文章:うらあやか
写真:皆藤将
4/21-24まで行われた篠田千明さんを講師とした美学校の演劇系講座「劇のやめ方」第二期修了発表会をみてきました。上演空間となる美学校スタジオは、路地の奥にあるビルの一階、大きな擦りガラスの引き戸から入って、奥に向かって細長い一室です。正面の他に採光窓のない部屋は、普段は講座や展示として使われています。
▲入り口から美学校スタジオの劇場へ入ってゆく観客たち
2022年度「劇やめ」第二期生は6人。修了発表会では、公演会期中、全員が発表をしました。それぞれの仕方で「劇のやめ方」についての試行が行われていたように思います。
「劇をやめる」という問い立てについて、講座要項を見てみると「劇を認知することと社会を認知することはほとんど等しい。つまり、ある劇を共有できることで生まれる社会の中に私たちは生きている。」(篠田千明)とあります。受講生たちは自分が取り巻かれ、身を置く役割について考えながら講座を受けたのではないかと想像します。
修了発表会を見て、受講生たちが講座の中で考え試行した「劇のやめ方」について、簡単なレビューで紹介します。
1)藤中康輝「水槽」(出演:伊藤満彦・原ひかる)
藤中康輝さんは、演劇作品「水槽」を通して、現実にある他者間のやりとりに、通常とは異なる関係を作り出す「演劇」という構造そのものを検討していたように思います。
異なる関係を作ると書きましたが、この作品で行われた「やめ方」の検討を通して、私たちはいつでもさまざまな仕方で関係をしていると気付くことができます。電車に乗っているときにも、学校の教室の中でも、それぞれの場所で異なる自分の振る舞いを行なっています。
「水槽」は、囲われた状況とその内部での関係の仕方について考えるために、極めて演劇的な作り方によってむしろ劇外の日常と接続することを試みているように感じました。日常的な劇を認知するための手立てとしてそれが行われる劇場つまり透明な箱としての水槽を認知するという仕方で、藤中さんは「劇のやめ方」に迫っていたように思います。
2)三井朝日「気楽の水際」(出演:加賀田玲・坂本彩音・長生錆・三井朝日)
三井朝日さんによる「気楽の水際」は、コント作品です。お笑いではないコントを初めて観ましたが、それでも気楽に笑えたのは「コント」という前置きがあったからでしょうか。
時間が合わず、本公演ではなくゲネを見せてもらったのですが、いつ始まったのかわからなく、もしかしたら全てのやりとりが劇であったのかもしれません。「コンビニ行ってきます」というシーンは劇の中にもあったから。いつからいつまでが劇なのか煙に巻かれているようです。
この作品で三井さんは、その境界線を「水際」と置いたのかもしれません。作者である三井さん自身が演じた「夢・現実ジャッジマン」は劇中で、超現実的に現れる高熱に見る悪夢と悪夢のような現実とを、6割の確率でジャッジしました。「いつから」と考えるためには、その渦中にいることに気づいている必要があります。
「気楽の水際」が示す劇がいつから始まっているのか、これは劇なのかを思考するアイデアは、キャラとして結晶化した「夢・現実ジャッジマン」のインパクトのおかげで、ふと困ったことが起きそうなことに気づいた時にも気楽に呼び出すことができそうです。
3)小西善仁「ヘッドカノン」
「ヘッドカノン」は小西善仁さんによる一人劇及び、観客の積極的な参加を主軸としたハイブリッドな形式で行われました。
戯曲を渡されて、それを全員が黙々と読む静かな劇です。戯曲には、「自分が嫌いな自分」を離人症的に捉えて、一人の人物が4つに割かれている様が示されています。
邪念が人格を持ったようなキャラクター「悪魔」「自分」「作者」「ト書き」の4つの役すべてを小西さんが一人で演じるのですが、目の前にいる小西さんはただただ突っ伏し寝ています。寝返りを打ったり、お腹がなったりしていました。戯曲の裏面には読み終わった人は起こしにきてください、とも書かれています。
小西さんは、自分がどのような人物であるかは、他者から断定された『自分的なイメージ』の輪郭からなると説明します。戯曲によって、観客に読むことと演じることの一時中断(終演後にディスカッションの時間があったので)の合図をすることを指示し、また自分自身には公演時間中、行為全てが作品の媒体となるパフォーマティブな状態に置くことを指示しました(基本的には、演劇とはそういうものなのかもしれません)。
もしもあの戯曲が、日々実際に感じていることから作られているのであれば、パフォーマンスをしている間はむしろその「劇」的状況を一時的に中断することに成功していたのではないか?と思いました。
4)元川真理子「イヌコワ」
元川真理子さんによる「イヌコワ」は、犬が怖い人物たちのことを描いた11の短編からなるリーディングの連作です。犬が怖い人(イヌコワ)目線の一人称的なパートと、イヌコワVS犬が怖くない人(マジョリティ、と執拗に批判的に描かれているのが面白い)のいくつかのお話が、真っ暗な中で録音された朗読劇を聞く、元川さんによるオペラ、壁に映し出されたセリフを読み合わせる、という数種類の仕方で表現されました。
朗読から始まって、オペラに引き継がれる構成によって奇妙な恐ろしさに引き込まれました。まさか歌うとは!
リーディングをするパートでは、イヌコワの役を元川さんが、そうでない人物役を観客が担ってセリフの会話を行います。劇の中で犬が怖くない人たちをマジョリティとして執拗に批判的に描くので、一観客である私(そして私たち)は指示されて読みあげる最中、まさに劇中で語られるマジョリティ側へと追い込まれてゆきます。マジョリティ、という言葉によって観客の数が演者よりも多いことにハッとしました。
社会における「劇のやめ方」を思考するにあたって、では、観客という役はどこに位置付けて考えることができるのでしょう。マイノリティとは単に少数なのではなくて、様々な視点から見たときに、偏見や差別を受けやすい立場をマイノリティといいます。「イヌコワ」はかなり特別な視点ですが、たしかに社会的少数派かもしれません。知らない犬にむやみやたらと触らないようにするような経験から想起することのできる「怖がり」の程度によって、劇中で批判されるマジョリティにもグラデーションが想像されます。
元川さんが一人でリーディングを行った、イヌコワがある特別な犬に官能的な想いをもつシーンは、本当に、筆舌しがたい面白さでした。「犬が怖い」というマイノリティ性が、性愛の先に犬を持つシーンを作ることで、より複雑なものとして表現されていました。
5)伊藤満彦「かくれんぼの行方、視線の焦点」(ドラマトゥルク:藤中康輝)
「かくれんぼの行方、視線の焦点」は伊藤満彦さんによるレクチャーパフォーマンスです。ウルトラマンの変身シーンや異性装を手がかりにして、「私」と「他者」との見たり見られたりする関係を「かくれんぼ」に喩えています。
「私」という存在は、わざわざ表現をするまでもなく、具体性のみでまさにここにいるはずなのだけど、それをどのように表現するか、理解するか、受け入れるか、受け入れてもらうか、ということがなぜか必要になってしまうことがあります。「私」が何者であるか、というものは絶えず揺れているはずですが、自分とそれ以外に世界を分けるとするならば、他者はいつでも視線を貼り付けることによって「私」を恣意的に定義づける存在ということになります。そういったギャップを、「かくれんぼの行方、視線の焦点」は比喩を用いて表現しているように感じました。伊藤さんが「かくれんぼ」の新たな技術としてアイデアのレクチャーを行った、「私」をジャッジしてくる他者を一人一人の集合としてではない「多」という事象として取り扱って、個々人の目を隠してしまうアイデアを思えば、見られる側に立つのを拒みながら劇に立つ伊藤さんを見る観客である私たちは、伊藤さんに想定され制作された「多」であったように思います。伊藤さんの作品を含め今回の修了発表会全体を通して観劇し、観客という集合は「私」と「他者」を対比させるにさしあたり、他者という記号を受容させやすい存在なのだなと感じました。他を多としてひとまとめにするこの技術は、劇の外ではどのように機能させることができるのでしょう。他/多として置かれる(そのように感じている)観客である私は、「劇のやめ方」という問いに対して観客としての問いを獲得するに至りました。
伊藤さんの「私は視線が苦手です。あまり顔は見ないで頂けると助かります。」という発話に、観客は個々人の視線を示す小道具として渡されたレーザーポインターを介して応答します。顔に向けると危ないレーザーと自分自身の視線が重なります。伊藤さんの顔を見ないようにすることで、観客自身が自分の視線そのものにポインターを当てていたその頃、伊藤さんのほうは、どのような役をしながら、何を考えていたのだろう。
6)原ひかる「受付係」
原ひかるさんは、藤中さんの劇に役者として出演する以外に、自身の発表として「受付」を行っていました。
会場入り口に置かれた小さなテーブルに、次行われる公演に合わせた小物を並べたり、訪れたお客さんと少し話したりをしているようでした。
「劇やめ」の公演は全公演それぞれ全く異なる会場構成のために転換が大変だし、開場を待つ人もたくさんいるので、美学校スタジオ前は賑やかです。久しぶりに会う知り合いと挨拶をしたり、トイレに行ったり、観客という役になる前にはそれぞれ色々とすることがあります。
開場待機列に並んでいると、受付をする原さんから「見にこられたんですか」と声をかけてもらったので「そうです…」と答えました。私はなんでも、大体、間に合わなくなりそうになりながらボサボサの状態で現れることが多くて心臓がドキドキしてしまっていたりして集中できる状況に落ち着くまでに結構苦労しています。落ち着くまでは、自分自身に由来することで頭がいっぱいなので、声をかけてもらったことで徐々に音が大きくなる目覚まし時計のような、ボサボサを整えてもらうような、一日を始めるサポートをされるのに近い心地がしました。
荷物が重いとか、お腹が空いたとか、昨日あまり寝ていないとか、鑑賞のコンディションは常に観客の方にあります。劇のいくらかは観客が作っているのです。その観客が、観客として劇場に入ってゆく身支度を、原さんはしていたのかもしれません。観客の役を始めるのを、劇が始まるよりも先に合図しているのです。
「劇やめ」第二期修了発表会のレポートは、以上になります。
今年の講座でのトライも楽しみです。
参加してみたい方は、こちらをご確認ください。
「劇のやめ方」の視点を皆さんと共に考え、交換するのを楽しみにしています。
▷授業日:隔週火曜日 19:00〜22:00
劇は始めるよりやめるほうが難しい。社会で起きている劇をやめるのはさらにとても難しい。難しいけど、劇をやめ方を考えることはいま必要とされているように思う。ワークショップや、今だから出来る実践を通して、みなさんと一緒に『劇のやめ方』にまつわる思考を捕まえたいです。