【インタビュー】石井満隆にきく 「舞踏療法」の顛末



「舞踏療法」は、舞踏家である石井満隆が、青森県八戸にある青南病院で、千葉院長の依頼のもとに行なった、作業療法の一種である。1980年より始められたが、千葉院長の他界とともに行なわれなくなった。ここに挙げるのは、そんな「舞踏療法」の顛末を、石井満隆本人に語ってもらった、大変貴重なインタビューからの抜粋である。

なお、本インタビューは、美学校が主催する「ギグメンタ2015」の一企画として開催され、石井が出演した「舞踏市」にて初稿が配布された。


石井満隆にきく 「舞踏療法」の顛末


話し手:石井満隆(舞踏家)
話し手サポート:中西晶大(舞踏家)
聞き手:半田晴子(美術家)、米田拓朗(写真家)

きっかけ:八戸へ


——なぜ、青南病院に関わることになったのですか?

石井)いつだったかな、千葉先生が、患者さんの個展を上野の美術館でやるから、東京へ来るんで、ということで、紹介してもらったんですよ。そこで、「石井でーす」って、玄関で。そしたら、「どういうものやってるの?」っていうんで、「じゃあ特別踊ってみましょう」と。玄関で、ばたばたバーッと踊ったんですよ。

——その場で踊られたんですか?

石井)そうです。下、石ですよ。石の床。

——あー!

石井)千葉先生は「あ、あ、わかったわかった」ていうような具合で。

——それで八戸の病院に行かれようと思った、ていうのは、千葉先生とお話されて?

石井)そうです。その前に北海道の公演が決まったんです。日本縦断公演、北海道の紋別からはじまりまして、それで釧路に行ったときに、千葉先生をすごく尊敬している後輩、宮田さん。この人も医師で、画廊を持ってました、内科画廊。宮田先生には寄ってください、と言われていて。それで寄ったんですよ、帰りに。

——公演の帰りに寄られて、それが初め?

石井)そうです、はい。その時に女房が妊娠しましてね、それで1か月くらい便秘で。妊娠すると便秘になるんですよ女性は。こちらは、子どもができるんじゃ働かないと、舞踏生活なんかやってたって金を出すばっかりで入ってくる量がないと、なんとかしなきゃって、手紙を書いたんですよ。大それたことをしたもんですが、ぱっと返事が来まして。来週でも来なさい、と。私、当時、品川の方で、四畳半に二人で住んでたんですが、そういうことで行くようになったんです。

——1回だけでも終わることってありますよね。どうして通われようと思われたんですか?

石井)いや、こりゃぁ、患者さんに近づくにはだいぶ時間がかかる。親しくなって何でも話できるようになる状態をまず作って、それから呼吸法、基本的な太極拳を教える。そう考えると、1回では済まない。

——やってみて患者さん含めて感触としてはどういった印象を持たれましたか?

石井)まず親しくなることが大事。帰る場合にバイバイってすると、鉄格子の間からミカンやリンゴがスーッとでるんですよ。先生これ食べて、って、下の窓から、窓から、あの鉄格子の間からみんな待ってて私帰る時に、どうぞ食べながら帰って、またきてねー、って。

石井)で、院長が仕事終わったらもう毎晩飲み歩きですよ(笑)

——その頃の千葉院長は、石井先生から見てどんな印象でした?どんな方でしたか?

石井)なんていいますか、情・人情を持った方で、それから、あれだけの千葉軍団っていうので患者さんですけど、いい関係を持っていました、それから地方ですから、タクシー会社の息子があんまりできすぎて、というようなことがあると、世間体があるから預けるんですよ病院に。本人はもう結婚したいのに困っちゃったー、いろんな人生模様が見られますよ。

NHKの番組で紹介されて


――いろんな方がいる中で、病院として当時としてはかなり新しい試みだったと思うんですね、芸術療法というものが。地域の人たちの反応というか、どういう風?地域との交流があったかどうかとか。

石井)千葉先生は出身地は八戸じゃないですから。よそ者として入ったわけです。

――よそ者ね、はい解ります、そういうの。

石井)「ルポルタージュ日本」っていうNHKの番組がありますね、知ってる? あれに出ました、ものすごく評判で。

――放送されたことで、周りの反応は変わった?

石井)ええ、だんだんだんだん。外部から八戸へ見に来るようになりましてね。

――その番組は石井先生の舞踏療法を中心に組まれた番組だったんですよね。

石井)そうです、はい。

――舞踏療法が全国的に知られるキッカケになったと思うのですけれども、舞踏の関係の方からはどういった反応が?

石井)私が仕事できない時に誰かが行ってだんだんだんだん、ああいって教えるようになったと。若い世代、舞踏家、それはそれなりに面白いことやってました。

八戸での生活


――八戸の青南病院は、その院内で農業とかそういったことをやってた、ということが、記録としてあるのですが、そういったことにも関わられた?

石井)いや、それほど、まあ、眺めるくらいです。

――どんな様子だったか覚えていらっしゃいます?

石井)まず海のところ、海の別荘があるんですけど、そこはきれいな海ですね。

――ええ、三陸海岸ですね。

石井)三陸、はい。あそこはきれいなとこですね。それから、祭りごとがありますね。

――はい、、えんぶり?

石井)えんぶり、えんぶりの踊りを見ながら、あれは全部農業の働く鍬を持った、あれ良く解ります。それから墓獅子、墓に獅子が、こう泣くんですよ。泣きながら舞う、ていう風な。墓、墓獅子というのがありますね。それでなんか古い文献を調べますと太平洋、その昔は南海、西日本からやってきたわけですね。四国とか九州、太平洋の黒潮に乗って。だからそういう古いもの見ればなんかそういう匂いがしないでもないですね。

――海が近いというのもすごく親しみが持てた?

石井)そうです。私、小豆島出身で。

――土地としても八戸はお気に入りで?

石井)はい。

――八戸にも住んでたことがあるっていうふうにちょっと、お聞きしたんですけど、どれくらい住んでらした?

石井)毎月行きますから、住んでるみたいになってきますね、んー。終わったら院長に連れられていろんなところ、行きますから。飲み食い、それから人に会ったり。

――泊まってた場所というのは?

石井)院内です。

――院内に泊まられてた?

石井)それがね、トイレが三疊間くらい。

――え?

石井)大きなトイレ。茶室に泊まってた。

――患者さんとも寝起きを共にするというような?

石井)別棟ですけど。

――石井さんが八戸で一番魅かれた所ってどこですか?

石井)東北の方へ行きますとね、部落民みたいなのないんですよ、部落民とか。そういう阻害がないんです。

――ええ、ないですね。

石井)自由なんですね。それにやっぱり東北っていっても、弘前のほうへ行くと言葉がぜんぜん分からない。でも、八戸じゃそんなにずーずー弁じゃないんですよ。言葉で分かります。

――けっこう流通の中間地点みたいなところなんですよ、八戸は。なのでいわゆる地元の言い方だと「よそ者」が集まってくるような、そういった場所ですね。なのでいろんな人がいる、確かに。

石井)あそこ、魚の市場があるんですよ、あれが良くてねぇ、海があって。それから、かぶらじま。

――かぶしま(蕪島)。

石井)「かぶしま」ですか、蕪島いいとこですよねぇ、あそこ行くとなんか、エネルギーをもらってくるんですよ。

千葉院長とふたりだけで組み立てていった芸術療法


青南病院1

© Mitsutoshi HANAGA, COURTESY OF Mitsutoshi Hanaga Project Committee

――千葉院長の薬を使わない治療をということで芸術療法というものをやられたということですね。

石井)そうです。飲みながら話するわけですよ院長と。こういうのやってみたいなぁ、こういうのどうだいって。私のほうからも、それから院長のほうからも。稽古の後、よく町に行ってそういう話を、そこで組み立てていった訳ですよ。

――その時はもう院長と石井さんだけなんですか? 他に病院のスタッフの方と一緒にとかは?

石井)それはない。豊島さんすら一緒ではなかったですよ。

――一緒じゃなかったんですね。豊島さんと当時何か話をした覚えってあるんですか? 仲良くなんか色々けっこう話しこんだりとか?

石井)あんまりなかったですね。

――その芸術療法をする時に、例えば石井さんには舞踏だとか、他にも例えば粘土をしたり、

たぶん他にもいろいろジャンルがあったと思うんですけど、例えば患者さんにこういうこと

してみようというのは院長の千葉さんが決めてた感じなんですか?

石井)そうですね、ええ。

――で、その専門の方を呼んできて、じゃぁ、ちょっとなんかやってみて下さいって感じでお願いする形なんですね。

石井)院長が、こういうものに造詣深いんですよね。旅するわけですよ東南アジアに。すると、そこの物をちょこっと、手に持てるようなものを買ってくる。それをみんなでこうやって、、

――模写したり、あぁ。

石井)ことに雪が降るとね、これはもう、すっごいね、すっごい。写真でも残りますよ。確か、羽永さんが、紹介してくれたんですよ。

――そうですか、羽永さんはかなり記録されてるみたいですね。

石井)はい。

――石井さんの舞踏療法も記録は羽永さんされてますね。

石井)だいぶやってます。

千葉院長の思いがいちばんの原動力


青南病院2

© Mitsutoshi HANAGA, COURTESY OF Mitsutoshi Hanaga Project Committee

――石井先生が青南病院でやられた後、次の方にちょっと引き継いでますよね。それは石井先生が忙しいから次のなんて方でしたっけ?舞踏家の方で。(※1)

石井)やってみたい、興味がある人は自由に、私が頼んだわけではないし、自由に。そこのところは、理解していただいたんじゃないか。

――石井さんが紹介したわけでもない、それはまた千葉さんが呼んできたみたいな感じで?

石井)そうそう。

――千葉さんの意向がかなり強く。

石井)そうですね。

――芸術療法全体に、千葉さんの意向で動くというか。

石井)とにかく手仕事。これも粘土をいじるわけですけども、粘土。それから紙ですよ、紙を、紙って言わない平面ですけど、それを立体化する。それはものすごく、やられてましたね。

――紙を立体にする?

石井)ええ、ここにありますけど(『砂丘への足跡』(※2)をみながら)

――これ、石井先生ですよね。

石井)はい。

――これはどういう?やられている時か覚えていらっしゃいますか?

石井)だいたい3回に2回公演するんですよ。で昨日、昨日の一昨日だ、テープ探したら全部かびているんですよ。10本くらいのあれがあります。

――千葉先生はやっぱり患者の人とコミュニケーションよくとってた?

石井)とってますよ!そりゃぁ良く覚えてる。もう、一人ひとり。それからまた患者側からもね、あぁ、あそこに院長がまた何か考えながら立ってるなとか。

――好かれてたんですね。すごい信頼関係は取れてたんですね?

石井)ああーそれ!これはすごい!

――だるま院長というあだ名が…。

石井)だるま!そうそうそう、そうそう(笑)

――では千葉院長の、思いというのが一番原動力になった?

石井)なった。

二代目院長


青南病院3

© Mitsutoshi HANAGA, COURTESY OF Mitsutoshi Hanaga Project Committee

青南病院4

© Mitsutoshi HANAGA, COURTESY OF Mitsutoshi Hanaga Project Committee

――二代目になられてから芸術療法全体が止まったっていう?

石井)はい。奥さんも亡くなった訳ですよ。それで、長女が理事長になってるんじゃないですか。(※3)

――千葉院長が亡くなられた後息子さんが引き継いだ時点でかなり大きな変化が?

石井)そうですね。

(石井氏持参の資料を見ながら)

石井)これ、相当なもんですよ…。

これ覚えてる。お、大人もたってんね…。

これが見事よ、これ綺麗だったよー、夜にね月夜なんか歩きますとね月夜にこれ見るとホンっトにすごいもんですよ。

院長自身がこういうこと、すごく分かる方で、理解が。でも、もったいないなーって思ったのは息子さんがあんまり興味示さない。

――芸術関係の方がけっこう千葉院長を通して青南病院にいろんな方が関わられていたという…。

石井)そうですね、ええ、はいはい。ただ、引き継ぎがね。全くない。あれ、もったいないですね。

――今、当時やられてた活動とか作品ですね、そこに載ってる、作品は財団法人に移してそちらで管理しているみたいです。なので病院とは切り離した形で保管しているようなんですけれども(H26.6月)。

石井)200床ありましたからね。

――それは皆個室なんですか?

石井)いえ、こいつら、ほとんど大部屋。それでちゃんと、上手いことできてるもんですね。その病院の中でちゃんと親分みたいな人がいるわけです。

――患者さんのボスみたいな?

石井)履きものを整理する役がまず記憶がいいわけですよ、そういう人もいました。その人が全部記憶の神様みたいなもんですよ。みんな通って行って、患者さんに。その人の言うこと何でも聞いちゃう。

病院行ったら患者さんと同じもの食べて、海や山へ行ったり…


――舞踏療法として症状が改善するだけじゃなくて、患者さん同士のコミュニケーションにも役に立ってた?

石井)いやぁーむろん。むろんというか、ええ。ただ一部の人はもう、自分の家に帰りたいなー、そろそろ、親父がタクシー会社の社長ですから、まぁそういう手前があるんで。どっかにつまみだして病院に入れとけば悪い噂は流れない、ってなことをやってるんですねぇ。本当にかわいそう。

――そうですね、時代的にやはりそういったケースが多かった時だと思います。

石井)そうです、はい。

――まったくその療法、舞踏とかを教えたりしてる時にどうしてもこう、うまくその何ていうんですかね、仲良くなれない人はいたんですか?例えば反抗したり、私はこういうの嫌だみたいな感じでやる人もいたんですか?

石井)中にはいましたけど。でも大きな波にやっぱり。乗せられる、引き込まれると。

――周りがみんなやっていると、ということですね。

石井)やってると、ええ。

――河童の親分の主役を踊りがとても一番下手な方を選んでやられたということなんですけれども。

石井)そうするとね、ビックリするんですよね。そういう患者さんだけの世界は、ガラッと変わっちゃう。またそれによって、その、コミュニケーションが成り立っていくわけですよ。昨日はえらい成功したねーって、話が聞こえるみたいな感じ。

――患者さんと一緒になんか飲んだりとかもすることはあったんですか?お酒がいいのかどうか分からないんですけど。

石井)いや、それはなかった。

――なかったんですね(笑)

石井)ただ、海に行ったり山に行ったり。遠出したりはやってたんですね。

――普通に会話するぶんには全く問題はなかった?

石井)ないです。

――今の精神病院に入られる方と比べるとかなり症状の軽い方が当時、それでも入ってたってこと?

石井)そうですよ、全くどこも悪くないのに親が決めて。

――隔離しようという感じ?

石井)ええ。

石井)病院行ったら患者さんと同じもの食べて…。同じように山へ行ったり、海に行ったり、楽しかったですよ。

――ほんとに自然に関わりながら、一緒に楽しまれた。

石井)はい、はい。

――それがやっぱり、患者さんの側も、すごく嬉しかったっていうのも…。

石井)ほんとに、時々夢を見たりしますけどね。

――当時のってことですよね?

石井)当時の、はい。

――石井さん自身もやっぱり楽しかった思い出がけっこうあるんですか?

石井)ありますよ、はい。

発表会は三ヶ月に1本


青南病院5

© Mitsutoshi HANAGA, COURTESY OF Mitsutoshi Hanaga Project Committee

――石井さん、舞踏療法に行って、だいたい3、4日とさっきおっしゃってたんですけど。3、4日で一つのまとまりを終えるという形で毎回・毎月続けてらっしゃった?

石井)3回に1本、3か月に1本くらいですね。

――3か月に1本できるくらい。で、その最後には発表会とか、発表会みたいなものって?

石井)そうです、やりました。

――ちゃんと舞台みたいなものも用意されてってことですか?

石井)それは、あの、体育館で

――体育館。体育館は、ちょっと段が高いんですか?

石井)いや。

――全部平で?

石井)ええ。

――その時患者さんて何かこう衣装とか?

石井)衣装も全部手作り。

――手作りで。なんかこう、メイクというか化粧もして、白く塗ったりもしていた?

石井)メイクも化粧もして。

――発表会に出して、やっていくという形に後半はなっていった?

石井)そうです、はい。

――はじめは、導入としてはどういった形で?コミュニケーションを取るところから始める?

石井)はい、そうです。

――で、徐々に発表をしていこうとそっちにモチベーションをもっていくと。

石井)はい。

――その時発表というのはその振付とかを教えるわけではない?

石井)そう、全部やります。

――振付を教える?

石井)はい。

――それを患者さんが覚えてやっていくということなんですね?

石井)で、曲も集めてきて…音楽も。

――音楽も、あー。

下手な方を主役に抜擢


――石井さんが「舞踏による精神療法」(※4)という文章を書かれているのを拝見したんですけど、そこで練習をするにつれて上手になる方もいるのですけれど、あえて下手に、いつまでも下手でいる方を河童の主役に抜擢して、それで成功したというエピソードが載っていたんですけれども。

石井)そうです。結局技術的に、上を目指すんじゃなくてその人が持ってる生まれながらにして持ってるもの、これを大事にしながら… これがふとある時、芽を出すんです。そういうものを期待する振付なんかも、上から押し付けるんじゃなくて泉のごとく自分のいろんなものが出てくるわけです。それである日会が終わったときに、みんな寄ってきてね、いやぁー私、65年間生きてきたけれども今日がいちばーん楽しかった、と。そう言われると、やっぱり教えがいがあったなあと思います。

――活動をやっていて一番嬉しかったというか印象に残った瞬間というのは?

石井)やっぱりそのようにね、もう自分から動き出す。

――自分から動き出す?

石井)はい。足なんかぴょーんと上に上がる。65歳の女性ですね、写真に載っけるからというから。

病院の患者さんの方が正直:本当の人間の姿


――自然と共に踊られるようなイメージがあるんですけども、青南病院でもそういった、写真拝見すると体育館でやられている様子が見れるんですけど、敷地内でもその、外で土に触れるような感じでやられたりとか、そういったことはないですか?

石井)やります。

――そういった中で、自然の力を借りるような?

石井)そうです、はい。雨が降れば雨の中で。

――雨の中で。

石井)はい。

――いや、触れながらやる?

石井)はい。

――病院でその舞踏療法をやるのと同時に普通にそれまで踊りの経験のない、病院に入っている

訳ではない人にも教えられたことってありますよね?

石井)あります。

――そういう時と違いって何かありました? この人たちにこう教えるときは体の使い方がやっぱりこう、どっかでおさえられていることがあるんだなぁとか、なんか感じたところってありましたか?

石井)やっぱり、患者さんの方が…。人間関係ですよ、人間らしい、本当に。だから正直だから、一般の人、嘘の生活なんです。この人たちは、正真正銘の人間を人生を抱えて歩いてますから。たたずまいが全く、人生そのものです。嘘がない。それでやっぱり社会が白い目で見る、これが一番ダメですねぇ…ふさいじゃう。

――当時病院から運よく退院されて、後に石井先生を訪ねられる方とか、そういった方っていらっしゃいました?

石井)他の病院では何人か。でもね、そうやると、悪い目で、まぁ、従業員が白い目で見るんですよ…。われわれの友だちをほめて患者さんと親しくなると。まぁそういうのがありましたね。

――青南病院で関わられた方で、行かれなくなった後も交流がある方っていうのは…いらっしゃらない?

石井)ないんですね、時々ただ、息子さんの代になってから。やっぱりね、それが切れたのがダメですねぇ。なんとかして…もう一回やってみたいですけど。

――患者さん、最初体動かす時って恥とか衒いはぜんぜんなかった?

石井)ないです。

――そうなんですか、けっこうすぐに。

石井)私がそのつもりで、みられていってますから。すぐに、居合わせる人が全部、それが伝染するんですね。それは教えることはできない、一緒に居合わせることで一つの場を共有できるんです。

――で、感染という形でいいんですけど、こううつって行くのが早いタイプ?

石井)そうです、はい。

――療法を何回かされているうちに、逆に影響を受けることって何かありました? 影響と言ってるんですけど、発見みたいなこういう体、体のこととか踊りのことについて面白いなぁと思ったことって何かありますか?

石井)あります、やっぱり正直ですから、彼女ら。非常に正直で素朴なんです、ええ。あぁ、こっちの方が本当の人間の姿じゃないのかな…我々は忘れてるんじゃないかな…と思いますよ。

――女性の方が多かったんですか?

石井)いや…

――半々くらい?

石井)半々ですね。

――年齢はもう、いろんな方がいらして。

石井)それから、一見人がバカにするような子、その子が良く知恵が働くんですよ。すごく、いい心を持ってますね。

――じゃぁ、舞踏療法として、石井先生も踊りの中にいろんな影響というか、そういったものは感じられる?

石井)はい…。やっぱり一緒にいるとそれがだんだんだんだん一つの物が膨らんでくるわけですよ。で、それを抱えきれなくなった時に人にうつしてあげる。これがエネルギーの伝播、コミュニケーション。

――それは意識するにせよしないにせよってこと?

石井)そうです、はい。人を統率する力がないと。

人を統率する力


――石井先生のNHKでの舞踏療法のテレビ番組が放送されたことで、それを見て、イシデタクヤ(※6)さんって方が弟子入りされたんですよね。

石井)はい。

――なにか影響を受けてるという?

石井)彼は今沼津の方でマッサージやってますよ。

――そうですか。やっぱり体に関わること。

――テレビの影響力って大きいと思うんですけれども、イシデさんのように…。芸術療法に興味を持たれて石井先生のところに弟子入りされる方っていうのは何人かいらっしゃった?

石井)いたんですがね、やっぱり続かないんですね。

――続かないですか!

石井)あの、人をやっぱり、統率する力がないと。

――あー。

石井)そういう持ち合わせたものが、ある人とない人とではこれはほんと違う。技術だけじゃダメ。やっぱり人をリードする力がないと…。

――踊りの技術とはまた別っていう…

石井)別。院長だってそうですよ、もう、やっぱりあそこに、病院を建てたこと。あれ自体運営ですよ。そりゃあ大きな力ですよ。

――そうですね。

石井)で、人がやってくる。それで、若い連中が仕事を探しに来るんですよ、あの病院に。スーパーで働いたけど嫌んなって、なんか仕事はありませんか。そう話してくれましたよ、院長。それでじゃぁ今日からやってくれ、そうしましたよ。

――当時、テレビでもやられたしあと東京でもその報告会みたいなのがあったかと思うんですけれども、私が調べて分かった範囲では及川さんの企画のものなんですが、他にもその紹介とかされるイベント等はありました?

石井)及川さんのような、やってる人は少ないですね。

――ちょっと誰が書いているのか分からないブログで芸術療法にも石井先生にも言及している文章がネットに上がっていたんですけれども。それが日本大学の芸術学部の関係の方らしいんですね。で、誰かちょっと撮影もされてるような、されたような、内容なんですけど。誰かが分からなくて。(※5)

石井)はい、一人いますよ、評論家になってる。日芸の文芸科の先生やってる人。それで舞踏評論もやってる。

石井さんにとって舞踏療法とは?


――ありがとうございます。最後に、石井先生にとって舞踏療法というのは一言でいいますと、なんでしょうか… 難しいですね。

石井)いや、難しくないです。人間の本当の姿だ。

――人間の本当の姿。

石井)偽りのない、人間の姿ですよ。

――舞踏療法を通して、人間の本当の姿を確認した?

石井)そうです、そうです。

――今日はありがとうございました。

[2014年6月17日、東京・中野 ヴェロ―チェにて収録]


石井満隆

石井満隆

1939年 香川県小豆島生まれ
1961年 日大芸術学部演劇科卒、在学中から3年間、石井漠にモダンダンス・バレエを学ぶ。この頃から土方巽に師事し、多くの作品に参加。
1970年 厚木凡人、邦千谷と共に「第2回舞踊批評家協会賞」を受賞
1971年 欧州に渡る。以後9年間、英、独、仏を中心に公演、ワークショップ、パフォーマンス、映画制作などで活躍
1980年 帰国。青森県青南病院にて日本初の「舞踏療法」を開始する。
以降、現在に至るまで数々の公演、ワークショップを国内外問わず行っている。


(※1) 宇野萬(舞踏家)は昭和57年から青南病院での舞踏療法に関わった。(2012年没)
(※2) 羽永光利『砂丘への足跡』(写真集)。千葉院長が亡くなった時に自費出版された。
(※3) 医療法人(財団)青仁会 青南病院(現在の理事長は初代院長の息子、千葉潜氏)
(※4) 羽永光利『砂丘への足跡』(写真集)の「撮影覚え書(羽永光利)」に石井満隆「舞踏療法による精神療法」(月刊栢樹№23号より抜粋引用)が掲載されている。
(※5) SVP2-Blog SVP2の活動日記2012.01.29 Sunday『ドグラ・マグラ』と松本俊夫先生 日大最終講義 http://blog.svp2.com/?eid=938798
 SVP2-Blogは佐藤 博昭氏のブログ(ビデオ作家・日本大学芸術学部映画学科、武蔵大学社会学部、日本工学院専門学校非常勤講師)
 『メディアの中にいる~人は石井満隆を前衛舞踏家と呼ぶ』 1986年 46分(第4回ビクタービデオスカラシップ作品)
(※6) 初出時(2015年4月3日)には「イシゲタクヤ」としていたが、その後、関係者からご指摘があり、「イシデタクヤ」と修正。

[編集:yum Haruki,studio muse]

修正・改変履歴

初出:2015年4月3日

改訂第2版:2015年7月31日
・「イシゲタクヤ」を「イシデタクヤ」に修正。註(※6)追記。