酒井貴史
まずはこの画像を見てほしい。
3月中旬頃から都内某美術大学で廃棄された物資の中から、貰い手が付きそうな物を厳選して並べたもの(年度の変わり目でもあり、引っ越しが集中するこの2ヶ月ほどの間に画像の数十倍の廃棄物が出ることについては過去の投稿を読んでもらえればありがたい)。
この場所は新学期と同時に開放され、中の物品は在学生および新入生に無料配布された。
この企画は「ワールドおさがりセンター」という。
このように再利用を促す場を用意してやれば多くの不要品が再び活用されるが、現状2月から4月にかけての学生の入れ替わりの期間にそのような受け皿は存在せず、多くの惜しむべき資材が処分されてしまう。
それは確かに致し方無いことで、美術系大学では生産のための技術研究こそ本分であり、廃棄物の処理や再利用は別の専門領域のものとされている(一応「金属も樹脂もガラスも産廃コンテナに放り込めば業者が回収してくれる」という指導は成される)。
しかし、美術系大学の学生達は卒業後、遥かに大きな物量を扱うことになる。数年後には国家規模の祭典に携わる者も出てくるだろう。特定の職業についた後にこそしかるべき知識が得られるとも言えるが、だが根源的なところでは、作ること、使うこと、棄てることは1つのものではなかったか。
ポールゴーギャンの絵画作品の1つに「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という題が付けられている。
題名の本来の文脈と異なることは承知で解釈すれば、キャンバスに描かれた油絵に限らず、携帯電話にせよ発電所にせよ、人が作り出すもの達は「役目を終えた後、我々はどこへ行くのか」という問いをあらかじめ抱いている。
ゴミが魔法のように消滅し、預かり知れぬ異世界から資材が送られて来る。この高度に分業化不可視化された社会の枠組みが今後も安泰であり続けるならば何より幸いだが、望み薄だろう。
己の専門の埒外をも内面化する世界観はかつて宗教が担ったが、死者の魂の行方すら業者の選択に懸かっている今となっては期待をかけ過ぎるのは酷だ。
他の領域への関心、越境はきわめて個人的な、内面的な動機が糸口となる。
そもそも僕自身がこのような無償譲渡の企画に駆り立てられたのも、美大教育や廃棄物に関する問題提起の意識からではなく不可視の領域への関心だった。
物捨山の話をしよう。
まずは物々交換所から説明しなければならない。
「山の物々交換所」は多摩川源流に近い山中で開かれる。
その年の死者、あるいは土地を去る者が遺した物資を一所に集め、必要とする者に譲渡する風習。もちろん現住者も余剰物を持ち込む、要は伝統的なフリーマーケットだ。
ただし、ここでは品物は大きな敷物の上に纏められ、誰がどれを持ちこんだかわからなくなる。
秋田の鹿島様のような大きさの、竹の骨組みにボロ切れを纏った道祖神のようなものが敷物を見下ろしている。山神か付喪神かわからないが、敷物の上の物は一旦これの供え物になる。物にまとわりつく執着や、貸し借り、しがらみやらをいちど帳消しにするということだろう。
ところで予想していたことだが、貰い手が付かない物が残っている。
それはどうするのか宿直の青年に尋ねると「物捨山」に運ぶという。ゴミ捨て場だろうか?そこは何なのか聞いてみた。
物捨山に運ばれるのは単なるゴミや余り物ではなく、無償の譲渡の場で最後まで貰い手がつかなかった、必要とする者が現れなかった残り物でなくてはならない。貰い手が付いた品物には、つまり人との縁があったということ。最後に残るのは人から遠い「無縁物」。
有縁と無縁は磁石の両極のように一対である、だから人が立ち入らない場所を選び、そこに誰も顧みない物が集まる場所を作っておく。 無縁の器を無縁の物で満たしておくことで、人の住む有縁の世界も成り立つという理屈だ。
ぜひその場所を見てみたいという僕の申し出はすげなく断られてしまった。
そこに案内してもらうには物々交換所に倣った譲渡の儀式を開き、しきたり通り「お供え物」を手にいれる必要がある。捨ててくる物がなくては二度と帰れないのが無縁の場所というのはもっともな話だ。
僕が「ワールドおさがりセンター」という企画を立てた理由は大まかにこのようなもの。
なお、物捨山の場所を明かすことは禁じられているが、あなたがお供え物を用意するなら話は別だ。
物々交換所
物々交換所はまだ使える不要品を収集して貰い手を探すための場所です。ここに置いてある物は遠慮なく持ち帰ってください。
物を置く時、貰う時にどんな物があるかツイッターでつぶやいてください。もしくは交換所の棚を整理してもらえるとありがたいです。
酒井貴史
1985年10月28日宮城県山元町出身。2009年武蔵野美術大学卒業。現在、物々交換所管理人。詳しくはツイッターから。https://twitter.com/koukanjyo