2018年1月7日に実作講座「演劇 似て非なるもの」第5期生による公開試演会が開催されました。試演会では、5名の受講生がそれぞれの作品を公演したのち、ゲストにARICAの演出家・藤田康城さんを迎えて講評が行われました。以下は、試演会に参加した受講生の演目とレポートです。
なお、5期生の修了公演は4月末に美学校で開催予定です。詳細は開催が近づいて来ましたら当サイトにて発表いたします。
試演会演目とレポート
1.『ノック・ゲットバック・ノック』
作・演出・出演(男):山﨑洋司 Yohji Yamazaki
出演(ノック):綾野文麿
出演(コロス):曽根安代、小林麻衣子、竹尾宇加
「試演会、講評会を終えて、」 山﨑洋司
試演会を終えて講評会が始まった。まさに、処刑される、というやつだ。俺は敢えて観客席を見つめた。無自覚な観客は自分が見る側から見られる側になった事に反応し、気配が揺らめいた。現象を起こす。現象とはなんであろうか。
藤田康城は、演劇は現象を起こす事だと言った。そして、私は寒いでは無く、世界は寒いという事を描かねばなら無いと。この二つの関連性は何であろうか。
残像。恐らく五期のテーマ[集合を貫通する一貫性]。は、過去という自分の影だったのでは無いか。
残像を出すにはその前に強烈な存在を出さなければなら無いと言っていた。ユングは人間は誰しも影を心の中に持っていて、自分が普段抑圧している部分を人格として、持っていると、影が照らされてしまう。と言った。
だから、それを避ける。と。
人は過去を背負った怪物である。それは身体という事でもあるだろう。自分の身体を見せれば、相手の身体もそこに在る事が把握出来るだろう。そこに立てば、相手がそこに立っている事も認知出来るだろう。
私達は観客という存在に照らされるだけの強さを持っていただろうか。観客という存在を照らす強さを持っていただろうか。観客という存在の影を照らすだけの私達の影を示す事が出来ていただろうか。
生西さん的には何のテーマも決めなくて良いという事だったが、果たしてそれでもいいのだろうか。
この体験を影にしてはなら無いと言っているんだ。
それを否定しなければ、それを否定するという事は影を意識するという事だ。仮面を被る、という事だ。
[人は仮面を被る時、内側の影を見つめる。]
自分自身が現象になる。という事だ。
言葉を使うという事だ。言葉を使って相手に伝えるという事だ。この空間に自分が自分として、立っている。という事だ。
世界は寒いと宣言し、観客を共振させたら、現象になるのか、その為には自身の姿。影[現象]を見せなくては。そこに在る観客という仮面を被った現象に。
仮面を被る事は自分の背後に在る影を意識する事に他なら無い。
『私という現象は病気です。表現する事を慾っします。山﨑洋司でした。』
『私』は、こう、宣言、した。
2.『コトバについての考察』
作・演出・出演:竹尾宇加 Uka Takeo
「試演会・講評会を終えて」 竹尾宇加
今回の経験を通じて、とても興味深い気付きがあった。
まず、身体と言葉との距離。
(稽古含め)舞台上で言葉を発していく回数が増える度に
言葉が身体に吸い付いてくる感覚があった。
講評会で、ゲストの藤田さんが「良い役者というのは
言葉を自分のモノとしている。
そこに自由を感じ取ることが出来るようだ。」
というような旨の話をされていたが、
その意味がなんとなくわかったような気がした。
(私は役者でもなんでもないが。)
少しだけ物事の本質に触れられたような気がして嬉しかった。
また、私は好んで普段から絵を描いているが
上記の感覚は絵にも通じていると感じた。
例えば、静物画を描いていると、その対象物
-林檎を描いていたら林檎-と自分自身との境界線が
曖昧になってくる瞬間がある。上手く表現することが
難しいのだが…そんな不思議な感覚が起こることがある。
今回の試演会では、コトバとした事柄や照明等
問題点は多々あったが、純粋に楽しめたと思う。
最後に、講師の生西康典さんをはじめ
ゲストの藤田康城さん、それから安藤朋子さん
堀江進司さんと出会えたことに感謝します。
お金では買う事のできない大切な時間を共有でき、
私は幸せ者だと思い知りました。
3.『あちらへいく途中』
作・演出・出演:小林麻衣子 Maiko Kobayashi
「もっと徹底的に」 小林麻衣子
個人で発表する作品についてはわりと内容はすぐ決まり、あまり悩まずできたのですが、いざ本番を終えると、動機付けと言うか自分がなぜこれをやるのか、やる必要性は果たしてあるのかということが全然考えられていなかったとわかりました。
発表全体を通じては今回、個人発表ということで稽古も個人の作品ごとに行うのがほとんどだったように思います。当初から個人ごとの発表を行うと決めていたのですが、可能であればもっと全体を通した稽古回数を増やせばよかったと思いました。テーマや演出などバラバラな分、作品と作品の間に意識を向けてみたら、また違うものができたはずです。
現実的にはギリギリまで台本の改定などあり本番と同じ内容で稽古をすることは厳しかった部分はありまが、全然異なる内容の作品の間を活かしてみるのもおもしろかったなぁと思いました。
講評会では藤田さんから「方言で話すならばきちんと話すこと」「¨残像¨というならば、しっかり光の部分を出さなくては」と、尤もなご指摘をいただき、返す言葉もありませんでした。 しかし、せっかくの講評会。自分で作った作品なのだから、せめて解説くらいは責任をもって伝えなければならなかったと思い、簡単に放棄してしまったことを悔やんでいます。 それらも含めて、作品に対して突き詰めて考えられていないということを自覚することができた点においては、よかったです。
作品に向かう姿勢や作品の内容そのもの、もっと徹底にやっていきたい、試作品講評会を終えてそう 思っています。
追記として(小林から生西への私信)
生西さん
…唐突ですが先日、お寺の本堂地下の真っ暗な通路を歩く「胎内巡り」をしました。暗闇の中を歩いていると自分の足が床を踏みしめる感覚と、左手が手摺を伝う感覚に集中することができ、おもしろかったです。
今度、首くくり栲像さんの行為をみた際にどんなものが伝わってくるのか楽しみになりました。
4.『Shimmer [写像A↔︎鏡像B]』
作・演出:綾野文麿 Fumimaro Ayano
出演:綾野文麿、山崎洋司、小林麻衣子
5.『多感の音 不感の熱』
作・演出:曽根安代 Yasuyo Sone
出演:山崎洋司、小林麻衣子、綾野文麿、曽根安代
「コミュニケーション媒体の可能性開拓」曽根安代
私は今回「演劇」という媒体を使って「論文」めいたものを作っていたのかもしれません。
講評会の議題は主に「『詩』に求められるような直感的な理解を促す表現」を作品の良し悪しの基準にして進められていたように思います。
私は詩的なものもよく書きますし、大好きです。
しかし「論文」と「詩」どちらが優れているかなどという話はいくら語ったところで平行線、
当然「分かりやすさ」や「伝える」の意味も全く異なります。
私は今回の脚本を極めてロジカルに構成していきました。左脳をフル活用していたと思います。
「論文」的な意味での分かりやすさをコンセプトにしていたからです。
制作当初からの目的であるこのコンセプトはある程度達成されたと感じ、個人的には満足しています。
人によって見解が異なる「表現」の定義についてですが、私は作品での「表現」を「コミュニケーション媒体の一種」であると考えています。
枠に囚われない自由なコミュニケーションをめざすには、「詩」的なものも「論文」的なものもどちらも表現方法として肯定し、率先して取り入れるべきだと考えています。
「詩」と「論文」を戦わせるのではなく。
より優れたコミュニケーションの可能性を開拓すべく、論文的表現と詩的表現の長所をそれぞれどちらも生かした作品を作っていきたいと思います。
講演会でもそうだったように、お喋りでは既に似たようなことを出来ていると感じるので、作品にも応用して落とし込んでいきたいです。
もしかしたら、論文的な表現の演劇をするなら論文を書けばいいのでは?詩的な表現の演劇をするなら詩を書けばいいのでは?という結論に落ち着く可能性もあります。
どの媒体を使うことでどの層に当てはまりどんな交流を生むのか、演劇だけでなく色んな種類の表現の中で実験していきたいと思います。
その実験がより楽しいコミュニケーションを生み、私の人生をより豊かに有意義にしてくれると直感します。
今回の実験も楽しかった!
講評会の様子
▷授業日:隔週火曜日19:00〜22:00+月1回外部開催
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。