文・写真=木村奈緒
大盛況のうちに幕を閉じた第1夜に続き、早くも第2夜が開催された「会田誠の月イチぼったくりBAR」。今回のゲストは、物々交換所(ワールドおさがりセンター)管理人の酒井貴史さん。
『物々交換所』とは、酒井さんが武蔵野美術大学在学中に始めた活動で、学内のゴミ集積所から再利用可能な素材を拾い続けた結果、部屋が満杯になり、その解決策として不要品を譲渡するために始めたそうです。
当日は美学校の階段を使った「珍品おさがり市」も開催。多くのお客さんが一点モノの珍品を求めて(?)美学校に集いました。
これもTAKE FREE
そんなこんなで、今回も満員のお客さんとともに幕を開けた「ぼったくりBAR」。しかし、この日は宮城県出身・酒井さんと、新潟県出身・会田さんの「朴訥コンビ」。ぽつり、ぽつり、と語られる酒井さんの言葉にならない言葉…。ときどき時が止まったように静寂に包まれる教場…。
ということで、今回は、イベント後に酒井さんから届いた「ぼったくりBARで言葉にならなかったことなどを…」という一通のメールを紹介して、レポートに変えさせていただきます。
産業革命以後、おさがりは野蛮である(酒井貴史)
昔々、人類の祖先が石を道具として使い始めた頃、石をすぐに捨ててしまう者と、いつまでも携えている者がいた。
固い木の実を割ろうとする時、前者はその都度手頃な石を探さねばならなかったが、後者はその手間を免れた。
限られた食物を巡る生存競争を勝ち抜くことができた後者の子孫の遺伝子には、物への執着心という形で石の教訓が刻まれている。
ヒトがそのようにして受け継いできた欲求には、素直に従う事がひとまずは合理的だった。
「産業革命」が起こるまでは。
工場では食事の時間と睡眠の時間が定められ、就業時間を生理的欲求に任せることは非合理とされる。
また、古い道具を修理して使い続けるべきか新調するべきかの客観的な基準が見出され、それに背く事は非効率でしかなく、 いつでも安価に購入できる資材に執着し、限りある倉庫を占拠させ続けるはまさに未開人の所行だった。
数値化された個々人の能力が、それに比例した給与を受け取る人間そのものの価値とされた。
大量生産によって「代わりはいつでも手に入る」ものに置き換えられていく世界では人間も安価に購入され、効率良く廃棄される。
そのような変化をもたらした産業革命とそれに続く戦争から「現代美術」が、それまであった「美術」とあきらかに異質なものとして生まれる。
現在の科学や医学が、迷信や魔術と未分化だった時代から、平面に3次元を錯視させる技法や退色しない顔料の発明を積み重ね、 人類の英知の進歩をそのつど絵画や彫刻に刻み込んだのが「美術」であり、とりもなおさず未だ辿り着けない理想の世界をも指し示していた。
文明の目指すべき進路は明確で、科学技術や経済の発展は来るべき調和と安定へむけて障害を乗り越えていくはずだった。
しかしいよいよ山頂が近いと思われた20世紀の人類の理性は、いかなる野蛮人より効率良く人間を殺す武器を生み、 進路の誤りを疑うどころか率先してそれらの武器をとって先を急ごうとする世界を映した「美術」は、現代の矛盾や不条理や無意味そのものを提示し始める。
「現代美術」の誕生だ。
地球が太陽を周回しているとする説が初めて見出された時に行われたように、未知の局面においてはその時点における主流の理性による判断が優先される。
傍流の仮説でしかなかったものが再浮上するのは多くの場合、主流派が破綻を見た後であるが、 戦争を経て後も産業革命から続く「合理性」の地位は長らく揺るがない。
ものの価値はそれと交換可能な貨幣の多寡に依り、同様に人間の価値も入手可能な貨幣の多寡による。
合理性の肖像画として世界の軋轢と不均衡を描く現代美術もまた、交換価値と労働価値の天秤に載せられる「商品」へと無事に包括されたが、 しかし未だ我々の中に住む野蛮人は時に貨幣価値ゼロのガラクタを黄金のように崇拝し、また費用対効果が釣り合わない探索行動そのものに没頭する。
地球の資源が有限である事が明確になってきたとき環境保全や資源の循環への強い機運が沸き起こったが、 それを牽引したのは理性というより、太古の狩猟採集時代に欠乏から身を守ろうとした古い本能によるものだったかもしれない。
産業革命以後、おさがりは野蛮である。
会田誠お手製謎のつまみ「〆の辛ラーメン」
会田さん自ら料理をよそう
次回は12/8(火)開催!
いかがでしたでしょうか。雄弁に語る酒井さんのテキスト、読み応えがありましたね。
さて、待望のぼったくりBAR第3夜は12/8(火)開催。ゲストは「メンヘラ展」の主催などで注目を集める現代美術家でTAV Galleryキュレーターの、あおいうにさん。あおいうに×会田誠で何が起こるのか。ぜひぜひ目撃しにきてくださいね!第3夜の詳細はこちら。