不自由さが生む独自の感覚
―細密画教場
文=木村奈緒 写真=皆藤将
金曜日の夜は一週間の労をねぎらい、明日からの休みを前に飲み歩く人で街が賑わう。美学校のある神保町も例外ではない。ただし、一カ所だけ例外がある。美学校が入る第2富士ビル3階。フロアのちょうど真ん中に位置する教場には、世間が盛り上がり始める19時から約3時間、言葉を交わすことなくただひたすら目の前の作業に打ち込む人たちがいる。彼らこそ、細密画教場の面々だ。なぜ彼らは黙々と描き続けるのか?その理由を探しに教場を訪れた(※授業曜日は2015年度より金曜日から火曜日に変更)。
簡単にはできない、だから面白い
「確かに授業の間はほとんど話をしませんね。隣の講座(「絵と美と画と術」)の話を聞きながら作業している感じです。もちろん授業の前後には話をしますよ。授業前には、この一週間でやってきたこと。授業後には、来週までに自宅でやる作業について話します」。細密画を見たことがある人はお分かりになるだろうが、「鉛筆や絵具の粒子を一筆一筆おいて」(美学校講座紹介より)いく細密画は、週に1回3時間の授業で完成するほど簡単なものではない。では一体どのようにして描かれているのか?講師の田嶋徹先生にその行程を見せてもらった。
ライトなどを設置してから描き始める
白いボックスの中にモチーフ
着脱可能な替芯で描く。左上の芯研ぎ器の黒い部分で芯を研磨する
描画に時間がかかるのでモチーフは長期間変化しないものを選ぶ
「細密画は、いっぺんに目に見えて画面を変化させることはできないので、手探りしながら少しずつ進めていきます。だけど漠然と描いていてはダメで、今の作業は次のこの作業のためにやっているということを把握しないといけないんですね。手探りしながら進めているにも関わらず、きっちり具体的なことをやる。独特な作業です」(田嶋)
先走らず丁寧に、そのためには姿勢を良くして描くことも不可欠。まるで禅寺の修行のようにも思える作業だが、辛くはないのだろうか。
「自分の作りつつある絵がちょっとでも良いなと思えたら楽しくなってきます。また、細密画は目に見えている物を写すという作業にも関わらず、出来上がってくるものは自分でも初めて見るもので、しかもそこには自分が投影されているんです。そこが細密画の醍醐味でしょうか。もちろん楽しさや醍醐味を感じられるまでに多少の時間と忍耐は必要ですが」(田嶋)
着彩は水彩絵具で。固形のものを溶かして使う
赤・青・黄の3色を混ぜあわせることで本物に近い色をつくりだす
それでも、細密画
子どものころに見た、昆虫や植物が細部まで克明に描かれた図鑑。それらも細密画の技法を応用した「博物標本画」と呼ばれるものだ。細密画教場初代講師、立石鐵臣氏(注1)も『原色昆虫百科図鑑』をはじめ、多くの標本画を手がけた。しかしながら、現在そうした図鑑の多くは写真に置き換わっており、細密画の技術を習得したからといってすぐに仕事に結びつくわけではない。かつての細密画教場受講生で、円谷プロで怪獣デザインなどに携わった杉浦千里氏(注2)はエビやカニに特化した細密画を描いた。
「エビやカニは死ぬと色が変化しますから、それらに特化したことで絵に標本としての価値が生まれたわけです。つまり、美学校での一年は細密画という技術があることを知って、これから長い時間をかけてやっていけるかどうかを判断する期間。卒業後はここで学んだことを発展させて、自分の絵画表現にしたり戦略を練ったりする必要があるんです」(田嶋)
立石鐵臣氏らが絵を手がけた『原色昆虫百科図鑑』
杉浦千里氏を始めとする卒業生の画集
これから長い時間やっていけるかどうかと問われると少々ハードルが高く感じるが、そもそも田嶋先生が受講生として細密画教場に入ったのは「自分で何かを表現するというのは見当もつかないしできないだろうと思っていて、もっと単純に目の前のものを写すということをやってみよう」と思ったから。しかし、結果的には細密画が田嶋先生の表現手段になった。
「出来上がった絵や出来つつある絵は、自分でも思ってもみなかった物なんです。それは表現の種みたいなもので、つまり、想像力を働かせて新しく何かを創造することばかりが表現じゃないということです。そういう意味で、細密画は表現ということに全く見当がつかない人にとっての入口になるのではないかと思います」(田嶋)
だから今夜も黙って細密画
授業では、夏休みまでに鉛筆画を1点、出来れば夏休みにもう1点自宅で描く。水彩画で描くのは後期以降だ。「後期に水彩画を3点も描けたらたいしたもの」という田嶋先生の言葉からは、たった1枚の絵でも完成させるのが大変なことがよくわかる。やり直しのきかない水彩絵の具を用い、赤・青・黄の三原色を重ねて色をつくる。より最小の力で抑制して抑制して描く。不自由な画材を不自由に使って描く細密画。だが、音楽でもピアニッシモ(「とても弱く」を意味する強弱記号)で演奏する方が、フォルテッシモ(とても強く)よりも難しいと言われるように、自分の持っているものを最も繊細な形で表現することができれば、あとはいかようにも応用できる。細密画特有の不自由さが培う技術や感覚。それこそが、美学校創立当初から今日まで細密画教場が存在する理由ではないだろうか。
気心の知れた仲間と飲んだり話したりするのは楽しい。一週間の終わりにそんな時間があってもいい。だけど、街の喧騒から離れてひたすら目の前のモチーフを描くと、自分でも思ってもみなかったものに出会える。そこに言葉は必要ない。これまで自分も知らなかった独自の感覚があるだけだ。だから今夜も細密画教場の面々は、ただただ黙って机に向かう。
※注1:立石鐵臣(たていし・てつおみ)
1905年、台北生まれ。小学1年より東京に。岸田劉生、梅原龍三郎に師事。1939年、渡台。台北帝大にて標本画に従事。この期に細密画法を自得。台湾時代、作画以外の文化活動をし、『民族台湾』の編集に参加。1969年〜1979年、美学校細密画工房講師。
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※注2:杉浦千里(すぎうら・ちさと)
1962年、横浜市生まれ。1980年、日本美術学校日本画専科卒業。イラストレーター、フィギュアデザイナーとして活躍。1987年、円谷プロダクションの怪獣デザインコンテストで準グランプリに選出。これを機に円谷プロのデザインに関わるようになる。1988年、本格的に博物画の技法を学ぶため、美学校細密画教場に入学。主な仕事に、『原色魚類大圖鑑』(北隆館)、『日本の野鳥<巣と卵図鑑>』(世界文化社)、『杉浦千里博物画図鑑 美しきエビとカニの世界』(成山堂書店)など多数。2001年没。
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▷授業日:毎週水曜日18:30〜21:30
細密画教場では目で見たものを出来るだけ正確に克明にあらわす技術の習得を目指します。この技術は博物画やボタニカルアート、イラストレーションなどの基礎になるものです。