隠れた名作を語る!
『街の恋』上映記念トーク 『音楽とダンスと女』前編


 菊地成孔×岸野雄一×ヴィヴィアン佐藤


フェデリコ・フェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニの監督作を含むイタリアのオムニバス映画『街の恋』。永らく日本未発表だったこの作品が、2013年8月23日にDVDとブルーレイで発売となった。これを記念した上映&トークイベントが9月7日(土)にアップリンクにて行われた。本校講師である菊地成孔、岸野雄一に加え、ドラァグクイーンのヴィヴィアン佐藤の3人が登壇。軽快なトークを繰り広げた。

芸術運動は頭でっかちで実践というのは危なっかしいもの


 菊地成孔(以下、菊地) まずは『街の恋』という作品の概要から話していきましょうか。
えーと、そもそも、この作品が生まれる背景として、戦後すぐのイタリアで生まれた”ネオリアリズモ”という芸術運動の存在があります。これは主に映画と文学を中心に起こった芸術運動なんですが、その映画における理論的指導者が、チェザーレ・サバティー二という人。この『街の恋』という映画は、そのサバティーニがプロデュースしたオムニバス形式の作品です。

岸野雄一(以下、岸野) ネオリアリズモは、有名どころだとロベルト・ロッセリーニとかヴィットリオ・デ・シーカといったイタリア映画の巨匠を排出していますね。

菊地 ネオリアリズモの映画は、「ドキュメンタリーなのか?フェイクドキュメンタリーなのか?」というところに可能性を求めていました。まぁ、いわばちょっと頭でっかちな芸術集団だった訳です。
一般的に、芸術運動というもの自体に少なからず危なっかしい面というのがありまして、例えば、イタリアには音楽と美術のほうで有名な未来派というのがあります。この未来派もだいぶ頭でっかちというか、理念と情熱はすごいんだけど実践が微妙だったというね(笑)。このネオリアリズモも、実践においてはそういう危うい面があったということです。

20世紀シネフィル的に言うと、この映画はミケランジェロ・アントニオーニとフェデリコ・フェリーニという二大巨匠の未公開作品が入った短編集なので、ファンにとっては溜まらないコレクターズアイテムになってますね。
余談ですが、日本語で読めるフェリーニ関連の書籍で、この作品を『街の恋』と訳しているのはひとつもなくて、当時は『巷の恋』と呼ばれていました。今回リリースする際に、元のニュアンスに近い『街の恋』と改題されたわけです。citta(チッタ)っていうのはcityですから。巷って訳すのは美文調っていうか、この昭和感(笑)。

ヴィヴィアン佐藤(以下、佐藤) 色っぽい。英語版だと「Love In The City」ね。

菊地 個々の監督についてもう少し触れておくと、例えば、アントニオーニなんかは、ちゃんと自分なりのネオリアリズム解釈でこの作品に参加しています。タカ派じゃないんでね。

一方、フェリーニはどうだったかというと、この人は非常にやんちゃなので、ネオリアリズモ一派と一悶着起こしているんですね。フェリーニの研究書にはすべからく、この『街の恋』という作品はフェリーニがサバティー二と喧嘩した映画だって書いてある(笑)。サバティー二の発言も残ってて、「フェリーニはネオリアリズモに迎合して一緒に作品を作ろうと言ってきたくせに裏切った」と。
どういう事かというと、この『街の恋』でフェリーニが監督した『結婚相談所』という作品、「実話を元にした映画を撮るから、やらせてくれよ、ネオリアリズモのコンセプトに添ってるだろ?」ということで撮ったわけなんですが、実はそれは真っ赤な嘘で、実話どころか、完全に作り話だったんですね。だからやりかたとしてはひどいっていうか、「実話だからいいでしょ?」という感じでこの企画に参加しておいて、最初から実話じゃなかった(笑)。いかにも実話風の美談を入れたっていう。あの人は嘘つきですから。この話はシネフィルの間では有名ですよね。

フェリーニはシュールレアリズムでいうとサルバドール・ダリみたいな立場で、インターナショナリストとして独立すると同時に、運動から離脱していく。具体的にダリみたいに除籍された訳ではないですけど、除名されるような流れの中で、彼一人がインターナショナリストになった。この作品を観ると、しばしば「ナショナリストだ、イタリア人だ」と評されるフェリーニが、実はいかにインターナショナリストだというのがよくわかりますね。

だから芸術運動というのはしばしば頭でっかちで、実践面では非常に危なっかしいんだけど、情熱はあるから、必ず左翼集団化する。で、後に有名になる人は最初からそこと揉める要素を持っていて、揉めてその集団を飛び出したのちに有名になるっていう、よくあるケースの記録にもなっている作品だと思います。

ドキュメンタリーを撮ればリアリズムってわけじゃない


菊地 リアリズムっちゅうぐらいだから、事実をありのままに記録すれば良いというか、ドキュメンタリーを撮ればそれでリアリズムが成立するのか? というと、ここが微妙な所で……。これはもうご覧になったみなさんはお分かりだと思いますが、かなりドキュメンタリックな虚構になっている。例えば『カテリーナの物語』に出ている、子捨てのお母さん。あれは本人が演じています。まあ、いわゆる本人出演の再現VTRのようなものだと思って頂いて結構。実話を元に虚構を作って、そこで本人が実際に演じちゃえばそれがリアリズムか?というと、それもどうかと思いますよね。本人が出演しているからすごいでしょ?というような……安直さと言いますか。

岸野 そこがね。映画が色んな事やってみようという時代でしたから、「本人にやらせれば迫真性というか、現実との齟齬が起きにくいんじゃないか?」ということを考えた時期だったんだよね。

8ax82cc97f65映画『街の恋』より

病んだ女と恋愛と都市


岸野 ヴィヴィアンさんはこの映画をどう見ましたか?

佐藤 そうねぇ、基本的には恋愛。恋愛に至る映画だなあと。あとは、都市との関連が多かったですね。恋愛もいろんな恋愛が描かれているのですが、『3時間のパラダイス』ではダンスホールが舞台ですし、パブリックな場所での恋愛模様が印象的でしたね。家の中とか、プライベートな場所が舞台になるチャプターがあまりなかったですよね。売春も外ですし。スペインの映画監督でペドロ・アルモドバルとかもそうですけど、広場で売春婦が立っててバイクとか車で買いに来る感じ。ああいうのって、日本にはないですよねえ。

菊地 ないですねえ。

佐藤 昔ほら、大久保のホテル街とかで車で入ってくと立ちんぼの人たちがたくさん出てきたり、90年代ぐらいまではありましたけど、ああいう広場でこう車でアクセスして交渉してっていうのはないですよね。ああいう「都市/街と乗り物」の関係が面白いなあって。

菊地 モータリゼーションについて描いてますよね。

岸野 大通りは稼ぎがいいけど危険だ、みたいな。

佐藤 ひたすら夜歩く売春婦……。

岸野 つぶしたシューズが二十足♪

菊地 (笑)。テーマも「売春」、「自殺」ときて、次のフェリーニの話はけっこう救われるような話だけど、さっきも言ったように作り話ですし……で、「子捨て」がきて、でまあ最後はイタリア人が女の人を見まくって、笑いにするって流れですよね。でも女性映画っていうかフェミニズムっていうか社会における女性の意味っていうものをたぶんサバティー二は、真剣に考えていたとは思えない(笑)。女性を題材にしておけばオムニバス映画のテーマは稼げるだろうくらいのノリで。
その中で極めて突出した異物感を出しているのは、『3時間のパラダイス』のお見合いダンスのシーンですね。音楽が鳴って、パートナーを探してダンスしてるんだけど、「時間が来たら終わりですよ!」みたいな感じでナンパが中断されちゃうという(笑)。私、それなりにこの時代のパーティーカルチャーやダンスカルチャー、ジャズやラテンと結びついたものの研究している方だと思うんですが、ああいうシステムは知りませんでした。

岸野 あんな丁々発止だったのかと。

菊地 お母さんがついてきたりしてね。自分のイケてない娘にちょっとこう、「お前行ってきなさいよ!」とか「あの人がいい!」とか(笑)けしかけるんですよね。

佐藤 男性を値踏みして「あいつはいいけど……

菊地 「こいつはダメ!」とかね。

岸野 あと、女の子の「彼氏がいるんだゴメン!」みたいな時の、「いやいやまあまあまあ…」みたいな男の感じとか、あれいいよね。

菊地 いいですよね。あとは、わりと早くパーティーが終わるところとか(笑)。

岸野 「七時だわ!」ってね。

菊地 あと、演奏しているバンドと音が全然合ってないのが面白い。

岸野 ネオリアリズモっていうのが何によって成立していたかというと、アフレコなんですよ。”リアリズム”っていうくらいだから、リアル感を追求して、同時録音されているんじゃないかと思うでしょ? ところがそれは正反対で、全てアフレコで作り込まれた音なんです。そもそも、街中でロケをしていたら、ローマの「ガガガガガ」っていう工事の騒音がうるさくて、とてもじゃないけど録音なんかできないですよ。他にもこの映画では、素人を役者に使っていますが、彼らはプロの俳優じゃないんでセリフなんて喋れない。セリフはあとからプロによって差し替えられる事が前提になっているんですね。だから、ここに出てくる役者たちは、顔や表情で選ばれているんです。

菊地 顔!

岸野 いい顔の素人使って、台詞はきちんとプロの俳優がアテレコしていた。で、その辺が虚と実。虚を描くのか実を描くのか? ということの問題になってくる。フェリーニは、いち早くそういう嘘に気がついていて、嘘をちゃんと実であるかのように、「こう織り交ぜれば映画として見世物としておもしろいでしょ? イタリア的には」みたいなこと考えていたよね。その萌芽がちょっと見れると思いますよ、この作品は。だって結婚相談所の道案内をするのが、あんな大勢の子供たちなんて。あれどう考えてもおかしいし、フロイト的に分析してみても面白いでしょうね。

佐藤 あのアパートなんかもすごい迷宮的でね、暗示しているしね。

菊地 これは解説にも書きましたが、フェリーニのマニアにとってはもう垂涎ですよ。結婚相談所の所長が何かわけのわかんないこと言うけど、擬音みたいなオノマトペみたいな。あれがおそらく「ASA NISI MASA(アサ ニシ マサ)」っていう『8 1/2』の擬音のものだろう、と。あそこに出てくるそもそも登場する天使的な女性が『甘い生活』の最後に出てくる女の子だ、とも言える。ジェルソミーナ的な。この作品の翌年に『道』が作られていることもありますし、聖少女的なキャラの原型もあります、といった見立てが山ほどできる。

岸野 一番最後のショットなんてね、前景が全然関係ない通行人のタバコ吸っているおじさんじゃない(笑)? 遠景に登場人物がいて、タバコ吸ったところでカットでしょ? あれなんかもね『フェリーニのローマ』っぽいよね。

佐藤 あれも都市がクローズアップされていたわね。

岸野 作品の作りとしてはフェリーニに限らず群像劇、点描になりますよね。どうしても都市を描くとなるとそうなる。いろんなところが同時に進行している感じって描き方の力量問われますよね。『イタリア人は見つめる』の路面バスのシーンで、おっさんにちょっと目をつけられて後をつけられるシーンは、ほぼバストショットや手とかのクローズアップだよね。クローズアップだけであの関係というか運動を表現できているとこが基本的な技術が高いのがわかる。

菊地 主義が立ち上がってゆくと情熱と共にスキルが底上げされるという事でしょう。

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映画はニュースとレヴューのあいだにキメラとして育った


菊地 この時代から60年代初頭にかけて、映画とテレビとの関係がよく指摘されている事にも触れておきましょう。この時期、ヨーロッパではオムニバス映画の全盛期で、たくさんの優れたオムニバス映画が作られていました。それは、テレビへの対抗策としての側面もあったんじゃないかと。長尺の映画一本を観るのはきつい、あるいは愚にもつかない駄作があったとしても、短編のオム二バスだから次の作品が面白ければ全体としてはOKということになる。

佐藤 コンビネーションで見ることができますからね。

菊地 そうですね。この『街の恋』も、そうしたオムニバス全盛期のうちの一本、という捉え方もできるわけなんですが、この作品のように、芸術思想、理論の統一性が入っているオムニバスというのは非常に珍しいです。それぞれの作品に、監督ごとの「これが新現実主義だ」という主張が折り込まれている。さっき岸野さんもおっしゃられたように、カメラを持って集音機をもって映画を撮るとなると「リアルとアンリアル」の問題に行き着く。映画は現実か現実じゃないかっていうところがまた微妙で。

岸野 映画のそもそもの出自がね、ニュースでありながら見せ物でもあった訳だから。ニュースとレヴュー(大衆娯楽演芸)のあいのことして、キメラとして育ってしまった背景があるからね。

菊地 一番幸せなのは「リアルもアンリアルもない、映画は映画だ」というように、特にそのことは考えずにやってくっていうのが大半だと思うんですけど。思い当たらざるを得ないですよね。アフレコで実際の役者と違う声が充てられているのならば、それはもうアンリアルなわけなんで。

岸野 ふだん我々はそこに考えが至らないように気を付けて映画を観ているのかしら。

佐藤 エンタメならそうですよね。そもそも写真も、写真だったら全部死んだ人の写真とも言えるし。コクトーが「映画は労働している死者を撮っている」とか。結局はリアルではない。映画は映画でしかない。

岸野 よく映画を観た観客が、「あんなこと現実にはありえないわよねえ」みたいな事言ったりするけれど、そんな事言ったらそもそも宇宙人なんて攻めて来ないよ!という事になりますからね(笑)。どういう態度でみんなが映画を観ているのかが、ほんとわかんない。
リアルとアンリアルという話で言うと、街中でカメラを回しているときに、役者じゃない、浮浪者みたいなのが近づいてきてカメラを見たりするでしょ? ああいう時に「うわ! 今映画が映画じゃなくなる瞬間かもしれない!」とドキドキして、これこそ映画だよな! と思ったりします。

8ax82cc97f63映画『街の恋』より

フェリーニの虚構〜マジックレアリズモ


岸野 当時のいろんな批評誌で、『街の恋』がフェリーニを解釈するのに重要な作品だと書かれてあるのは読みましたよ。でもこの作品、当時は簡単に観ることができなかったから、けっこう肥大化して書かれているでしょ?

菊地 ネオリアリズモ派との決別といったような。ネオリアリズモ派という徒党を組んで理論的な指導者がいてみんなで実践していこうとチームはだいたい廃れてしまうわけですけど。スターがそこから出てくるというような構造が構造的なこととしてありうるというか。

佐藤 ルキノ・ビスコンティもそうでしたね。

岸野 ビスコンティやフェリーニはそれぞれイタリアで、当時こういうことやっていて、後に「退廃」っていうような方向に向かったというのはものすごく興味ある。ロッセリーニやデ・シーカの評価が高過ぎた。世界的な評価になっちゃったから。そこから違うことをするにはどうしようかというと、ビスコンティやフェリーニが描いたような退廃的な表現を使った方法論しかなかったのかなっていう。

菊地 ニュース映画が一番盛んだったのは第二次大戦中で、今見直すとニュース映画のほとんどがドキュメント素材を利用したフェイク・ドキュメントですので。ここらへんは「にわとりが先か卵が先か」というアポリオ、難問ですから。いずれにせよフェリーニもアントニオーニもビスコンティも、ネオリアリズモから個人的なマジックレアリズモに移行するっていうか、卒業するっていうか羽ばたいていくようなイメージで出ていくわけで、そういったものの記録としてもこの映画は観る価値がある。最初からフェリーニが作り話で参入していたのは、実にフェリーニらしいですし。

佐藤 お三方ほんとに違う意味のリアリズムを行っていますものね。ビスコンティの延々に踊るシーンとかあるじゃないですか。後期の『山猫』とか。あれもリアリズムよね。

菊地 実際ああいうものを見てきた人にしかわからないリアリズム、回想のリアリズムがありますよね。

佐藤 変な話ですが、良い物を食べた後のウンコみたいなもんですよね。良い物を食べないと出てこない。

菊地 ははははは! 全部が斜陽ですからねビスコンティは。バスローブに「LV」って書いてあったんで「お前、ルイ・ヴィトン着ててすごいな」「いやいやうちの家紋だよ」みたいな。ルキノ・ビスコンティ、Luchino(ルチーノ)ですけども。

岸野 アラン・ドロンが『山猫』に出演した時に監督のヴィスコンティのカバンを見て「あ、映画監督になると凄くお金のかかった自分の名前がはいったバッグを持つことができるんだ!」と思ったっていう。

菊地 それは逆だった(笑)。ほんとにルイ・ヴィトンだった(笑)。エリッヒ・フォン・シュトロハイムとかもそうですけど、ある種の貴族的な経験をしたことがある人が「平民にはわかんないだろう?」っていう「こういうことが世に中にはあるんだよ」ってものすごい贅をかけて映像にしてみるっていうのはそれはもう経験の素描なわけだから一種のリアリズムだけれども、逆にフェリーニの有名な『甘い生活』の最後にスワッピングのパーティーが出てきますけども、あれは全て空想の産物なんです。フェリーニは、ローマにああいう退廃的な富裕層がいてスワッピングのパーティーをやっているらしいって聞いただけで撮ることにしちゃったんだけど、実際に見た事がないから、どう撮っていいかわからない。そこで、そういう事をやってそうな奴はいないか、ってことで、(ピエル・パオロ・)パゾリーニに聞いたっていう(笑)。パゾリーニのところに行って「マスコミ関係者がやってるスワッピングパーティーってどんなの?」って聞いたら結局「俺も知らない」っていうオチ(笑)。だからあれは空想で作ってるんです。完全な作り話なんだけど、すさまじいリアリズムがある。離婚したばかりの色っぽいおばさんが、レコードかけて、さぁ今から脱ぐんだってところに旦那が帰ってきて毛布ぱっとかける、とかそういうシーンを考えた。あれは全部嘘なんで、ビスコンティとは真逆なんですね。

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