講師:上妻世海
授業日:6月16日、23日、30日、7月7日、14日、21日[毎週木曜/全6回]
授業時間:19:30〜22:30
受講料:通し受講12,000円(先着8名) (定員に達したので締切りました。)
各回3,000円(各回先着3名)
目的
社会生活の中で無視され、存在しないかのように扱われてしまう「意味とモノの余剰、あるいは人間的なるものの外側」を「肉体」という「リアリティの零度」を通して「詩的な手触り」で再構成すること、本講義の目的はそれである。
とは言え、このような抽象的な言葉で説明されても「詩的空間」とは何か?ということについてイメージ出来ない人も多いだろうし、本講義を受講しようととも思わないだろう。それは無理もない。私は「詩的空間」を日常言語では捉えきれない「シンボル体系と社会の外側の領域」と定義しているからである。
例えば、ティエリー・ド・デューヴのように、デュシャン以降、現代美術は全て言語ゲームになってしまったと言う批評家もいる。あるいはアーサー・ダントーが分析するように、現代美術はアートワールドというシステムの、一つのモジュールになってしまったと。そして、私はといえば、かつて、まさにその言語ゲームやシステムの中で無邪気に嘲りながら戯れることを好き好んでいたのであった。
しかし、私は、幸運なことに、抽象化され言語化され規則化されてしまった制度の中でさえ、非意味的で非社会的なものたちが、美術や文化にとって最も重要な役割を果たしていることを思い出させてくれる特異性‐出来事と邂逅した。崇高な美術作品の前に立った時の、一回性の感覚は、類似性に基づいた推論や形式的な批評ゲームに先立つ、出来事や痛みとの遭遇であった。それは剥き出しの他者、特異的存在との出会いであり対話であった。SNSで繋がることや商品を消費することとは異なり、それは時間と傷を伴う対話と愛であった。
私はそうした出来事との遭遇には知識と経験が必要になることを確信している。そうでないなら私に出来ることはなにもないだろう。ただ美術館で偉大な作品を見ましょう、偉大な文学作品や映像に触れましょうという話になるのだから。そして、君にはそのような一回性を感じられなかったのだから、詩的空間を感じる感性がないのだ、と。
しかし、そうではない。思い返せば、私達は日常の中で特異的存在者と毎秒のように遭遇している。しかし、そういった一つ一つの存在者を、特異的なものだとして対話することができないでいるのだ。椅子を見るたびに汲み尽くせない潜在性へと想いを馳せ、微生物や昆虫、春を告げる植物の、活き活きとした生命の躍動を感じるたびに詩を捧げ、カフェですれ違う人と目が合う度に、心の防御壁を開き、恋人が愛する人に染み入るように対話をしていては時間も精神ももたないのだ。
しかし、時々社会システムを忘却し、社会から捨て去られた余白へと思いを馳せることを忘れてはならない。その存在を感じる感性を、対話するための作法を忘れてはならない。忘れろ、そして思い出せ。私たちはあまりにも素直になることが出来ないということが真実であるとしても…
私は講義を「近代」という時代であり概念でもある、両義的なモノを説明することから始めたいと思う。具体的に言えば、テオドール・アドルノ、モーリス・ブランショ、クレメント・グリーンバーグという三名の、抵抗と敗北の歴史である。彼らが称揚し続けた社会システムの外側にある自律的で否定的な文化・芸術、そして、彼らが廃退的であると忌避しつづけてきた文化産業について説明することは、現在を理解する上で切っても切り離すことが出来ないだろう。
何故なら、「近代」を理解することで初めて、マジックワードとしてではなく内容を持った概念としての近代の後(ポストモダン)を理解することができるからだ。そして「近代」を立脚点として、ミニマルアートやインスタレーション、関係性の美学からポストインターネット、思弁的実在論や存在論的人類学、シンギュラリティまでを点ではなく複数の線の一つとして説明できればと考えている。形象を変えているとはいえ、社会的なものや意味的なものに対して、自律的で無関連、非社会的で非意味的なものたちだけが、詩的なものとしての価値を持っているからだ。(そしてそれらは今にも死に絶えそうになっている)
私は非意味的なモノたちの歴史を再度描きたいと思う。そうすることで、私達が立っている歴史の先端をぼんやりとでも浮き上がらせることができればと思う。現代の情報社会はどのような種類の表現であっても、ダッシュボードやタイムラインの上で、画一的に消費してしまうとしても、歴史という他者を振り返ることで、翻って私(そして君)が立っている大地をリアリティをもって感じることが出来るからだ。それは精神分析が教えるように、私を知るためには他者が必要になることと似ている。現在を知るためには歴史が必要なのである。
そして、歴史という線を紡いでいく中で、初めて君の立つ、より小さく具体的な平面、足の着いている場所の輪郭を浮き上がらせることが出来る。君がその舞台の上で、どのような痛みと傷を身体に刻み込んできたのか。様々な他者と出来事が重層的に重なり、ズタボロになってしまったもの。それがまさしく私であり、君であるのだ。
「大きな大地に刻み込まれた傷跡の集積である歴史」と「小さな日常の中でズタボロになってしまった君」そこからすり抜けてしまったもの、意味になりえないものたち、あることはわかるが排中律のようにきっぱりと切り取れないものたち、それが本講義の目的である詩的なものたちなのだ。シンボル化されたコンセプト先行の、小難しいだけのアートでもなければ、最新のテクノロジーだけで観客を黙らせるアートでもない。その間にある詩的なモノたち。
歴史と私から溢れ落ちてしまったもの、コンセプトとオブジェクトの間にあるものへの詩的な手触りだけが私達を素直にさせてくれる。社会的な批評をされ、常識によって評価されようとも、私は君が好きだ、この作品が好きだ、この世界が好きだと告白する勇気を与えてくれるのである。私はまだ未熟であり、まだわからないことばかりだ。しかし、わからないということは漸く自覚できた。ここから君と共に小さな旅を始めたい。
講義内容
・第一回 6月16日「近代とは何か??」
最初の講義では、近代の原理をもう一度振り返り、意識化することを目的とする。近年、人工知能やシンギュラリティの議論が高まりを見せており、ポストモダンが流行した時と同じように、マスメディアを含め、熱狂が著しい。しかしながら、我々の社会には未だ、社会契約に基づく国家と立憲制度による外交が一般的な枠組みとして残り、手続き合理性に基いてシステムは進行し、科学やテクノロジーによって進歩することを自明視した弁証法的進歩史観のもとで生活しているではないか?我々は建前としては、未だ近代の原理のもとに社会生活を送っている。そしてその原理の元で、状態としてのポストモダンがやってきたのであり、状態としてのシンギュラリティを迎えることとなるだろう。原理とその原理から導かれた結果や状態を分けて考える必要がある。更に、近代の原理を意識化していくことは、第二回から始まるモダニズムについての理論が、その後歴史的にどのように発展していくかを見ていく上で重要な立脚点となるだろう。我々は未だ近代人であったことはない。しかし、建前の上では常に、近代人であろうとしているのだ。
・第二回 6月23日「アドルノ、ブランショ、グリーンバーグ」
我々が、なんらかの作品を良い/悪いと判断する時の価値基準は、時代や地域だけでなく、より小さなコミュニティーなどを含めて様々な要素に依存している。しかしながら、ある一定の水準において、あらゆる基準の元となっているものがある。それが、「モダニズム」と呼ばれる批評言語の「身ぶり」ないし「仕種」である。第二回で紹介するアドルノ、ブランショ、グリーンバーグの批評のディスクールは、近代の、そして現代の芸術を主に取り扱う。しかし、その取り扱い方、作品を選び、解釈し、歴史的に意味付けるその取り扱い方、仕種は、ある種のイデオロギー的なものであると言える。そして、我々が普段接することになるコンセプチャル・アート以降のありとあらゆるアートは、「モダニズム」を立脚点として、「モダニズム」が孕んでいる矛盾や問題からの飛距離によって、価値判断されると言えるだろう。翻って言うと、アドルノ、ブランショ、グリーンバーグの手つきを理解していないということは、その後のキーワードを内容の伴わない形で消費しているということが出来る。そうならないためにもまずはここから始めよう。
・第三回 6月30日「ミニマルアートとインスタレーションと関係性の美学とその後」
空間や関係性、相互作用性などが問われるようになった現在のアートの前には、当然相互作用性ではないアートの存在が前提としてあったはずである。第二回までではそれらの前提となっている近代の原理について、哲学的な側面と美学的な側面から確認してきた。その上で説明することになるのだが、彼らが要望した純粋なる形式主義の行き着く先は「無」「死」「夜」といった否定的なキーワードであった(ジョン・ケージやベケット、あるいは装飾的と揶揄された一連の抽象表現主義の行く末を見て欲しい)。しかし、そのような純化の先に私達が辿り着いた表現がある。それが空間性であり、人とモノ、モノとモノとの関係性と相互作用性である。そこでのキーワードは「参加」「関与」「インタラクティブ」「関係性」だ。第三回では、それらをおっていくことで、現在進行形で進む表現の形式について考えていきたい。
・第四回 7月7日「インターネットとポストインターネット」
インターネットは科学的、技術的、政治的情報など、客観的な事実性に基いた情報を迅速に共有することを目的としていた。しかし、それが一般化するにつれて、個々人が個々人の感情や価値判断を表出するようになる。それは大容量のデータをやりとり出来るようになるにつれて、言語情報だけでなく、イメージや映像の領域まで拡張されていく。言語であれ、絵画であれ、映像であれ、コンピュータ上ではデータと演算へと還元されるという特性を活かして、これまでの趣味性や主義主張に基づいたコミュニティーの形成という特徴から、制作を通じて、ジャンルを横断的につながっていく傾向が見られるようになっていく。日本のインターネットカルチャー黎明期から現在までのコミュニケーションの系譜を紐解いていく中で、第三回まで講義してきた文脈との接続を試みることになる。
・第五回 7月14日「思弁的実在論、存在論的人類学、シンギュラリティ」
アートパワーなどのランキングを見ても明らかなように、近年思弁的実在論の理論家がアートワールドの中でも強く影響力を発揮するようになってきている。そこには明らかに、人間という相関メディアを通じたヒトやモノとの関係性や相互作用性に寄りがちな哲学や芸術に対する超克を意図している。また近年、人工知能の盛り上がりを通じて、人間中心主義を超克していこうとする意図もみられる。また、存在論的人類学においても、西欧において人間的なるものと考えられてきたシンボル体系や存在論的体系に対する相対化が図られている。ここでの問題は人間なるものとの相関関係からモノや他者を捉える視点を如何にして脱するか?ということであり、そこから抜けだした思考を如何にして展開していくことである。この講義を通じて、人間的なるものを超えたものたちを、如何にして思考し表現していくのかということを考えていきたい。
・第六回 7月21日「まとめ、詩的なものたちへ これまでの講義を受けての発表と講評」
これまでの講義を近代から現代にかけて、総括する。その中で出てきた社会的な、人間的な、意味的なものたちから、溢れ出る非社会的で、非人間的な、非意味的なモノたちを救い出すことができればと思う。また各々が講義を通じて、自らのの活動と接続したこと、あるいは疑問点についてプレゼンテーションしてもらう。そうすることで、これまで無自覚的に行ってきた活動を歴史の中に接続し、文脈の上でこれからの活動を行うことが可能となるだろう。講義の中で自らの文脈との接続点が見つからなかった場合は、自ら独自の視点で歴史を参照し、通時的に共時的に自らの活動を位置付けたものをプレゼンテーションしてもらう。
全体として、90〜120分間の講義を行い、その講義の中で出す講義内容に関連した問いについて、その後時間が許す限りディスカッションを行う。
講師プロフィール
上妻 世海
1989年生まれ。作家、キュレーター。主な論考・対談に、『集団と生成の美学』(2013)、『切断と接合の美学』(2014)、『世界制作のプロトタイプに寄せて』(2015)、『Maltine Records における物語の生成条件~失われた20年の子供たち』(Maltine book)、『ノースペクテイター!傍観者は何故排除されるのか?』(Switch9月号)、美術手帖6月号 gnck×ドミニク・チェン×上妻世海 鼎談などがある。主な展覧会に「≋wave≋ internet image browsing」[ 8/29 (fri) – 9/12 (fri) ]、「世界制作のプロトタイプ」。他にも動画での鼎談・対談やウェブメディアでのインタビューなど多数出演している。