修了生インタビュー「平出隆」



 昨年より行われている修了生インタビューの今年一人目は、1971年度細密画教場の修了生で、詩人・造本家としてご活躍されている平出隆さんです。インタビュアーは現役美学校生であり、多摩美術大学学生の香坂はるひさんです。香坂さんは、平出さんが著作・装丁・出版のすべてを手がけるvia wwalnutsのスタッフでもあります。


  修了生インタビュー 平出 隆 〈美学校の周辺〉


 インタビュー日時:2013年1月、Twitter上にて

香坂 明けましておめでとうございます。年の初めにこのようなインタビューのお話を頂け、とても光栄に思います。今回インタビュアーを務めます香坂はるひと申します。 現在、多摩美術大学グラフィック科2年、via wwalnutsスタッフ、そして昨年から美学校に通っています。実は、こうして今、vwwと関わることができているのも、私が先生の「言語芸術論」の授業終わりに、美学校についてお尋ねしたことから始まります。 平出先生は1970年に一橋大学入学と同時に、美学校の細密画工房に入られたとお伺いしました。 早速ですが、まず美学校に入られた経緯を教えていただけますか。  

平出 明けましておめでとうございます。 多摩美の学生に美學校に通う人がいて、こういうインタビューがあるとは思いませんでした。 それにあなたは、昨夏から私個人の出版活動 via wwalnutsにも飛び込んで来た人だから、よほど縁があるんでしょうね(笑)。

まず、美學校に入った経緯についてお話ししましょう。その前に、いまはどうなのか、当時はロゴが強烈で、「美學校」の「學」の字はとくに複雑なほうを常用していたように思います。 そこで「學」のつもりで話しますが、あなたは「学」でいいんですよ。

さて、経緯ですが、1969年春は最初の大学受験でしたが、高校の早い時期から、東京に出ることを第一義に考えていたんです。 68年69年というのは「大学紛争」の時代で、教育の場だけではなく、文化や芸術や思想のすべてに、破壊的なエネルギーが渦巻いた時期でした。 小倉という地方都市の高校にいても、充分にいろいろな波動が伝わってきました。本や雑誌、新聞や映画からですね。 だから、69年春に渦の中心に入って行こうという計画だったんですが、失敗しました。

それでも、1969年春から美學校というものが開講した、ということは知っていましたし、知って、すぐにも入りたいんだが、と悔しく思ったことも憶えています。 それというのも、各工房とは別に受講できる「講義」があり、その「講師」の陣容が尋常じゃなかったんです。私は70年の入学になりましたから、少し豪華さが落ちたかなと思いましたが、それでも、土方巽、唐十郎、松山俊太郎、種村季弘といった方々の講義を聴講できました。69年には、たしか埴谷雄高さんもいらしたはずです。その辺の記録はありますか。

香坂 ありがとうございます。「學」と「学」、漢字だけではない違いが少しありそうです。ち ょうど69年あたりの記録があります。その年は、埴谷雄高さん、そして澁澤龍彦さんや瀧口修造さんも来られていたようです。 埴谷雄高さんは70年度のチラシにも名前が載っています。創立時のチラシが美学校webサイトにアップされました。ご覧下さい。創立時のチラシ

松山俊太郎さんは、昨年の11月まで美学校で講義を持たれていました。(聞くところによると69年の漫画のクラスは当初つげ義春さんが講師を担当する予定だったそうです。)実技の講師陣の豪華さももちろんですが、それに加えて講義の講師陣に惹かれる方も多かったのではと思います。

当時、平出先生の他に、どんな人が生徒として来ていたのかが気になります。先生のおっしゃる「破壊的なエネルギー」や、当時の美学校の雰囲気は、どのようなものだったのでしょうか。

平出 このチラシのアーカイヴはありがたいですね。見ていて随分いろんな細部を思い出せそうです。

来ていたのは、渾沌とした時代状況の中で、それでも美術をやっていこうという人たち。紛争で大学は荒れ放題でしたが、美術大学も同じでした。「美共闘」は1969年の夏に多摩美で結成され、それまでの美術制度を否定する学生運動として他の美大にも広がっていたのでしょう。私が知り合った中でも、美術大学を中退してきた人は結構いたと思います。あるいは美大進学を見切って、という人もいたでしょう。すいどーばた美術学院とか桑沢デザイン研究所とか、聞こえてきました。

そもそも現代思潮社の刊行物は反制度の思想ですからね。当時の美學校の精神、チラシの惹句にも美術大学批判は明確だったんです。「手」と「技」といったことばが打ち出され、「教えること教わること」が問われていく。いまもそうでしょうが。だからといって当時、「美共闘」的な学生が目立ったかというと、そんなでもなかったね。ぼくの入ったのが細密画教場だったせいかな、静かな人が多かった。それでも、社会思想の本を読みあさっているような人もいました。

こんな話を聞いて、いまの「美学校」はどうなのかな。多摩美の学生との違いということでもいいけれど、聞かせてください。

香坂 全員が反発・批判精神一色というわけではなかったのですね。「教えること教わること」が問われていく場所という点、今も変わりませんね。いま、美学校には60人程の生徒が来ています。様々な年代の人が集まることが大学との大きな違いです。世代が異なる人がひとつのクラスで授業を受けることや同じ机を囲むことは今までありませんでした。私の通うドローイングのクラスでは、「今ここで絵を描く時間に少しでも触れていたい」という空気を強く感じます。少なくとも大学ではあまり感じたことのない空気です。アンチ色はかなり薄くなりましたが、それでも美学校のオルタナティブな部分はいまも変わらないと思います。当時は大学や時代に対して批判的な人が多く来ていたということですが、実際に大学の実情はどうだったのかが気になります。以前、「造反有理」のお話をお聞きしましたが、先生が学生運動や美学校から受けられた影響など、ありましたでしょうか。  

平出 ぼくは団塊の世代のいちばん最後のところでね、じつに微妙なんです。お話ししたように、69年は文化的騒乱が最大の渦に達した年だとしたら、70年は、急激な収束の時代なんです。この落差の中で、ほんとうに、みなそれぞれ迷い子になったんでしょう。当然でしょうね。ぼくはそんな落差を意識させられながら、一方で、落差を観察もできる、そういう世代的位置にいたのかもしれません。

詩を書くということは、じつは高校時代から決っていたようなものでした。それなのに文学部には行きたくなくて、へそ曲がりにも「実業」の大学を受験したわけでしょう。一橋入学が決まった途端に、よし、美學校にも行くと決めたんです。親には、大学が私立じゃなくなったから、ここの授業料を一年くらい出してくれてもいいでしょ、というような感じで。当時の国立大学の授業料は1万2千円だったんです、年間で(笑)。

だから相当屈折してるね。詩を書こうとしているのが、わざわざ元「商科大学」に入って、バランスを取り直すように美學校をも選んだ。しかも、博物細密画という虚の極み。子羊としては、かなり積極的に迷おうとしていた子羊ですね。美學校では「一橋の一年生」として、やはりちょっと変な存在だったでしょうね。一方、一橋ではその年の秋に新聞部に入りました。ここは全国学生新聞連盟の書記局で、神田一橋に部室があったんです。部員はほとんど全共闘の活動家です。ここでも、やわな詩青年が入って来た、しかも美學校にも行っている、という変な目で見られたでしょう。

最初の下宿は新宿で夜、映画を見てからでも歩いて帰れるという理由で、幡ヶ谷を選びましたから、新宿に出ても国立は方向が違う。それで、新聞部と美学校と古本屋のある、神保町方面にばかり足が向いたんです。国立のキャンパスに通ったのは、美學校の講師陣にも名を連ねておられた出口裕弘先生のゼミだけ。ぼくがいま一橋大学の見える部屋で寝起きしているのは、その罪滅ぼしなんです。あ、まずいな、自分の教え子に対して、大学に通わなかった話をしては(笑)。 

香坂 大学自体にはあまり通われていなかったのですね。先生は「落差」とおっしゃりましたが、その落差の中、ご自分から新聞部、美学校へと向かわれたのですね。その中にいられながらなぜ細密画を選ばれたのかが、ずっとお伺いしたかったことの一つでした。「虚の極み」について、もう少しお話しいただけますか。

平出 なぜ「細密画」だったのか。知らず知らずのうちに、祖父の影響はあったでしょうね。

香坂 ご祖父様。よろしかったら、詳しくお聞かせ頂けませんか。

平出 祖父は小学生で家出をしてから、どこでどう学んだのか、いろんな外国語を身につけた風来坊でした。最後は対馬北部、朝鮮海峡の米軍基地で通訳をしたんですが、動物文学や探検ものの翻訳の仕事をしたかったようです。訳稿の束が遺っています。また、若い頃はコロタイプ印刷の技術者だったり、植物染料の研究者だったりしたようです。エスペランチストとしてその運動史にわずかに名を残しているようですし、「市井の博物学者」とでも呼んでやりたいところがありますが、ほとんど無名でした。生涯、絵を描きつづけましたが、後半生は、対馬各地を歩きながらした風景のスケッチなど、淡いものです。

ところが、若い頃、おそらく植物染料の技術研究者として、上村六郎さんという染料研究の学者さんに出会った。この上村先生は日本古来の染色について研究され、この分野の大家になられた方ですが、昭和初期に『日本上代染草考』という大著を上梓するにあたり、祖父に植物画を描かせました。昭和九年の本です。これは当時のコロタイプ印刷なので、モノクロームでしたが、のちに同じ植物画が、上村先生の別のご本に、カラー印刷で入りました。ぼくが中学のときに、祖父は離れた土地で亡くなり、ろくに話をした記憶もないんですが、遺品がそんなものばかりですから、飄飄として謎めいた生涯は、いつまでも遺族を包んでいた。祖父の植物細密画はどこから来たものなのか、ほんとうによく分らないんですが、いま見てもふしぎな味わいのものです。

美學校に入ると決めて、いくつかの教場の選択肢がある中で、祖父の植物画が脳裡に蘇ったことは確かでしょう。はるかのちになって、三年前か、祖父の生涯を遺品や遺墨から組み立てる小説にしましたが、自分でやることになったその『鳥を探しに』という本の装幀において、祖父の一連の博物細密画を、表紙のカバーに用いました。

香坂 ご祖父様のお話、とても面白いです。そうだったのですね。そうして、先生が、あの教室で、博物細密画を描かれていた。こうして先生の学生時代、美学校時代のお話をお聞きするのは、少しだけ不思議な感覚です。もっとお聞きしたいです!

平出 博物細密画というのは、昆虫図鑑や植物図鑑の画がひとつの典型になっているでしょう。だから、標本をそのまま描くというふうに考えられがちでしょうが、それではまずいんです。図鑑に載るということは、その種を代表する。ところが目の前の標本はあくまでも個体。ここに大きな矛盾があるんですね。個体のあるがままを描きつつ、種属の普遍性をこそあらわさなくてはいけない、という。まあ、そのへんのところまでは、細密画の面白さとしてなんとなく分っていたんですが、おそらく描いてみなければ分らない、もっと厳しい次元があるんだろうと思い、こわごわとこの教場を択んだのです。

先生は立石鐡臣先生で、台湾のお生まれ。日本画から入り、洋画に移り、岸田劉生や梅原龍三郎に学んだと聞いています。台北帝大の理学部から求められた仕事として、図鑑のための昆虫画などを描きはじめたそうです。先生は、そういう昆虫学や植物学との関係のほか、台湾をフィールドにした民俗学とも関係をもたれたそうで、のちになって知ったことですが、民俗学者の金関丈夫さんとも交流があったようです。そういう美術以外に関わるところが、私の祖父とも通じるものを感じさせたかもしれません。一方で、細密描法は、幻想絵画の技法にもつながるんですね。立石先生にも、図鑑などのいわば客観描法とは対照的な、幻想画の一連の作があります。細密になっていけばいくほど、現実を超えていくというのは、これもパラドクスではありますが、自然なパラドクスなんでしょうね。

香坂 私の中での細密画のイメージがどんどん変わっています。目の前の個体を超えてゆくのですね。立石鐡臣さん、細密画の他にも広く活動をされていたとお聞きしています。幻想絵画に通ずるものがある、とおっしゃりましたが、細密画が抱える自然な矛盾を実際に描かれた一年間を、先生はどのように感じられながら過ごされたのでしょうか。

平出 描きはじめてすぐに分ったこともあれば、ずっとあとになって、さまざまな経験や認識と結びついてやっと分って来たことも多いんですね。細密画教場で先生に最初に課題として与えられたのは、たしか、トンボの標本で、その翅だけを描くことだったように記憶します。Gペンにインクをつけて描くのでしたか。トンボの翅が線描で、次はサヤを開いたそら豆。同じくペンによる、こちらは点描でした。

それから、透明水彩に移り、ナスビを与えられた。ここで大変困ったのは、ぼくはナスビが大の苦手だったんです(笑)。食べ物としてはむしろ好物なんですが、あの色や形や触感すべてをくるめた存在ぶりが、とても恐ろしく感じられて、子供の頃から大の苦手だったんです。ところが、博物細密画というのは、素材と画面とのあいだに、視線を数えきれないほどの頻度で行き来させ、大変長い時間をかけて小さな一個体を描きつづける。ともすると、ナスビ一本と一カ月も過ごすことになるわけでして、これは特別な経験だな、と思いました。

次はノコギリクワガタムシです。ナスビとはちがって、初めから好感をもって受け容れたモチーフでしたが、ナスビ以上に、共に生きていく感じといいますか、同じ仲間といいますか(笑)、そういう感じが、描くほどに強くなっていったんですね。集中すると時間の経つのが分らなくなり、なにをやっているのかも分らなくなる。手は客観に近いところをめざして動いているんだけど、頭の中では、地上の位置を失っている感覚。とともに、なにか妄想の中に紛れ込むような気分さえしてくる。誇張していえば、これはノコギリクワガタムシが描いている自画像かな(笑)、などという気がしてくるほどなんです。自分の意識が対象に流れ込み、戻ってくるような気がして、また醒めもする。「虚のきわみ」といったのはそういう感覚におちいる地点のことでもあります。

博物細密画はまず、芸術作品とは見做されない種類の「画」でしょう。自然の細部に厖大な労力と根気を注ぎ込んで、写真ではできないことを果たしえても、絵画としては酬われない。図鑑の画として出たとしても、匿名に近い仕事ですし、金銭的に酬われないんです。でも、図鑑の画で身を立てることを考えて来た生徒はいなかったでしょうね。

香坂 どんなものを描かれていたのかたくさんの想像をしていましたが、ナスビのこわさがすこしだけわかります。クワガタのお話、とても面白いです…何かと見つめあって描くと、たまに、描く対象がどこまでも正常で、自分だけがぐるぐると、何かの洗脳にかけられて、成仏ができないモチーフの幽霊のような気がしてきます。

先生、69年から70年にかけての落差の中で先生は、芸術作品と見做されない、酬われない、そういった「遠さ」のあるものを選ばれました。そこには、当時の渦中から一歩身を引いた場所からの眼差しを感じ、それを今もなお、感じます。美学校に通われて、ご卒業し、そして現在に至るまで、詩、絵画、芸術への先生の眼差し、心の位置は、先生が学生だった頃から今まで、どのように在り続けられているのでしょうか。教えてください。

平出 はるひさんは、二十歳になった?

香坂 いえ、未だです。あと、ほんのすこしで、二十歳です。

平出 ぼくも十九歳で美學校に行ったので、同じですね。十九歳の年賀状というのが一枚だけ、送らずにいたのがいまも残っていて、それを見ると1970年の自分の心理が、或る程度、蘇ってきます。まず、この賀状はゼロックス・コピーによるコラージュで、ポール・ニザンの『アデン・アラビア』の一節が、ぼくの手書きでそこに書き込まれています。この本の冒頭は、「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。」というものです。つづいて、「一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも地位ある人びとの仲間に入ることも。世の中でおのれがどんな役割を果しているのか知るのは辛いことだ。」これがこの本の冒頭で、とても有名になった書き出しです(篠田浩一郎訳)。

でも、ぼくが年賀状に書き込んだのはその一節ではなくて、この本のほとんど最後のあたり、次の箇所でした。「ぼくらの行動のひとつたりとも怒りと無関係であってはならない。余暇に息をつき、夜中に休んでいては、時をむだに失うことになる、戦闘におくれてしまうことになる。それにしても愛だけが反抗の行為だ、彼らは愛を踏みつぶす。もしきみたちの両親が、きみたちの妻が敵側に属すると気づいたら、きみたちはこの人たちを棄てねばならない。/もはや憎むことを恐れてはならない。もはや狂信的であることを恥じてはならない。ぼくは彼らに不幸の借りがある。彼らは、ぼくを危うくだめにしてしまうところだったではないか。」というところ。

この一節を、漫画の吹き出しのような紙に書いて、高倉健の写真と組み合せたんです。それは「任侠やくざ映画」と呼ばれた『昭和残俠伝』シリーズの一作の大団円、一人で敵方へ斬込みに入った、立ち回りのシーンですね。ドスを振り下ろした直後で、返り血を浴びながらニザンのセリフを吐く健さんは、モノクロ・コピーにとると淡く掠れた。そこで、アルファベットのゴム印をつかって、振り下ろした右腕からドスのラインにCRUSHと捺し、葉書の三つの隅にはKEN、NIZAN、HIRAIDEと色を変えて捺しました。

加納光於と横尾忠則の影響がありそうですが、いまにして見れば、via wwalnutsの先駆けかな。ともあれ、この年賀状は大体、中学・高校時代の友人たちに送ったんですが、さすがにお母さん方からの反発の声が伝わってきて、「平出君と付き合うのはやめなさい、といわれたよ」などと友人たちから聞きました。まあ、年賀状ですから、なおさら刺戟が強すぎたかもしれません(笑)。

ともあれそういう時代だったのだから、反抗の身振り自体は、いまどうといって誇るものではないんです。ただ、先ほど「落差」といった中身は複雑だな、と思います。1969年と1970年とのあいだの時代的懸崖ということのほかに、自分自身の中に「二十歳」になるあたりの成年の落差があり、また、制度を否定する衝動に満ちた、挑発的なメールアートのようなものをこしらえる面と、博物細密画を習って、静かに「造化の秘密」に分け入っていこうとする面と、といった方法選択面での落差があるでしょう。

それから、詩の方へ向うことと美術の方へ向うこととのあいだの、いわば領域の落差ね。結局、その一年の途中、「新聞部」で詩論を書くこと、そして詩の方向へ踏み出すことで精一杯となり、大変な根気を必要とする細密画を内心で断念しました。立石先生には、一度だけ、「期待しているよ」と耳許で囁かれたことがあるんですが、持ちこたえられませんでした。

けれど、渦というのは大きなひとつだけではないと、細密画を学んだお陰で理解するようになりましたね。大きな渦から遠く離れているような人も、こちらからは見えない激しい渦の中にあるんだ、と。そうすると、大きな渦の中心と見えないほどの渦の中心とは、遠いけれど繫がっている、ということが分ってくるんです。

香坂 既にその頃に、via wwalnutsのたまごがあったのですね。すこし、これは、ご友人の方々を羨ましく思ってしまいました。十九歳の先生の、時代、方向、そして選択、領域、成年への落差。落差と聞くと、はじめ、真っ青な、高いところにある一方を、ずっと遠くから見つめる、という、静かに沈む眼差しを感じていました。でも、先生の落差の目線とは、一方へいくことだけでなく、沈みでもなく、そして、高低でもないものでした。ひとつでない渦達は、遠くにあっても、中心は繋がっているとおっしゃいました。先生はいつも私に、新しい目をくださります。もっと言うと、硝子でできたような……。

先生、二十歳になるということの、この心境が、どうにもわからずにいます。美学校も、もうすぐ卒業をしてしまいます。先生が美学校のことを通して、見せてくださった、わたしと同じ年の頃の先生がいます。この対談は、わたしの二十歳への途中に、絶対に有るべきものだったのだと、強く思います。かすかな渦が起きています。最後にもうひとつだけ、質問をさせてください。年賀状に書かれた一節に、”怒り”の文字がありました。”怒り”は、先生の中で、いまは、どんな形をしているのでしょうか。

平出 via wwalnuts 叢書が、そのかたちでしょうね。

香坂 それでは、via wwalnuts叢書でも、極小出版という単位・形から、その”渦の中心”を目指されているのでしょうか。

平出 たとえば、一本の樹木は、なんども強風や嵐を浴びる中で、自分の樹形をつくっていくでしょう。なにが最終的な自分のかたちになるかというと、世界からの脅威によって形成されるからなんですね。しかも、そのような受動態だけではなくて、外界に対する内側からの怒りによって自分を磨きあげるように感覚されるんです。生命の形態は、ノコギリクワガタムシでもナスビでも、そういう、内部からの怒りによって磨きあげられたひとつひとつの最終形だという気がしています。一人の人間がそういう最終形に至ることはなかなか難しいことですが、それは年月がかかるからではない。むしろ、若い頃に、すでに最終形があらわれているんですね。それを見出し、磨いていけばいいんです。だから、いつまでも若く、怒りつづけなければいけない。からだは老いていきますから、怒りかたの工夫も必要です。そんなときはなるべく静かに、次第に沈潜して、ときにはユーモアをもって怒りつづける。

香坂 先生は、いまも、怒りつづけている……戦闘している、それをわたしたち、いま、目撃しているんですね。いま、ぶるぶるとしています。先生、わたし、怒りつづけます。戦闘します。この怒りを、やめません。この言葉を、いつも掲げて、絵筆を握ろうと思います。”造本有理”!

平出 すごいね。頼もしい(笑)。但し、いまなにが伝わったのか、考えなければ。美學校の「基本構想」に語られている「最高の教育とは教える意志をもたぬものから必要なものを盗ませるということ」という一節を、ぼくも多摩美に来て、ときどき思い出してきました。「技芸」でさえそうならば、まして「怒り」など、教えるも盗ませるもないでしょう。

でも、はるひさんとの対話のおかげで『アデン・アラビア』をふたたび繙けたのはとてもよかった。この本から伝わってくるものが、かつてよりはるかに分ったから。こういう言葉を書きたいんだ、と切に思い、六十過ぎて、と自分に驚いたんだからね。だけど、ご両親は大切にしなければいけませんよ(笑)。