実作講座「演劇 似て非なるもの」第11期生 修了公演を終えて


随分と時間が空いてしまいましたが、ご参加頂いた方々、気にかけてくださった方々、ありがとうございました。

作・演出:首藤なずな 『さちこさん』と
作・演出:葉名倫子 『てんで ばらばらで あいまって 光』は
下記の方々と共に制作されました。
どちらの作品も表現方法はかなり違いますが、切実で力のあるものになりました。

観ていただいた方々からのコメントも頂きましたので
記録写真と合わせてご覧頂けると幸いです。

講師 生西康典

『さちこさん』

出演:池亀友紀也(IE-イエ-)、首藤なずな、高安悠菜(Sole/ソール ヴォーカルアンサンブル)
照明:村上芽来
宣伝美術:鈴木健太
制作協力:カキヤフミオ
作・演出:首藤なずな

アフタートークゲスト:白井剛(振付家、ダンサー)、星野概念(精神科医 など)

2024年5月18日(土)- 19日(日)全5公演
美学校スタジオにて

告知ページ:https://bigakko.jp/event/2024/engeki-shuryokoen#shuto

記録写真(撮影:皆藤将)

コメント

空間の設計、照明、音、声の出し方、身振り、
全てが繊細に整えられた中で聞こえて来るテキストにとても集中して拝見しました。
テキストの内容も、観ながら読み解く静かな川の流れのような時間でした。
けれど一転した最後のモノローグの熱量がそうした時間を逆流して、
首藤さんの作品の切実さを受け取った気がしました。
そして、静かだけれどとても強い、ある意味暴力的な作家でもあるなと感じました。
私が前日に踊ったタイトルも[War]だったので余計に共感がありました。娘の話を聞いているようにも感じました。

作品全体、緻密に、決して雰囲気でなく計算された(恐らく)技法で作り出されていて、
この方が別役実の作品を演出するのを観たいと、ふっと思いました。
すごい!すごい!と思いつつ水道橋の駅まで歩きながら、ふっと足が止まり町の景色を見渡しました。そこまで作品が続いていたのだと思います。

深呼吸するようにして、我に帰って、少し思ったことがありました。
あ、どこかにノイズがあったら(具体的な音とかでなくです)集中するだけでなくて、
私があの世界の中でもっと考えることが出来たのでのではないか~
演劇の、観るという枠を超えて自分が問われ、迷い、考えるという猶予があったのでは無いか~
そんな事をふっと思いました。
また、観に行きたいです。

山田せつ子(ダンサー、コレオグラファー)

『てんで ばらばらで あいまって 光』

作・演出:葉名倫子
出演:磦田空、くびたろう、冨田学、カキヤフミオ、ほりえしんじ、増井ナオミ
声:坂本彩音(IE-イエ- / ユニット手手)、高野照子
照明 小駒豪
音響 雨森諭司
宣伝美術 デザイン 鈴木健太
絵 くびたろう

アフタートークゲスト:五所純子(文筆家)、山下澄人(小説、演劇)、金川晋吾(写真家)

2024年5月25日(土)- 26日(日)全4公演
場所 美学校 本校 2F

告知ページ:https://bigakko.jp/event/2024/engeki-shuryokoen#hana

記録写真(撮影:皆藤将)

コメント

この作品は上演にまで5年かかったのだという。5年かけて作ったということだ。とはいえ365日かける5の間ずっとというわけではない、と経験のない人は思うだろうが違う。生まれてから5年の時間、子どもを育てたことのある人ならわかるはずだ。作者に作品は(子どもは)瞬間の隙間なくずっと、ある。離れていてもそこにいる。5年で世界がどれほど変わったことか。その間作者はずっとあの作品といた。劇中のやり取りのいちいちの音に驚いた。「せりふ」とは何か。そのせりふを音にして発語するというのはどういうことか。それは「表現」か。「作業」か。表現とする音と作業だとする音は違う。繊細な話ではない。一撃で人間の耳は聞き分ける。言葉以前の音として。わたしは何度もそれを『ラボ』と名付けた集まりで体験して来た。いわゆる「やくしゃ」が「せりふ」を口にするときはじまるうそくさい音。音より言葉を優先した発語。しかもそれに拍車をかける「演劇指導者」たち。わたしが若いころもそうだったし今もそうだろう。わたしが演劇を激しく嫌っていた理由がそこにある。誰も演劇を真剣に考えようとしない。この劇ではそれが正確に行われていた。思考されていた。演劇が大事にされていた。「モノローグ」というものの掘り下げが「演劇」としてまだ必要だと思った。あれは単なる説明なのか。観客に「これは演劇です」と思い出させようとしているのか。おそらく必要にかられて発明されたモノローグという方法。この先も演劇は使い続けるのだろうか。どのように?

いずれにしても大変素晴らしかった。

山下澄人(小説、演劇)

見ている最中、自分の体の異変に気がついた、自分は何を今見てるのか、それは見てるというような、もっと言えば鑑賞してるというような、安心したようなそれではなかった、そこにいてしまった時間の全部が、どうも得体のしれない場面に直面してしまっているぞ、というような、目の前で交わされるあからさまな作り事にこのような生々しさが宿り続けるとはどういうことだ、これはめったに起こることではなくて、どうやってこれを作ったのだろうと考えてみると、しかし何か格別に新しい演劇のやり方、みたいなものがあったとも思えず、そんなものはどうでもいい、なくてもいい、演劇は、演劇になるだけで精一杯なのだ、それを作るために集まった人々は、まるでたまたま出会っただけのような顔をして、いい加減と偶然に向かって大きく開かれてもいるようでいて、いや実際に開かれてもいたのだろう、にもかかわらずだ、演劇の成立の条件については讓ることのできない緻密さ、厳格さとさえ言ってもいい、丁寧な選択の作業が、ただただ続いたのだろうと思わせて、自分の家に帰ってから、ストローブ=ユイレの映画が無性に見たくなったので観たりしたが、それとこの演劇が関係あるのか、よくわからないまま、この演劇は、無口な演劇である、会話はたくさんあったけどね

飴屋法水(演出家)


実作講座「演劇 似て非なるもの」 生西康典

▷授業日:毎週金曜日 19:00〜22:00(6月から開講)
週替わりで本校とスタジオを交互に開催します。本校では対話を重視し、スタジオではその実践としての稽古を行い、最後に修了作品を制作します。それぞれがどういう作品を作るのかは、1年を通して話したり試したりするなかで、一緒に探していきます。