菊地成孔×岸野雄一×ヴィヴィアン佐藤
フェデリコ・フェリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニの監督作を含む、イタリアのオムニバス映画『街の恋』DVD化を記念してUPLINKにて行われたトークイベントの後編。吉田アミも交えながら、イタリア人監督たちの描く女、その『見る/見られる』関係を爆笑と共に掘り下げていく。
音楽という現象は、リアル/アンリアルの彼岸である
菊地 昔、蓮實重彦先生と対談した時に、音楽っていうのはリアル/アンリアルの彼岸を超えているという話になりました。どういう事かというと、音っていうのはそもそも全て”リアル”であると。”抽象音楽”とはいっても、その場で実際に鳴っている”音”であると。
岸野 物理現象ですからね。
菊地 映像の方はリアル/アンリアルの境界が非常に曖昧というか、そもそそもキメラであるのに対して、音は極端にリアルであると。そこで、「これからの映画の中のドキュメンタリズムの意味合いは音楽が握っているだろう」という話をさせていただいたんですけど。で、フレデリック・ワイズマンを出してきて「一切劇音楽が入らないっていうのがドキュメンタリーだ」っていう論法になっていく。
佐藤 字幕も音楽も説明もない。
岸野 とはいえ、音楽は物理現象でありながらイメージなんてものも持ちやがるから始末に負えないんですけどね(笑)。
菊地 ヨーロッパのオムニバス映画っていうのは、一人の音楽家が通しで担当する事が多いんですよ。30分ずつ違う音楽家起用していると大変なので。この『街の恋』では、マリオ・ナシメ―ネという、そこそこ有名な音楽家が全ての音楽を担当しているんですけど、これね、みなさん気が付かれたかどうか、映画が始まってすぐ「パロフィルム」って出たあとにバッハのトッカータとフーガが一瞬流れるんですよね、ちっちゃい音で。ぴらりーぴらりらりってぃー♪…ってどういうつもりなんだ!? こんな有名な曲!(笑)そのあとすぐオリジナルのスコアに続くんですけど……アレなんだったんだろうな?っていうのがね。
岸野 あの、やはり重厚さを……(笑)。
菊地 醸したかったんだろうね(笑)。
岸野 たぶんあれだよ、いうなればこれセミドキュメンタリー、日本で言うと実録モノとかでしょ。(ものものしいナレーション風に)「みなさんは信じられますか? この売春の世界を……!」。
菊地 あはははははははっはっはっはっはっ(爆笑)!
岸野 最初にバッハ出しとけば重みが出るだろうというね。
佐藤 小学生がね、おもらししちゃった! ガーン! みたいなね。ふふふふ。
岸野 音楽のマリオ・ナシメ―ネはカーク・ダグラスの『バイキング』が良かったよ。あれはものすごく重厚な作りであれは分析に値する。あとアラン・ドロンの『高校教師』とか。あと『バラバ』ね。
ベスパに乗ったかわいいあの娘をイタリア人は見すぎてしまう
菊地 解説の中で和田先生が指摘されていますが、1952年というのは『ローマの休日』の年です。『街の恋』のラストを飾る『イタリア人は見つめる』という作品では、街中を歩く女性たちをひたすら撮り続けられている訳ですが、なかでも、ベスパに乗ってスカートがめくれあがる女の子が非常にかわいいですね。これはイタリア人が「イタリアの街を実際に走っている所を撮った」わけですけども「ベスパに乗ったかわいい女の子」というアイコンはアメリカ人が撮った虚構として52年に世界中に広まったという事は意識しておくべきだろうというのが、和田先生の書かれた解説の論旨ですね。
映画『街の恋』より
佐藤 この作品は、いわば『どっきりカメラ』よね。うふふふ。
菊地 オムニバスのラストに至るまでに、自殺未遂とか売春とか、当時の女の人のヤバい状況をネオリアリズモでもってあんなにえぐく描いているのに、最後が『どっきりカメラ』っていうね。あの流れがまさにイタリアっていう感じですね(笑)。
佐藤 この軽さには救済されますよね(笑)。
岸野 セリフがさ、「いい女を紹介しろ」っつって「さっそく現れたぞ」って。
佐藤 それしか考えてない。
菊地 一人か二人の女性を追って、そこから少しリアリズム的な視線になるのかと思ったら、結局最後までひたすら女の人がばんばんばんばん、次から次へと出てくるだけという(笑)。
岸野 物量作戦ですね。
佐藤 それにしても、イタリア人はちょっと(女性を)見すぎよね?
岸野 ナルちゃんはどう?普段街中とかでああいう風に女の人を見たりする?
菊地 全然見ますね(笑)。
佐藤 私はよく見られますね。
菊地・岸野 はははははは(爆笑)!
菊地 52年当時のイタリア的にはまぁ、目線に対しておおらかだったっていう表現なのかな?
岸野 あの作りを見るとさ、『オーソン・ウェルズのフェイク』あの冒頭のクレジットタイトルを思い出したよ。黄色いミニスカートで歩いている女をずっと男が見ているというシークエンスね。女性は全部仕込んでいるんだけど、それを見ている男は素人だったりして、場合によっては許可なしで撮っちゃう。それを細かいカット割り、編集で見せていく。
菊地 街中にカメラを持っていって、そこで突然何かパフォーマンスをやりはじめ、みんながビックリした所を撮ってニンマリ、みたいな文化は、『勝手にしやがれ』においてゴダールが無許可で市街を撮影して、ガヤの人達がみんなカメラ見ているところを映し出したことに結びつけられるかなという所だと思うんですけど。あれはヌーベルバーグの与えた衝撃の中でかなり大きいわけですが、この『イタリア人は見つめる』は、その戯画的な先駆という感じもありますね。
岸野 そうね。だから収穫はヌーベルバーグに持ってかれちゃってますけどね、やり方の発見はネオリアリズモ。
吉田アミ(以下、吉田) 劇中の女性達のファッションは、どうでしたか?
菊地 白黒だからわかりづらいですけどだいぶ華やかな色だったんじゃないかな。52年当時のイタリアのカジュアルファッションのありかたですよね。フェリーニの諸作のように衣装監督がついているわけじゃないでしょうが、それこそまさにネオリアリズモですよね(笑)。
岸野 売春婦の服はあきらかに私服だよね。
菊地 またあの、売春婦の部屋が狭くてつらくてっていうのが……。アメリカのコールガールの部屋も荒れてるっていうのは見るけど、あんな気分にさせられないじゃないですか。何かもう、ほんと悲しいっていうか。
佐藤 逃げ出したい!
岸野 ほんと辛いのが、売春婦の一人が5千リラのお人形さんを買っちゃってて、「それは踏まないでっ!」ていう。
菊地 あれはねえ……。
岸野 買っちゃうんだよ! ああいう子は、高いお人形さんを……。
菊地 これだから売春婦やお見合い斡旋のダンスパーティーに来る人は……って、今日はお客さん女性が多いんで言葉を選ばざるを得ませんが、ブサイクなんだけど(笑)。
菊地 街で通りざまにチラ見されるようなお金持ってて、可処分所得も多いような健康的なオフィスガールはきれいだっていうような感じなんですかね? それがリアリズモだ! というような。例えば売春に身をやつして春をひさいでしまった人にものすごい美少女、玉のようなのがいて、逆にその金があってビジネスガールだからって中にはとんでもない奴がいるっていうようなアンサンブルはないじゃない。すごく図式的ですよね。
映画『街の恋』より
見る男、見られる女 わたしはヒヒじじいになりたい
吉田 『イタリア人は見つめる』では、男性に見られることをすごく意識している女性とまったく意識していない女性の2タイプがいたように感じました。男性に見られてることを意識して、仕草やファッションを気にすることで魅力を増した女性と、意識せずそのまんまでも美しい女性がいたように思ったんですが。
菊地 気がつきませんでしたそれは。
岸野 点描だからね、いろんなパターンがあった。「嫌だわ、見てるわ!」みたいな子もいれば「ふふん! もっとわたしを見て!」みたいな子もいたね。
菊地 紙一重なんじゃないかなって気もしますよね。
岸野 ほんとのとこどうなの?って常々知りたいと思ってたんだけど、それもやっぱり点描と同じで人それぞれ。「いい男に見られるならいいわ」って思うし「ヒヒじじいに見られるのは勘弁だわ」みたいなさあ。
菊地 ヒヒじじい!って。ひゃはははは(爆笑)! 久しぶりに聞いたねえ。
岸野 ヒヒじじいはオレあこがれだったよ、子供の頃。今でもなりたいですけど。
菊地 Wanna be ヒヒじじいじゃないですか(笑)。ま、あるときからフェミニズムの分野の中で「見られていい下着」っていう、大変な発明が生まれた。例えば、下着メーカーのピーチジョンの「男を喜ばせるためではない、自分のためにエロい下着を着よう」っていう、思想的な、かなり大きな革命運動を仙台の通販会社が始めたら、日本中が変わってしまった。かわいいエロいものを好んで身に着けている女性たちは、見られるのが嫌かというと、男が見ようと見まいがどうでもいいと思っている。我々は埒外にいるというような感じがしなくもないですけどね。ただ、もうちょっと違うエリアだと、違うメンタリティがあるかもしれないですが。そうすると、アミさんとかは見られていいと思って今日そんな露出してるんですか?
吉田 してないですよ(笑)! ただのノースリーブのワンピースじゃないですか!
菊地 そんな露出、もう半裸、半裸ですよ。
佐藤 勝負感伝わってきますよね。
菊地 そうそうそう。「暑いからっていうことでは理由にならないよアミちゃん!」ていうようなもう半裸じゃないですか。例えば私や岸野さんがジロジロみたりするじゃないですか、あるいは街を歩いてて知らないヒヒじじいがジロジロ見るとかそういう色んなパターンがあるわけですけど、それはいったい何のために半裸を選択されているんですか?
吉田 ふだんノーメークで適当なかっこうで仕事してるんで、イベントですから華がないと気分でないなっていう社会人的な配慮ですよ!(笑)ふつうですよ!ふつう!
佐藤 さっきだって今日ハイヒール履こうかしらみたいな……。
吉田 紹介するときはハイヒール履ていたんですけど、久しぶりに履いたらコケそうになっちゃって、無理だったんで履き替えました。すいませんっ!(一同、笑)
露出してるけど見られたくないは一種の倒錯である
菊地 女性の服とはどういうことなんだ?っていうのは、一生考え続けることができる、「死とは何か?」と同じ難問です。
岸野 解けない答え、最高ですね。永遠に間違え続けられるからね。「ごめんごめんジロジロみちゃって」って。ずーっと間違えよう。
菊地 私こういう少人数の空間だからって言っちゃいますけど。そうとう犯罪者に近いレベルで見ますけど。でも怒られたこと一回もない。嫌な顔でみられたこと一回もない。
岸野 オレ一回あるもん。「この人変質者ですっ」って駅員に通報されて。それで移動は車に切り替えたんだもん。電車乗るのやんなっちゃった。
菊地 (爆笑)!『コレクター』じゃないですか!テレンス・スタンプじゃないですか!(笑)。
私、つい最近まで歌舞伎町、リトルコリアに10年間住んでいたんで身に染みてよくわかるんですけど、東南アジアの文化ってのはまず、夜市があって朝までだらだらと飯食ったり歩いたりしている文化。これがまず日本にない。ところが韓国は北東アジアで、東南アジアの文化が経度的に入ってる。夏、素足をおしげもなく出すという文化もある。日本人は、アジアのなかで最も足を出さない人たちで。ほかのアジア人は中国、韓国、タイ、ベトナム、もう東南アジアになればなるほど言うまでもないですけど、我々夏半袖になって腕出しますよね? そのことを「こんな腕なんか出してどうしよう!」とか思わないじゃないすか、腕出すのは当たり前。あれと同じことで、「当然暑いんだから脚だしますよ」っていうことでもう平然と歩いてる。最初はすごいドキドキしたんですよ「生脚だー」って興奮したんですが。あまりにみんなそうなんで、赤札堂で電球買ってる人もそうなのね(笑)。そのうち麻痺してしまってエロいっていうエッジな欲情がなくなって、よく言われる話ですけど「淫靡から健康へ」っていう感じになっちゃう。たまにリトルコリアでも真夏に来る日本人がトレンカ履いててソーセージみたいに一皮かぶってて、「あれはなんかフェティッシュがでてもしょうがねえな」みたいな(笑)。
岸野 「へえー、そこ隠すんだ……」みたいな。
菊地 ほんとですよ! 実際に中東なんかいくと女の人が鼻から下隠してるでしょ? モロッコ、シリア、レバノンとか、行ったことありますけど、あれ生で見ると結構興奮しますね。どんな顔してんだろって。映画だと、あれは民族衣装でこれは中東の人という記号で頭の中で処理されちゃいますけど、ふつうに市場でああいう人が歩いてると「仮面かぶってる!」とか思うんですよね。異様に興奮する。「隠すのがエロの条件」とか言うじゃないですか、なおざりな話として。そのあと、「都市を闊歩する労働夫人」というものがこう……ね。吉田アミさんが半裸になってしまうというか。
吉田 人を露出狂みたいに言わないでくださいっ!
菊地 アミちゃん半分露出狂みたいなもんでしょ?
吉田 成孔さん、めちゃめちゃじゃないですか(笑)! 半裸と半分露出狂じゃあ大違いですよ。誤解されます!
菊地 コスプレ露出狂ですよね。コスプレっていう言い訳がある露出狂っていうのが今、あるセクトにいる女性のデフォルトっていうかね。コスプレっていう大義があるような気がしますけどね! 下部構造は露出狂のほうだと思いますけどね。わかんないけど(笑)!
吉田 ただ、服装を変えることでコスプレをして性格を変えるってのは確かにあると思いますよ。変身願望みたいな。
佐藤 私も「コスプレだ」と言われたりもしますけど、普段お化粧すると逆にだんだん裸になってく感じしがます。どんどんどんどん裸になって、全裸状態みたいな。ノーメイクでこの格好は無理ですよ。お化粧してれば全然できる。お化粧がいろいろ隠してるんじゃなくて、どんどん裸になっていって皮膚を逆転するぐいらいの、それぐらいの感じ。何かに変わるんじゃなくて、戻るって感じ、もともとの自分に。
吉田 岸野さんは?『ヒゲの未亡人』になるときには?
岸野 なんだろうね。考えたこともないですよ。ものすごく自然にやってるので。だって、水戸黄門の役やるときに水戸黄門のかっこうをしないとダメでしょ? でも確かにね、正直っつうんじゃないんだけど、衣装をまとうことで、堂々と正攻法ができる気がする。逆に普段着で出てるこういう時のほうが結構いい加減なこと言ったり、自分を作ったりしているかもしれない。
菊地 それこそネオリアリズモだね(笑)。普段着っていうのは一番の脱コードですからね。と、同時に普段着って、ものすごいリアルじゃないですか。あの人の普段着これかーってことですさまじい情報がこちらに伝わってくる。フォーマルを普段着に着るとフォーマルはどんどんコード化されてくわけ。私もジャズメンとしてステージにあがるときはスーツを着ます。ある時からジャズ界は全部放棄しちゃったんで、敢えてやってる。その印象が強いからか、年がら年中タイドアップしてる人みたいに思われがちですが、そんなことはない(笑)。ステージに上がらないのにタイドアップしているなんて、年間で五日も六日もない。あれも一種のコスプレ、っていうか役割ですよね。葬式の時に喪服着るのと同じで。その中での私服、フォームが強制されない服っていうのは、個人的なメッセージが入っている。露出する、しないとか、見る、見られるとかは、一種の経済性、交換ですからね、譲与価値の。永遠の難問で人間には答え出せないでしょうね。やっぱ、内心見られて嫌だって思ってんのに、露出したい人もいると思うんですよ。それは一種の倒錯ですよね。目的と引き起こす現象が完全に分離してますので。「そんなかっこうしていたら見るよ!」「見ないでよ!」っていうやりとり。そこが人間的ですよね。だからそういう意味でエロどっきりで救われたというのが、意外と深いとこを押さえたのかなっていう気がしないでもない。
岸野 「見る/見られる」の関係、映画の技術的にものすごいしっかりしてるよ。ちょっとあの……ロベール・ブレッソン(フランスの映画監督)かというような。
菊地 うんうんうん。
ゴダールの新作は3D。きっと、退屈が飛び出してくるに違いない
岸野 白黒だから描けるっていうのがあるよね。これもほんとにファンタジーとリアルの問題であって、今もう映像の表現って、どんどん精密さがあがってきてるでしょ? ハイビジョンとかになって。もう時代劇っていうのが描けなくなってるんですよ。ヅラの際まで映っちゃうでしょ? 現在、時代劇はハイビジョンで描くの無理なんじゃないかって。『平将門』が画質を1ランク落としたんですよ、リアルすぎると成立しないんで。おかしいの、見てて。精密な画像だと。
菊地 竹光かどうかもわかっちゃいますもんね。真剣には真剣の色がある。
岸野 だから、現在におけるフォーマットとその表現の精密さ。CDになってからスクラッチ・ノイズが入んなくなっちゃったっていうこと。精密になりすぎる事によって物事の描きにくさファンタジーの描きにくさみたいな問題が生まれる。映画にもそれが起こってる。CGと違ってカメラで実際のもの映してるわけなんで「これはもうまごうかたなき100%リアルだろう」と言われたらその通りで、究極の具象ですよね。でも、究極の具象をフィルムに定着させるともうリそれは、リアルじゃなくなっちゃう。すごい早さで一握の砂が落ちていくようなイメージで。そこがまあ未だに映画にとっては重要な問題だなっていう。
佐藤 例えばリアルだったら最近だと3D映画とかはどう思われます? ディズニーランドみたいな出し物じゃなくて、そこにない時間や空間や記憶をやろうとしてる……。
岸野 ゴダール、新作が3Dでしょ? だから気持ちはわかりますよ。やろうとしてることは。ゴダールならとんでもないことすると思いますよ。
菊地 たぶん退屈だと思うんですよね。退屈が飛び出してくるっつうね!
(一同、笑)
岸野 やはり前景と後景。ゴダールは背景っていうことの意味を問い直すことをしてくるだろうね。
(時計を見て)おっとそろそろいい時間になりましたね。さあて、「みなさまの心には何が残りましたでしょうか?」(木村奈保子風に)。
菊地 岸野さん、オモシロい!ははは!
吉田 あっという間の一時間半でしたね。ありがとうございました。
菊地 で、吉田アミさんの今日のトータルコーディネートはフラッパリズムというかライザ・ミネリみたいなことでよろしいですか?
吉田 ……いや、あの……。
菊地 ハイヒールは無理だとおっしゃいましたけど、頭からくるぶしまでフラッパーなんだけど下がズックというとこに何か主張というか、「これが自分だ」というような……。
吉田 全然、違いますっ!
菊地 それは違う。なるほど!
岸野 もうちょっと髪をくるっとしたら?コテをあててさ。
吉田 じゃ明日してきますよ!(笑)えーと、何か告知とかもしあれば!?
菊地 ある程度ムチムチしてても大丈夫なんだという事を訴えたい感じなんですか? 今はムチムチがきてるんだ!というようなところに関しても自分はエッジを行ってるんだというような……ひゃはははははは!
吉田 セッ……完全にセクハラじゃないですかっ!!!!!!
菊地 セクハラですよ?セクハラ!セクハラ!ははははははは!!!
吉田 ……。ありがとうございます!何なんだこの会話は。
菊地 とんでもないっす!
岸野 「映画ってほんとにいいものですね!」(淀川長治を真似て)。
(一同、笑)
(2013年9月7日、渋谷アップリンク・ファクトリーにて 写真・構成:春田幸江)