「POP ILLUSTRATION塾」講師・スージー甘金+小田島等インタビュー


スージー甘金さんと小田島等さんが講師を務める「POP ILLUSTRATION塾」。イラストレーター、デザイナーとして長年活動しながら、近年になって「日本ポップアート協会」を設立するなど、今も変わらず「今日のPOP」を走り続けるふたり。そんなふたりの出逢いは約40年前にさかのぼります。一人の人間の人生を変えるほどの力を持つ「POP」とはなんなのか。POPによって固く結ばれたおふたりの師弟対談をご堪能ください!

pop_01

写真左よりスージー甘金、小田島等
伊勢丹新宿アートギャラリーで開催されたスージー甘金個展「新宿POP」にて

スージー甘金(すーじー・あまかね)|1956年東京生まれ。元祖マンガイラストレーター、コミック画家。多摩美術大学グラフィックデザイン専攻卒業。1982年に雑誌『宝島』でデビュー後、多くの雑誌や広告、TVCMなどにイラストを提供。マンガ的要素や企業ロゴ、現代アートのモチーフを徹底的に引用した諧謔的作風は、後進の作家たちに多くの影響を与える。音楽業界のクライアントワークも多く、電気グルーヴのロゴやジャケットワークをはじめ、KUWATA BAND、山下達郎などのジャケットに数多くのイラストレーションを提供。主な著作に『POPPO ART』(荒地出版社)、『少年ポンチ』(ジャパンミックス)、『塗COMIX』(音楽出版社)など。近年の主な展覧会に「新宿POP」(新宿伊勢丹アートギャラリー、2024)、「EARLY WORKS in 1980’s」(Akio Nagasawa Gallery Aoyama、2024)、「艺术包」(FAITH GALLRY、2022)など。小田島等とともに“日本ポップアート協会”を結成。60年代ポップアートを再評価すると同時に、その精神を受け継いだ2020年代対応の新型ポップ・イラストレーター&ポップ画家の発掘および育成を行っている。Twitter:@suzyamakane Instagram:@suzyamakane

小田島等(おだじま・ひとし)|1972年東京生まれ。デザイナー、イラストレーター。桑沢デザイン研究所卒業。高校時代に雑誌『イラストレーション』誌上コンペ「ザ・チョイス」にて印刷物デビュー。専門学校時代にスージー甘金のコガネ虫スタジオで修行し、“POP”の矜恃に触れる。1995年より音楽ジャケットや書籍装丁、広告物などのデザイン及びアートディレクションをスタート。音楽系では遠藤賢司、はっぴいえんど、ムーンライダーズなどのベテランから、サニーデイ・サービス、シャムキャッツ、くるりなど幅広く手がける。MVのディレクションも多数。近年では小説家・吉本ばななの装丁を手がける。主な著作にデザイン作品集「ANONYMOUS POP」(P-vine books)、漫画作品「無 FOR SALE」(晶文社)、監修本「1980年代のポップ・イラストレーション」(アスペクト)、音楽作品にBEST MUSIC「MUSIC FOR SUPERMARKET」(Sweet Dreams)がある。2024年に伊勢丹新宿アートギャラリーで開催されたスージー甘金の個展「新宿POP」にてディレクターを務める。Twitter:@odazzi Instagram:@odajima_works

幼少期に受けた二大ショック

スージー 子どもの頃からマンガが好きで、小学生の頃はひたすらマンガを写してました。なかなかうまく描けないんだけど、ある時、家のガラス窓に紙を当てて透かせばうまく描けることに気づいたんだよね。まぁ、単純にトレースなんだけど(笑)。“子どものアトリエ”っていうところに通って絵を習ってたから、トレースなんてとんでもないことだって分かってたんだけど、その発見は大きかったですね。

小田島 なるほど。その時はどういったマンガを写していたんですか?

スージー 横山光輝さんの『鉄人28号』とか『伊賀の影丸』ですね。『伊賀の影丸』のほうが多かったかな。忍者漫画だから走ったり飛んだりするアクションが多いんだよ。『鉄人28号』はロボットだからアクションがあんまりないからね。『鉄腕アトム』とかも写してたけど、どちらかと言うと手塚治虫さんより横山さんの絵のほうが格好よくて好きでした。

小田島 なるほど。手塚さんは流線的ですが、横山さんの重心下の安定した人物の描き方にはスージーさんのルーツを感じますね。アメリカやヨーロッパの漫画は目にしてましたか?

スージー 家の本棚にアメリカンコミックがどっさりあったんだよね。絵が好きな親類の叔父さんがいたんだよ。それを小学校2年生ぐらいで目にしたときはショックでしたね。それまで読んでいた少年誌は白黒だけどアメコミはカラーでしょ。トレースに続く二大ショック。今思えば、昔のアメコミは印刷が荒い網点だからそこで既にロイ・リキテンスタインの魅惑をおぼえているんだよね。アンディ・ウォーホルも、『ディック・トレイシー』とか『ナンシー』を子ども時代に見ていて、後に作品化してるよね。

小田島 スージーさんが子どもの頃にアメコミを写した絵の実物を以前見せていただいたことがあります。スージーさんのまっすぐな歩みがよくわかるものでした。

スージー 『ディック・トレイシー』のマンガの上から日本語でセリフを書き直してたりしているんだよね。後々、マンガをキャンバスに描きたいと思ったときに、セリフを英語にしたかったんだけど、英語できないからローマ字にしたんだ。

pop_02

スージーさん私物のロイ・リキテンスタインの画集。60年代末のレアなもの

音楽とファッションへの興味

小田島 根本敬さんや伊藤桂司さんを含め、スージーさん達の世代にとってロック音楽というものは切っても切れない関係だと思います。子どもの頃にわがままを言って親に買ってもらった海外のレコードってあります?

スージー レコードを買うようになったのは中学に入ってからかな。金がないから親に「音楽の授業でクラシックを学ばなくちゃいけないから、レコードを買いたい」と言ってお金をせしめるわけ。それでビートルズのレコードを2枚買って、残りのお金でクラシックの安いレコードを買うんですよ。それを見せて「お母さん、買ってきたよ」って(笑)。

小田島 あはは(笑)。ロック雑誌も買ってたんですか?

スージー 買ってました。だいたい『ミュージック・ライフ』でしたね。基本聴いてるものはロックなんだけど、しばらくするとグラム・ロック(デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージック)を知るんだよね。グラムって服がすごいじゃん? なんていうのかな、お母さんが作ってくれた服に近いみたいな。既製服と手作りの中間みたいな感じで、しかも、今まで見たことないようなスペイシーなデザイン。

だから、そもそもは服を作りたかったんだよね。高校の頃はミシンを使って自分で縫ったりしてたんだけど、当時は男性が服作りするってまだ一般的じゃなかったから、親もそっちの方向にあんまり行かせたくなかったみたい。その頃はグラフィックデザインを大学で選考しようなんて考えてなかったな。レコード屋かブティックに勤めたいと思っていた。

小田島 スージーさんの美のルーツにはグラムのファッションもあるんですよね。ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーはUKポップアートの画家のリチャード・ハミルトンの教え子ですよね。グラムのキッチュ感覚はポップアートの正統子孫と言えます。

スージーさんのお父さんは、渋谷の喫茶店で店長をされていて、スージーさんもそこでアルバイトをしてたんですよね。

スージー そうなんだよ。センター街の真ん中(ファーストキッチンの辺り)にある南洋風コンセプトの店で、マーティン・デニーがかかっているような喫茶店でね。大学に入る前は毎日バイトしてたよ。バイトの後は渋谷のディスクユニオンと小滝橋通りの新宿レコードを回って、実家がある三鷹にもドミノっていう小さいレコード屋があったから、寄れればそこにも寄ってから家に帰るのが日課でした。

pop_03

ニュー・ウェイヴ、ヘタうまとの出会い

スージー 22歳で多摩美に入るんだけど、その頃もまだレコード屋かブティックの店員になりたいなと思ってたからね。22歳って現役だと卒業している年でしょ。1977年はトーキング・ヘッズのデビューの年なんだけど、通ってみると美大と言えど案外普通っぽい人が大半で、自分はパンクとか先端的なものが好きだったからどうにも趣味が合わなくてね。どうやって距離を縮めたらいいのやら分からなくて、大学ではわりと孤立していたかもしれない。予備校で「大学に行けば自由だから」って言われたけど、全然自由にやらせてもらえないしね。

そんな中で「ナイロン100%」のプロデューサーで店長の中村直也くんと出会って、彼がやってた音楽系の仕事を手伝ううちに多摩美には行かなくなっちゃいました(笑)。中村くんは、『ロンドン・ブック』と言うガイド本で当時のイギリス文化を日本に引っ張ってきた重要人物。奥平イラもその一味ですね。

小田島 奥平イラさんはスージーさんの当時の相棒。マルチ・アーティストですね。先んじてCGで漫画を制作なさっています。ナイロン100%は渋谷にあった伝説のニュー・ウェイヴ喫茶ですよね。ナイロンには毎日顔を出してたんですか?

スージー いや、毎日は行かない。当時はニュー・ウェイヴ系のお店が渋谷とか原宿とかにポツポツ出来だした頃。レッドシューズとかピテカン(ピテカントロプス・エレクトス)とか。でも、そこらへんから自分はグラフィック方面に興味を持ち出したかな。

小田島 その時期に「ヘタうまムーブメント」にも触れるんですよね。

スージー そうです。大学3年生の時、ちょうど大学に行かなくなり始めた頃。イラストレーターの霜田恵美子さんが宝島のJICC出版局の専属デザイナーみたいになってて、僕も中村くんの手伝いでJICCの仕事をやってたんだよね。それで霜田さんが僕の仕事を見ててくれたみたいで、「今、湯村(輝彦)さんを中心にして若い人たちを集めてるから一緒にやりませんか?」って誘ってくれたんだよ。それが東京ファンキースタッフ。

根本さん、伊藤桂司さん、安齋肇さん中村幸子さんもそのファンキースタッフで知り合いました。他のメンバーは湯村タラ、伊藤桂司、太田螢一、飯田三代、蛭子能収、日比野克彦。いろんな場所で展示をやりました。

小田島 東京ファンキースタッフの中から現在3名も美学校で講師をなさっています。そこ知れぬ美学校の引力(笑)。

pop_04

インタビュー時。根本敬さんらによる「幻の名盤解放同盟」が監修を務めた
『ポンチャックアート1001』(東京キララ社)を、根本さんがお二人に手渡す場面

運命の一冊『郵便ポスト・モダン』

スージー 大学を卒業するかしないかの頃、一瞬デザイン事務所に籍を置いたんだけど、あまりにも給料が安くて結局辞めて。1982年に湯村さんの薦めで雑誌『宝島』のVOW(バウ)で連載をはじめて、それが広告塔になって仕事が増えていった感じだよね。

小田島 最近発見したんですけど、テイトウワさんも若い頃バイトしていたと言うCSV渋谷(1985〜)という伝説のレコード屋があったんですが、そこのオープン時の広告、スージーさんがイラストを手がけてますよね。

スージー マンションの隣の隣に住んでた人がデザイン事務所をやってたみたいで、「同じ階に住んでる者ですけど……」ってある日訪ねてきて頼まれたんだよ。表札に「スージー甘金」って出してたからわかったんだろうね。音楽っぽいものを描いてくれればいいからって感じで、その頃は内容的にゆるいものが多かったから、仕事って結構楽しいんだなって思っちゃったよね(笑)。

小田島 東京の街が面白くなって行く頃ですよね。スージーさんの一世代上の人たちとなると、吉永小百合の映画のワンシーンのように、工場の帰りに河原でギター弾いたりして、娯楽は極めて質素だったと思うんですが、スージーさんの世代になると若者文化が爆発しますよね。その世代が、戦後の暗い影を最初に抜け出した人々だったのではないでしょうか。

スージーさんが1987年に著した『郵便ポスト・モダン』を、僕は中学2年のときに広尾の青山ブックセンターで立ち読みするんです。はじめは、当時流行ってた海外のSF映画の本を見に行っていて、その隣のオタク系のコーナーには『アニメージュ』や『宇宙船』があり、さらに奥に『ガロ』や青林堂コーナーがあって。

スージー そういうコーナー、昔あったよね。どう思ったの?

小田島 何か怖い感じもして最初は近寄らなかったんですよ。湯村輝彦、霜田恵美子、みうらじゅん、内田春菊、渡辺和博、なんきん、蛭子能収、原律子等の本を見て驚きます。中でも一番ビックリしたのがスージーさんの『郵便ポスト・モダン』でした。なんかパッと見てお洒落な本だなと思ったんです。

それにしても、湯村さん、スージーさん、根本さん、桂司さんにしても最先端の表現をしているのに極めて普通の人というか、東京人のシャイネスというか、そういう感覚がある人たちなので「どうだ、新しい表現してるぜ」とならない辺りがかっこいいですよね。

スージー 特に湯村さんはそうだよね。

小田島 ヘタうまの作家達は表と裏、どちらの街道も同時に歩んでますからお洒落という分かりやすい立ち位置ではない。そのあたりが江戸前の落語家のようです。

あと、僕も『郵便ポスト・モダン』を買う時に「釣り竿を買う」と言って親を騙したんですよ。釣り竿は公園で盗まれたとかなんとか言って(笑)。

スージー みんなそんなことばっかりやってるな(笑)。

pop_06

ポップアートとスージー甘金との出会い

小田島 話は前後しますけど、『郵便ポスト・モダン』に出会う2〜3ヶ月前に、中学校の図書室で百科事典を見ていて「ポップアート」のページを目撃するんです。見開きにウォーホル、リキテンスタインだけじゃなく、エドゥアルド・パオロッツィ、ジム・ダイン、アラン・ダーカンジェロ、ジョー・ティルソンなんて人たちまで載っていて、「なんだこの美しいものは」と。ウォーホルなんて絵画みたいに扱われてはいるけれど、パッと見写真じゃんという。画材も油絵や水彩ではなくて、シルクスクリーンとかミクストメディアとか聞いたこともないものばかりで。

スージー 世のテクノロジーと同期して画材も変わるんだよね。特にポップアートで顕著に変わる。

小田島 『郵便ポスト・モダン』にはリキテンスタインとかアレックス・カッツとかジャスパー・ジョーンズとかポップアート作家の名前がかなり出て来ますよね。あと、ブライアン・イーノとかトーキング・ヘッズ、バウ・ワウ・ワウ、中西俊夫のMELONとか、最新の音楽系の人たちの名前もやたら出て来る。

スージー 宇川直弘くんに「ブライアン・イーノの名前を初めて知ったのはスージーさんの漫画です」と言われたんだよね。石野卓球くんも僕の下品な漫画を愛読していたようです。

小田島 子どもの読み物にしてはだいぶ刺激的でした。それで、ある時『宝島』を読んでいたら、スージーさんの展覧会が原宿であると知り、生まれてはじめてギャラリーという場所へ行くんです。中学の帰りに学生服で。ドキドキしながら会場をのぞいたら窓からスージーさんが見えて「うわ、スージー甘金だ」と。会場に入ったら小林克也さんと安齋肇さんもいらっしゃって。緊張するから頑張って絵だけを見てたら、小林さんがあの低い声で「スージーくん、あの子は親戚?」って(笑)

スージー 覚えてるよ。このくらいの年齢の子が来るんだと思ってびっくりしたけど、不思議と違和感がなかった。冷静に考えたらずいぶん早熟な子だなと思ったけど。

小田島 その1週間後くらいにバスに乗って青山の骨董通りを通過する時にスージーさんが信号を渡っているのが見えて「あっ」ってお互いに目があって手を振ったんですよね。

スージー あったあった。憶えている。あれは不思議だったね。

pop_07

“ヘタうま”は日本のニュー・ペインティングである

小田島 1990年、未成年の小田島は『イラストレーション』誌のコンペ「ザ・チョイス」に入選します。スージーさんが審査員をやる回に狙い撃ちです。十代の終わりにそういう事があって調子に乗るんです(笑)。同じ回に美術家の中ザワヒデキさんや竹屋すごろく(ヒロ杉山)さん、後のタイクーングラフィックスの鈴木直之さんなども入選しています。

スージー 中ザワくんの作品は僕の絵を引用したパロディだったから結構迷ったけど、CGだったし他の人とアプローチの仕方が全然違ったから選んだんだよね。小田島くんも他の人と全然違った。

小田島 ありがとうございます。これはすごく重要な話なんですけど、中ザワさんが1989年に著した『近代美術史テキスト』(トムズボックス)の中で、スージーさんやヘタうまムーブメントと、世界中で起こったニュー・ペインティング・ムーブメント、新表現主義とのつながりを論じています。これはかなり先見的なもので、2024年現在の日本を見渡すと、かつてイラストレーションと呼ばれていた類のもののアート化があるじゃないですか。この様相を、中ザワさんは89年の段階で言い当てていると言えます。

ちょっと話は変わりますが、少し前、根本さんがプロデュースした蛭子(能収)さんのAkio Nagasawaでの新作展の絵画は、図らずも(認知症により)ゲオルグ・バゼリッツのようになっていませんでしたか?

スージー 確かに蛭子くんのあの絵、バゼリッツにそっくりだ(笑)。

小田島 そして、今、東京都現代美術館で開催中の高橋龍太郎コレクション展(2024年11月に終了)で根本さんのゲルニカ大の絵画《樹海》が展示されています。これはとんでもないニュースです。ますます、ヘタうまから目が離せません。

pop_08

1990年の『イラストレーション』誌に掲載された第53回ザ・チョイスの審査結果
右頁上段に小田島さんの作品、下段に中ザワヒデキさんの作品が並ぶ

人生における重要人物

スージー 僕なんかはCDの仕事をはじめてやったのは30歳ぐらいだけど、小田島くんは僕より早かったよね。青木和義さんっていう人がいて、もともとは葡萄畑っていうバンドのメンバーだったんだけど、この人のことを話さなくてはならない。

小田島 ポリドールのディレクターになった葡萄畑の青木和義さん。

スージー 通称「青ちゃん」。

小田島 葡萄畑は1974年にデビューを果たし、 アルバム2枚で解散したんですけど、グラムやモダン・ポップを咀嚼した日本では珍しいグループですよね。

スージー サディスティック・ミカ・バンドは別格として、葡萄畑はどの曲も徹底的に引用度、パクリ度が高くて、精巧なんだよね。2ndの『スロー・モーション』が特にお気に入りです。

小田島 スージーさんは多摩美時代に葡萄畑の追っかけをしていたりと、青木さんと親交が深いんですよね。葡萄畑のセカンド『スロー・モーション』は、既存のロック曲のメロディをギリちょんまで盗んでいる知的なアルバムで、そ、“開き直った諧謔的な態”はスージーさんの世界観にかなり近いものと読むことが出来ます。

スージー うん。イギリスの10ccも好きだけど葡萄畑にもすごく影響を受けている。渋谷のジァン・ジァンなんかにライブを観に行ったりしてね。神宮前の裏通りを歩いていたらドラムの武末充敏さんに道で会って気さくに話してもらったり。葡萄畑の解散後に青木さんはポリドールで働くようになって、最終的にはスピッツを発見したりしている。小田島くんも違うルートで青木さんと出会ってお仕事をしているんだよね。全ての道は青ちゃんへと繋がるよね。

小田島 ホントですよね。お話変わりますが、スージーさんの新宿にあったスタジオには色々な若手が出入りしてましたよね。ファイルを持ち込みに来たイラストレーターの卵なども沢山いたと思います。

スージー アシスタントをしっかり努めてくれた、イラストレーターの川崎タカオくん。彼は商業絵描きとして本当に優秀になったよね。アルバイトでは花くまゆうさくん、白根ゆたんぽくん。本秀康くんとマー関口くんは外部スタッフと言えるかな。

小田島 スージーさんを紐解く場合、本秀康さんの存在も重要です。描法で言えばスージーさんの塗り込みを一番継承している作家と言えます。2008年に本秀康さん監修の『塗COMIX』が出版され、その勢いを受け僕も『1980年代のポップ・イラストレーション』を編集します。

スージー この時期に80年代の本を出すのはちょっと唐突な感じがしたけれど、実はとても予測的な本だよね。自分は80年代デビュー組の人間だからあんまり違和感ないけど、別にその時そういう潮流があったわけじゃないし、今みたいにシティ・ポップが流行っていたわけでもないし。永井博さんや鈴木英人さんも載ってるし、ちゃんと押さえてるよね。

小田島 これに反応して都築潤さんが『日本イラストレーション史』っていう本を編集したので、『塗COMIX』と『1980年代のポップ・イラストレーション』と『日本イラストレーション史』はひとつながりの書籍ではないかと。

スージー 電子書籍にしたらどう?気になる編集者は小田島くんに連絡して上げてください。発売当初、書店でも並べて置かれていたんだよね。潜在的なところで、この流れの意味をちゃんと分かっている人がいるんだよね。

pop_09

小田島さんが監修した『1980年代のポップ・イラストレーション』

そこに理屈はない──ポップという哲学

スージー 美学校は小田島くんに連れられてきたけど、来てみたら思ったより今っぽくてすごいなって。僕が多摩美に行ってた頃は美学校って古臭くて暗いイメージだったんだよね。ロゴも怖いし(笑)。だけど今はまったく逆で、若い人が沢山居て最高だなと。最初は小田島くんとゲストを呼ぶ形で講座がはじまったよね。

小田島 そうですね。2020年にオープン講座「日本ポップアート学会presents ポップカルチャー温泉♨️」を開催して、永井博さんや中村幸子さん・桃子さん、白根ゆたんぽさん、木村豊さんをはじめ、いろんなクリエイターの方々をお呼びしてお話をききました。

スージー ご本人の趣味から技術的なことまで根掘り葉掘り。

小田島 美学校は自由で素晴らしい場所だと思うんですが、例えていうなら贈与的、プレゼント的な情緒が残る最後の場所と言えるのではないかと。資本主義ってテニスで言うマッチポイント的なものじゃないですか。プレゼントではない。

いまや、オフィスなどはここのモノはきちっとここに返してくださいってというのがほとんどですけど、美学校ってああいう“ごちゃごちゃしたゾーン”があるじゃないですか(笑)。ああなっていても何を取っちゃいけなくて何を取っていいか、皆わかってる状況がありますよね。何を言わずともお互いに状況をプレゼントしあって、曖昧を許しあっている。本来人間はこうやって生きられるはずなんですよね。

スージー なるほどね、面白い。かつて美学校でも講師をなされていた赤瀬川原平さんのトマソン芸術に通じるところがあるな。

pop_10

ごちゃごちゃしたゾーン

小田島 そんな場所でスージーさんと講座を持てるのはとてもうれしい。

スージー 今までの業界経験の中でいろんな技術を培って来たよね。得てきたことをポンと捨てるわけにもいかない。よくよく考えたら勿体ない。伝承したほうがいいよね。

小田島 去年からやっている「POP ILLUSTRATION塾」は、講座名を決める段階が面白かったですよね。二人でいろんな名前を挙げたけど、結局「POP ILLUSTRATION塾」に落ち着いた時にバチッとハマった。昨今、印刷物自体がつくられなくなってきて、経済的効果としてのイラストレーションが下位に下がっているように見えるけど、これだけ長く続いたものは浮世絵のように残って行くであろうと。あと、僕もスージーさんも、ハードコアでもインダストリアルでもロックでもない「ポップ」というひとつの哲学の利をずっと考えていますよね。

スージー 「イラスト」っていう言い方も別に嫌いじゃないけど、この講座には「イラストレーション」があってるよね。しかし「イラスト塾」じゃないんだよ。そのあたりの違いがわかってくればいいなって。ただ、僕らの先輩たちが言うような堅苦しい「イラストレーション」ではなく、さらにポップなものかもしれない。

小田島 ポップとユースカルチャーはつながってきますから、そこに「理屈はいらない」と言うのはありますよね。踊りたいから踊る。かわいいから着る。かっこいいからスニーカー買っちゃうってことがポップカルチャーだから、ずいぶんと理屈じゃないわけで。理屈なしで元気よく行けることもひとつの術であると。スージーさんは皆に元気を与えてきたイラストレーターだから、そういうところを教えるのがうまいなと。

スージー 理屈をつければいくらでもつけられるんだけど、なくて済むんだったら、理屈がないほうが最高かもしれない。そのほうがかっこいいよね。

pop_12

「POP ILLUTRATION塾」授業風景

ポップアートがつないだ仲

スージー イラストレーションをはじめて40年くらいなんですけど、小田島くんとの付き合いも35年くらいだから同じぐらい長いよね。ウォーホル、リキテンスタイン、ウェッセルマン、ホックニー。ポップアートがつないだ仲とも言えるんだよ。そういえば、京セラ美術館にウォーホル展を観に行ったときに、ウォーホルのBrilloのボックスの前で女の子が「これってウォーホルがBrilloの箱をデザインしたってこと?」って友だちと話しててさ。正確には違うんだけど、巡り巡ってその解釈でいいんだよね。

小田島 謎めいてますよね。「ウォーホルがこれをデザインしたってことなの?」っていうところに、絵とは何か?と言う大きな話がある。

スージー 一応自分では正確に理解してると思ってるけど、意外と理解してないのかもわからないね。ウォーホルのキャンベル缶の図にしても、ウォーホルが考えたものでもなんでもなくて、キャンベル社の宣伝部の人かなんかがデザインした封筒に印刷されたものを、ウォーホルがそのまま使ってるんだよね。作品にするときに曲がり具合をちょっと修正したりはしてるみたいだけど。リキテンスタインも元にある漫画の絵を改変しているよね。

小田島 漫画をそのまま描き写すなんて、オリジナリティの放棄ではないかと思いきや実はむしろ観察的な編集者的な立場なんですよね。

スージー そのあたりの話は朝までできるよね(笑)。考えたら今だってK-POPとかHYPER POPとかあるからね。アンディ・ウォーホルとK-POPのアイドルたちって、共通点あるよね。マイケル・ジャクソンもポップアートの遺伝子だし。「ポップは永遠に不滅です」と、言いたいところだよね。

小田島 ポップというひとつの尺度で、広告や絵画、雑誌、ロック、DJなどを串刺しにして語れるので。我々はそういう部分にも影響を受けているから、シームレスに語れちゃうんですよね。「POP ILLUSTRATION塾」ではそういう美の繋がりを伝えていけたらと。

2024年9月10日収録
取材・構成=木村奈緒 写真=皆藤将


POP ILLUSTRATION 塾 スージー甘金+小田島等

▷授業日:隔週火曜日 19:00〜22:00

講師の業界経験を踏まえ、このユニークで大きな源泉「POP」に寄り添いながら、オリジナルの表現を探って行きたいと思います。イラストレーションやデザインと言う職能的な枠組みに捉われること無く、様々な手法を使って、実践的に「POP ILLUSTRATION」を学べる講座となります。