・って最初の一言しか聞こえない(笑)。
太田 最後は自分で考えなきゃダメなんだよって、ポンって肩叩かれた。入学試験がない分、藤川さんと話すのが入学試験みたいな(笑)。
雨田 まず電話で声が聞こえなかったんだよね(笑)。電話したら藤川さんが出て、美学校というのを知りたいんですけどって言ったら、小声で、じゃあ一回来なよ、みたいな感じで(笑)。
皆藤 字の書き方もすっごい変だし(笑)。
太田 モニョモニョモニョって書くね。
雨田 雨田くんは何が取りたいんだって、こもったような小声で言われて。
宮嵜 それは僕も最初に言われました。何をしたいんだということを聞かれて、答えてるつもりなんだけど全然答えになってなくて。それでその時思ったんですけど、ずっと断定的なのが嫌いだったんですよ。
戦争はダメだとかそういう発想は、その時点で考えが止まってしまうし、その分ある種こうしたいんだっていうのも強く出せないなと思って。それをまだ藤川さんに言えてない。
雨田 断定することによって反対されるのが嫌だというのはありましたね。人の顔色をうかがってしまう。
太田 それはありますね。その時にみんな違くてみんないいみたいな言葉に則っちゃうとラクなんですよね。あぁそれも良いねーって言っちゃえばいいだけの話だから。
皆藤 自分の生き方を貫くための断定。というかそこは断定していかないとダメですよね。アーティストになるんだったらまずそれが第一だし、アーティストはみんなそうですし。
雨田 そういう部分では僕がやっている写真とアートという世界は根本的に相反する。よくデザインはどこまでがアートだとか、アートとデザインの違いは何だとかありますけど、根本的に違うのはそこですよね。
広告で撮る写真とアートで撮る写真の違いもそこで、まずクライアントありきで、その部分で自分の主張変えなければいけなかったりする。そういう世界で20年以上やってきた。そこではむしろ自分の考えは邪魔になってくる。その中で20年もやってきたんだから、そこで自分で表現しようと思った時に、何も思い浮かばないというのは当たり前ですよね。だから美学校に来て良かった。
太田 今日は美学校に来なきゃ良かったって人がいないのがつまらないよね(笑)。
皆藤 くそー騙されたよみたいな?酒飲んでるだけじゃないかよ。俺酒飲めないのに、みんな酒飲んで楽しそうにして、何なんだよここみたいな(笑)。
太田 美学校コノヤローみたいな意見があったら面白かったかもしれない(笑)。
皆藤 ではそれは次回ということで、今日はどうもありがとうございました。