【無体「馬の骨」批評】
十一月にはいると寒い、夜は特に寒い。そんな最中、神保町の美学校、屋上にて『無体 海のものとも山のものともつかない私が道端に落ちていた馬の骨にあこがれる』を見る。
演出は、中西晶大。
”屋上”は良い。そこに行けば、建物にいる億劫さを忘れさせる。また、学生時代にあった縛りからか、安易に立ち入れない場所だと思う。美学校の階段を上がり、屋上の扉を開けた刹那、外気によって身が洗われた。
陰鬱な音楽が流れるなか、公演は始まった。頭から足先まで、白い服を着た演者、皆一様にゴミ袋を抱える。そして、ゴミ袋の中身を散蒔く。一様にゴミを拾おうとするが、上手に回収できない。
今の日本のメタファーだろう。
「ポイ捨てをするな」と大人は言う、しかし発言する権利はあるのだろうか。この状況を作り出した大人が分からない。最近、子供が誕生した中西の苦悩を感じる。
中西と数年付き合ってわかったが、彼は善の人である。単純にいい世の中を望む。普通に挨拶をかわし、人と仲良くし、気持ちよく生きられる社会に憧れる。
ただ理想は遠のくばかり。
理想VS現実。
圧倒的な現実の勝利に、中西は歯ぎしりをする。表現への渇望は、そこから生まれる。いや、そこしかない。
街の雑踏へと、場面は映れば、5inchの画面を夢中で見る人々が舞台をクロス。何重にも交わるが、何も生まれない。
人の残像が、ただ編まれるだけ。
JITTERIN’JINNの「晴」が流れる。真っ暗な屋上で「女こごろは秋の空 明日は晴れる」とこだま。
明日を期待したいロマンチスト中西/明日を期待できないリアリスト中西
が邂逅。
寒空の下の舞台は、終わりを迎える。演者が皆、地に這いつくばり死ぬ。そして、再生し何かを探す。見つけたのは、お互いの真心だろうか、全員が抱きしめ合う。
中西の舞台は、原始的なコミュニケーションで〆ることが多い。希望的観測だろう、いや子供を持っている身として「希望的にならなくてはならいない」と自らを律してるよう。
四十分ほどで『無体 海のものとも山のものともつかない私が道端に落ちていた馬の骨にあこがれる』は終わった。
しかし、最初にバラ撒かれたゴミは舞台に残る。秋の風で、舞うゴミの音が神保町の夜に響く。存在感は強い、演出したハッピーエンドを超えるほどに。
何もないことはない、ゴミはある。それをどう回収していくのか、今後の中西の表現で確かめていきたい。
ヨシムラヒロム(イラストレーター、コラムニスト)