[講師体制変更のお知らせ]
講師の後藤秀聖氏は2023年6月をもって退職いたしました。2024年度から超・日本画ゼミの講師体制は間島秀徳氏、小金沢智氏、香久山雨氏の3名となります。
2012年に間島秀徳さんを講師に迎えて開講した「超・日本画ゼミ(実践と探求)」。その後、小金沢智さん、後藤秀聖さんが加わり、現在は3名の講師による講座となりました。作家、学芸員、研究者と異なる立場の講師陣が、それぞれの出会いや講座、日本画について語らいます。
間島さんとの印象深い出会い
間島 美学校で「超・日本画ゼミ」を始めるきっかけになったのは、2008年のギグメンタ(※1)です。美学校は昔からよく知っていましたが、そこで藤川校長と知り合って「美学校で日本画から何ができるのか」と話をするところから始まったと思います。かつて鎌倉で開いていた日本画塾では、大学やカルチャーセンターとは異なることをやっていたので、それを引き継いだうえで、あらためて美学校でどんなことができるか、手探りの状態で進めていきました。
間島秀徳。1960年生まれ。86年東京藝術大学大学院美術研究科日本画修士課程修了。2000~01年フィラデルフィア、ニューヨークに滞在。水と身体の関わりをテーマに、国内外の美術館から五浦の六角堂、二条城、清水寺、泉涌寺に至るまで、様々な場所で作品を発表。現在、信州大学教育学部教授。
小金沢 僕は宮田徹也さん(※2)に誘われて、2008年のギグメンタで間島さんのパフォーマンスを観たんです。間島さんの作品やお仕事はそれまで一方的に知っていましたが、打ち上げで初めてお話をして。当時、間島さんは長髪で怖いイメージがあったので「宮田さんも間島さんもちょっと恐いし、この飲み会行っていいのかな」みたいな感じで(笑)。
間島 まだ侍ぽかったかな。
小金沢 侍ぽかったです(笑)。当時僕も25、6歳だったので、ビクビクしながら行ったんですけど、間島さんも宮田さんも親身な方で。その頃、ネットなどで批評を書き始めていたので、小杉放菴での個展について書かせていただいたりしてお付き合いが始まりました。
小金沢智。1982年生まれ。2008年明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻博士前期過程修了。世田谷美術館非常勤学芸員を経て、現在、太田市美術館・図書館学芸員。日本近現代美術史を専門とし、展覧会の企画や執筆を通して、美術史と現在の表現との接点と接続の可能性を探っている。
後藤 私は油画科出身なんですけど、間島先生の追っかけだったんです。練馬区立美術館の「「超」日本画宣言─それは、かつて日本画と呼ばれていた」、小杉放菴記念日光美術館の「間島秀徳Kinesis / 水の森―小杉放菴とともに―」や茨城県近代美術館の「水のかたち展」で間島先生の作品を観て、日本画なのに油絵の具が持っているマチエールや硬質で堅牢な感じが出ていて、しかも大作主義というのにすごく触発されて。それで間島先生の講演に行ったら長髪で、ヨウジヤマモトで、指にリングをたくさんつけていて。
間島 そんなにつけてないよ(笑)。
後藤 つけてましたよ!「えっ、本当に日本画の人?」みたいな感じで。日本画なのに映像作品やインスタレーションを手がけていることにもすごく衝撃を受けました。一方で、小金沢さんのことも『美術手帖』や『月刊美術』などの文章を読んで知っていました。それで、映画『FOUJITA』制作の際に、小金沢さんに資料提供をお願いして、間島先生には役者で出ていただいたんです。その後、ゲスト講師として授業に呼んでいただいたりして、ご縁がずっと続いてる感じです。2人とも私のリスペクトする人です。
後藤秀聖。1985年福島県生まれ。2014年文星芸術大学大学院博士後期課程修了。日仏合作映画『FOUJITA』(小栗康平監督、2015年公開)美術資料調査・演出助手を担当。絵画制作、伝統的な絵画材料・素材の文化史の調査研究を行う。遠山記念館芸術・学術等研究(2019年~)研究員。
現代日本画の研究者がいない?
間島 小金沢さんは、現代美術だけでなく日本画の古いものも見ていて、この人はなかなか貴重な存在だなというのは直感的にありました。作家とは会うことがあっても、研究者に出会うきっかけって意外と少ないんですよ。
小金沢 僕の大学の先生である山下裕二(※3)先生は、ギャラリーや美術館に足繁く通って若い作家の作品を精力的に見ていて、そういう方法でモノを見ることが自分の眼を作るし、研究にも役立つと思い、自分も大学院生くらいから知らないギャラリーを回ったりしていました。すると、いろんな人から「日本画を研究、批評する人がいない」と何度も聞くんですね。実際、10年くらいこういう活動をしていると本当にいないんだなと(笑)。もちろん、日本画の若い作家は出てきてますし、近代日本画の研究者は優秀な方がいらっしゃるのですが、「現代」という側面から作家と一緒になって研究・批評をしようという人は同世代や下の世代でも聞きません。言い方はちょっと悪いですけど、僕は日本画だけを専門で研究しようというつもりもないので……でも「他にいないんだよね」と言われると「が、頑張ります」と答えてしまう(笑)。
間島 だから、ちょっと現代寄りだと小金沢さんが呼ばれちゃう。ひとりの意見でいいのでしょうか(笑)。
後藤 まだ研究対象になってないからもうちょっと置いとこうみたいな感じでしょうか。小金沢さんの公開講座「ゼロ年代の日本画クロニクル」は聞きたかったですね。ああやって2000年代の動向を調べてまとめている人はいないから。
小金沢 現代日本画の研究や美術館での展覧会は、2000年代前半くらいでちょっと落ち着いてるんです。日本の美術の人気はここ10数年うなぎのぼりの一方、こと近代美術に関してはそうでもなかったりするので、それとも関係があるのかもしれないですが。
間島 教えている大学の学生に知ってる日本画家を聞くと、「うーん……若冲?」って、昭和の日本画なんて全部すっ飛んで、江戸までいっちゃう(笑)。厳密に言うとそれは日本画ではないんですけどね。
『芥子園画伝』、自筆年譜、研究発表……独自の授業内容
後藤 例えば「超・日本画ゼミ」開講当時から、『芥子園画伝』(※4)をテキストにして、古典的な絵画理論と作画法を読み解くという授業は実践してるんですか。
間島 そうですね。あの様なものは今の時代にもう合わないとされているけど、ちょっと待てよと。あれだけの名作の手本をきっかけに修練を積んで、自分のスタイルや次の世代を作っていったわけで、粉本に対する意識を見直すことができると思っています。大学では『芥子園画伝』なんてほとんど無視されていて、芸大で決めたカリキュラムシステムを引き継いでずっとやってきてるんですよ。最初に花や動物を描いた後も、モチーフが変わって自由制作に至るまで画一化されているのではないでしょうか。
小金沢 日本画は伝統的なものだから、変わっちゃいけないという固定観念ですよね。「超・日本画ゼミ」はカリキュラムがカチッとしすぎていないので、1年を通してこれはやりましょうというのはあるにせよ、たとえばこういうことがあったからその話をしてみようとか、あの展覧会やっているから一緒に見に行こうとか、それは日本画にこだわらずで、表現を考えるうえで大切なのではないかということを伝えるようにしています。
後藤 小金沢さんが授業でやってる「自筆年譜」がすごく勉強になったので、そのお話を聞かせてください。
小金沢 講師になった当初は、割と真面目に日本画を教えなきゃと思ってレジュメを作ったりしてたんですけど、どうしても一方的に話す形になりがちで。そうではなくて、受講生のことを知らないとダメだなと思ったんです。受講生がやりたいことの背景には、それまでどう生きてきたかが関わっているはずだから、生まれた年から今日までの年譜を自由な形式で書いてくださいとお願いしました。そうすると、なぜ今「超・日本画ゼミ」に来ているのかがすごく伝わるんです。授業では作品の講評もしますが、その人のバックグラウンドを知っていると作品の見え方も変わってきます。自分を客観視できるし、他人へのプレゼンテーションにもなる。そしてそれは事細かに書けばいいということではないんですね。あくまでアーティストの自筆年譜ですから。だからたとえとして、河原温が自分のカタログに生まれてからの日数しか載せてないということも教えたりします。つまり自分の作家性も意識して、書くべきことと書くべきではないことを決断して書いてくださいということです。学芸員や研究者が作る作家年譜とも違うわけですね。
後藤 岸田劉生の『岸田劉生随筆集』なんかを読むと、日記や備忘録自体が作家の創作思想・芸術論になってしまう凄みのようなものを感じますけど、そう考えると「自筆年譜」の授業ってすごく大事だなと思います。ある意味「年譜」って、その人にとっての「自画像」みたいな存在ですよね。
間島 「自筆年譜」に続く形で「研究発表」という授業もやっていて、いま自分が興味のあることや調べたいことを制作とは違う形で発表してもらいます。自分が囚われていることをはっきりさせるような作業でもありますね。あとは、前期と後期に個人面談も行っています。
小金沢 「自筆年譜」や「研究発表」を通じて自分の制作や考えを深めていくのが一本の軸だとしたら、展覧会や合宿に行ったり読書会をするのがもう一本の軸です。読書会では、日本画や日本の芸術に関する本を毎年一冊決めていて、今年は李禹煥の『余白の芸術』を読み進めています。自分の作品以外の世界を知ることで、より自由になれるんじゃないかなと。
後藤 でも、受講生にそんな器用な人はいなくて、「出来ません」とか「どうしたらいいんですか」とか言ってますよ(笑)。だから読書会にしても、一冊読み切れるかどうかじゃなくて、出合った以上はこれから一人でも読めるようにってことです。授業はあくまできっかけだから。
日本画の知識は不問。受講生の熱量に教えられる
後藤 ここでの授業も大事だけど、日本画の伝統的な絵画材料、その原料、素材を生産する現場を訪ねて、職人の手仕事を見せたりもします。例えば和紙漉きを見ると、表面と裏面がどうやって決まるかが分かるんです。それで、教室に戻って絵の具や和紙を使うときに、「和紙漉きがこうだったから、こういう絵の具のにじみが出るな、裏面からドーサ引きしようかな」って、そういう発見をしてもらいたいんです。外に出て、教室に戻ったうえで考え直してみることも研究のひとつなので。
間島 そこが普通の学校との大きな違いで、普通は材料よりも、この花の形について直した方がいいとか、内容に言及しちゃうんです。それよりも、そのモチーフの描かれたものを支えている紙や素材を学ぶほうが意外なことに気づけて、絵の具の使い方も変わってきます。
小金沢 ひと月に4〜5回、1回3〜4時間で出来ることって本当に限られていて、手を動かすのはもちろん大事ですが、どうやって手を動かすのか、手を動かす以前に筆は何なのか、描くって何なのか、日本画って何なのかということも考えてもらいたいですね。そういうことができる場所だからこそ「超・日本画ゼミ」は面白くて、たとえば花や山など、明確に描きたいものがあってその技術を手に入れたいという人には、カルチャーセンターの方がいいと思うんです。そうじゃない何かをしたい、考えたいという人に対して、僕らもやりたいことや、やれることがあるというか。
後藤 合宿も僕らが行きたいところに行きたいので、学生が1人も来なくたって関係ないんですよ(笑)。やっぱり自分たちが行きたいところじゃないと連れていけないですし。美学校に来ると自分も学生に戻っちゃうんですよね。ゼミ生自体もさまざまで、主婦で洗濯物を済ませて子供を寝かしつけて来る人、仕事を辞めて「超・日本画ゼミ」を受講する人、高校生……いろんな人が来る。パワーバランスも何もなくて、教えてるつもりが逆に教えられることが多くて、もう一回日本画を勉強しちゃおうかなって講師が思うぐらいの熱量がある。
小金沢 日本画って言うと、どうしても技術や作法や手順があって、「日本画初めてで全然知らないけどいいですか」と心配される方が随分いるんですけど、それについてはまったく不問です。むしろ日本画をやったことがない受講生の方が多いくらい。日本画に何か関心やモチベーションを持って、なおかつ自分なりの目的がある人たちが来ていますね。
間島 経験はなくても、発見を重ねることで表現に対する意識も変わる可能性がありますし、そういう場所でありたいですね。来る人によっていろんな発見がある場所としてです。
後藤 美大を卒業してアーティストとして活動してる人も来ますけど、それでもひとつ発見するって本当に時間がかかるんですよ。発見できずに終わる人だって多いです。ゼミ生には、技術をマスターさせるより、むしろ考えさせたり悩ませたりする時間の方が多いかもしれないですね。その時間って意外と他で得られないんじゃないかと思って。悩ませて考えさせる。すぐにゴーサインが出ない。結果を見せない。フラストレーションがたまるけど、社会のなかでアーティストとして持続していくためには必要な経験じゃないかなと。
それぞれの「日本画」を通じて
小金沢 自分の話に立ち返ると、大学の卒論で河鍋暁斎という幕末・明治の画家を扱ったんです。その時代は日本美術にとって制度的・歴史的大転換期で、明治になって概念・言葉として日本画が生まれるわけです。日本画はそれまでの日本絵画の歴史とつながっているけど言葉としては新しくて、150年くらいの歴史しかない。卒論を書いたのが2006年で、現代の日本画がギリギリ盛り上がりを見せていた時期でした。同じ年に東京都現代美術館で「MOTアニュアル2006 No Border」という大きな日本画の展覧会が開かれて、今も日本画の作家がいて、日本画の問題は現代にも地続きなんだと知りました。その後、宮田徹也さんや三瀬夏之介さん(※5)と知り合い、宮田さんの勧めで文章を書かせてもらったり、三瀬さんを通して同世代の日本画家と知り合いました。自分でこういうことを言うのもなんだかなと思いますが(笑)、「超・日本画ゼミ」が稀有だと思うのは、作家のふたりに加えて、僕のような研究・批評の人間が講師にいること。それによって新しいことができると思っているんですね。たとえて言うと、作家が自分ひとりで頑張ろうというのは、裸で剣を持ってるイメージというか……。これまでの作家の実践・試みの蓄積としての美術史や批評は、今の僕たちにとっての武器であり防具であると思ってるんです。せっかくこれまでの人たちがそういうものを作ってきてくれたんだから、うまく使ったらもっと強くなれるんじゃないって思うんですね。日本画という言葉は、制度的、主題的、技法的……いろんな意味が組み合わさっていて、いまさらこれを解体するのは難しいと思いますが、いろんな要素があるからこそ、どうにでも使えるものだとも思っています。
間島 父親が絵が好きで、画集や美術雑誌が身近にあったので、『萠春』や『芸術新潮』などの美術雑誌をよく見ていました。進路を決めるにあたって絵をやりたいと思ったときに、日本の伝統的な絵も好きだし、どうやら日本画にもいろんな面白い表現があるらしいと知って、日本画から始めてみようと。芸大に入ってみたら、先生方が放ったらかしだったので、岩絵の具でデュシャンのマネをして描いてみたり、思い出すだけで恥ずかしいくらい好き勝手なことをやって。それでも、私の世代だと日本画出身の人は9割以上が公募展に出品する流れなんです。それが全然ピンとこなくて、現代アートの状況を目の当たりにしていたので、ギャラリーでの個展を中心に発表し始めたのが活動の始まりです。その後「日本画を問う」様な展覧会に数多く呼ばれるようになって、日本画というものを意識するようになりましたが、自分の絵が日本画だなんて思ったことはありません。普遍的なものを意識しているならば、日本画のことを考えていても作品の目指すところはおのずから違ってくると思います。「超・日本画ゼミ」で私自身学びながら、今何をやりたいのか、どの様な作品を作らなければいけないのか、問うていきたいと思っています。
後藤 油画科の学生だったとき、授業で「自分の気になるアーティストにインタビューをする」という夏休みの課題が出たんです。それで敬愛していた白髪一雄先生(※6)にインタビューをして「先生はなんで足で描くんですか」って質問したら「いや、手も使うときあるよ」「えっ、手なんですか、ここ?!」「こうやって描くんだよ」って言われて(笑)。白髪先生の学生時代から今に至るまでを質問したら「京都市絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に行ったんだけど、油画は東京に出ないと学べない時代だったから、最初は日本画を勉強したんだよ」と。それで、白髪先生から学生時代の岩絵の具と膠をいただいて。それが私の日本画との付き合いの始まりで、日本画を勉強しながら、日本画という制度から逸脱・越境するような、前衛的な作家に強く惹かれていきました。また、膠を最初に溶いたときの匂いが強烈に印象に残っていたこともあって、博士論文では膠を研究することにして今に至ります。天然顔料と膠の塩梅を指先で感じとり、絵の具を溶きながら水をメデュウムにして描くという、原初的な面に可能性を感じる一方で、間島先生は日本画の素材から発想して「Kinesis」シリーズを展開し、パフォーマンスや映像作品もやる。だから、間島先生は既存の日本画を超えた「超・日本画」宣言を美学校でしたんだなと。しかもそれが美学校でって得体が知れないじゃないですか。
間島 でも、全てを超越しようぜという宣言ではないんです。日本画という名前が出来て忘れ去られてることっていっぱいあるんですよ。その様なことも掘り下げて再発見することが大切だという意味も含めています。大学で平山郁夫先生に胡粉の作り方を教えてもらって、それは感動的に美しかったのですが、他の事はあまり覚えていないのです(笑)。材料の使い方にしても、使い方を覚えて上手になってからやるのではなく、まずやってみて「これは無茶だわ。この使い方でこの材料はありえない。だったらどういう使い方がいいんだ」って表現にあわせて学んできましたので、今でもそれでいいと思っています。
授業後に中華料理屋で
2019年11月9日 美学校にて収録
進行・構成=木村奈緒、撮影=皆藤将
※1 ギグメンタ
美学校が中心となって開催するアートプログラム。「ギグメンタ」は「GIG」と「DOCUMENT」を掛け合わせた造語で、時代の諸芸術における表現の在り方を問い直すと同時に「今、ここ」をドキュメントするべく、1983年から不定期で開催。2008年にはギグメンタ2008─美学校1969年の現在展」と題して「ガロと美學校」展をはじめ数多くのイベントを開催。2015年にはギグメンタの企画として「日本画のハードコア」(企画:小金沢智、出展:間島秀徳、中村ケンゴほか)を開催。http://gigmenta.com/
※2 宮田徹也
日本近代美術思想史研究を専門分野として評論、執筆活動を展開。岡倉覚三、宮川寅雄、針生一郎を経て敗戦後日本前衛美術に到達し、ダンス、舞踏、音楽、デザイン、映像、文学、哲学、批評、研究、思想を交錯しながら文化の現在を探る。
※3 山下裕二
1958年生まれ。美術史家、明治学院大学文学部芸術学科教授。東京大学大学院修了。室町時代の水墨画の研究を起点に、縄文から現代まで幅広く美術を論じる。主な著書に『岡本太郎宣言』(平凡社、2000)、『日本美術全集20 日本美術の現在・未来』(小学館、責任編集、2016)が、企画・監修を手がけた展覧会に「ZENGA展」「五百羅漢展」「白隠展」「驚異の超絶技巧!―明治工芸から現代アートへ―」「奇想の系譜展」などがある。
※4 芥子園画伝
清の画家・王概が編集した彩色版画絵手本。古来の名家の絵を例示しながら山水画の技法が解説されている。南画の発展や浮世絵版画の技術画に大きな影響を与えた。
※5 三瀬夏之介
画家。東北芸術工科大学芸術学部美術科教授。1973年生まれ。岩絵具、和紙を画材とし、自身が生活する土地や現代的、時事的な事象、大仏、日の丸などを繁殖的に結合させたモチーフを描画。大型の絵画を通して「日本画」のあり方を問い続ける。2009年より、画家の鴻崎正武と共同で「東北画は可能か?」と題したプロジェクトをスタート。同大学の在学生、卒業生を中心にフィールドワークや作品展示を行う。主な個展に「三瀬夏之介個展 ぼくの神さま」(青森公立大学国際芸術センター青森、2013)、「日本の絵」(鶴岡アートフォーラム、2017)、主なグループ展に「青森EARTH2016 根と路」(青森県立美術館、2016)など。
※6 白髪一雄
画家。1924年生まれ。幼少時より絵を描くことを好み、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)で日本画を学ぶ。52年、村上三郎、金山明、田中敦子と「O会」を結成。55年、吉原治良を中心とする前衛芸術グループ「具体美術協会」に村上らとともに参加。大学卒業後に日本画から洋画に転向し、天井から吊るしたロープを両手でつかみ、床に広げたキャンバスの上に絵の具を出し、体をダイナミックに動かしながら足を使って絵の具を広げて作品を制作する「フット・ペインティング」を確立。尼崎市民芸術賞、兵庫県文化賞、文部大臣文化功労者表彰など受賞多数。2008年没。
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