講座レポート「美楽塾」


あなたがあなたの美しいと思うものに狂えばそれで良い
―美楽塾

文=木村奈緒 写真=皆藤将

例えば自己紹介をする時、大抵の人は「銀行員です」とか「新聞記者です」とか、自分の肩書きを述べる。そうすると、紹介された方も相手のことが少し分かった気になり安心する。でも、世の中には「山田太郎です」としか言いようのない人がいて、美楽塾の講師を務めるJINMO氏も、「JINMOです」としか言いようのない人物だ。

しかし、よく考えてみれば、目の前の人が銀行員であろうと、新聞記者であろうと、山田太郎が山田太郎であることに何の影響も及ぼさないのであって(山田太郎という人物が炊いたご飯の味は、山田の職業に左右されないように)、JINMO氏が実は八百屋さんであろうとパン屋さんであろうと、JINMO氏の活動に対する評価が変わることはない。つまり、本来は誰しもが堂々と「山田太郎です」と言えば、それで十分なのである。

そんなことは当たり前、と思うだろうか。では、例えばメディアで誰かを紹介するとき、「山田太郎(23)」と年齢を添えるのはなぜだろう。出身地や出身校を併記するのはなぜだろう。そうした情報が、その人の本質と何か関わりがあるのだろうか。かく言う私も、インタビューの冒頭で「JINMOさんの肩書は何としたら良いでしょう?」と質問して、「カテゴライズが義務感で必要だと思っているでしょ?でも本当にそれが必要なのか?」と逆に問われたのだった。

JINMO氏の言葉を借りるとつまりこういうことだ。「吉田松陰を教科書的にカテゴライズするなら、学者ですよね。でも、松陰は学者というより、アジテーター、革命家として機能していた。その場合、学者というのは職能的なものを指すだけで、松陰が魚屋であっても松陰の価値は変わらないでしょう。」

JINMO氏のスタジオにて取材。JINMO氏は不登校なので、講座も美学校ではなくスタジオで開かれる。

美楽塾は、私たちが普段「当たり前」「常識」と思っているフィルターを全てとっぱらう場所だ。そうした「常識」は、実は社会生活を通じて乳幼児期から入念に刷り込まれている。無意識レベルにまで刷り込まれているから、疑問に思うことすらできないのが実状だ。「自発的な疑問を持つな、ということ自体が教育ですね。子どものとき『なんで?』と言ったでしょう。でも、大人から『なんで?って言うな』と言われる。疑問を持つな、受け入れろとね。上の人間の価値をそのまま移植されるのが教育。伝染病と同じですよ。」

「学校教育は価値の移植や方法論の伝授である。」これは芸術教育も例外ではなくて、「目指すところを定めて、そのためのアウトプットの仕方を教えている」場合が多い。そのことを、JINMO氏は講座紹介文でこのように書いている。

現代の芸術教育などに於いては、” 如何に処理して、如何なるアウトプットを実現するのか” ということのみに眼が向けられ、それを当然として疑う者が少ない。
しかし、真実には、そうした技術論以前に“ 如何なるインプットを”という問題こそ重要であり、良質のインプット無しには良質のアウトプットはあり得ない。
食べたものに応じたウンコしか出る訳があるまい。
美しいインプットに貪欲であれ。

つまり、美楽塾は決まった価値観や方法論を身につけるための場所とは真逆の場所であり、絶対的にあなたがあなたであることを保証される場所である。毎週決まった時間に学校に通いたくない?それもOK。だって、そもそも講座は美学校では行われていないから。開講日も受講生の都合を聞いた上で毎回決まる。「講義中の飲酒、喫煙、飲食、放尿、飲尿、全裸、自慰、緊縛、女装、Tweetなど」もOKで(総て過去実際に行われたそう)、同時に、「何もしなくても良いという自由」もJINMO氏は保証している。

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この日の講座でも、男子受講生が女装。華麗に変身した。

「美しいインプット」を「常識」に囚われずに行うため、講座は「五感、総ての感覚器官で対峙する状況における美の”体験”を実感する場」となる。人間が音として感じることができるとされている「下は20ヘルツ、上は2万ヘルツ」の範囲内でのみ表現するのが音楽なのではない。美楽塾では、人間の感覚というものを限定しない。あなたが知覚すれば、それが可聴域から外れていようと、確かなインプットとして成立する。

「教育は価値の移植」「感覚を限定しない」などと少々大仰な説明になってしまった。JINMO氏のスタジオも一見怪しいアジトに見えるので、恐れをなしている読者もいるかもしれない。だが安心してほしい。講座はめっぽう楽しい。豊富な知識に裏付けされたJINMO氏の巧妙な話術は、そこら辺の芸人より面白いので、一聴をオススメする。この日も、受講生のアダルトグッズを用いた作品の話から、外国のセックス・ミュージアムの話、遊郭と一体化していた江戸時代の伊勢神宮の話など、身近な話題から「聖俗の不可分性」にまで発展し、他では聞けない大変充実した講座になった。

まとめよう。美楽塾は、肩書や常識は関係なく、あなたがあなたの美しい、美味しい、楽しいと思うものが認められる場所である。美楽塾では「私は山田太郎です」と自信を持って言える。自分の考えとは無関係に、誰かに教わった方法に則って生きることが本当に面白いだろうか。本当は多くの人が、それはおかしいと気がついている。なぜなら、JINMO氏が講座紹介文で書いているように、子どものころ、私たちは何物にも囚われていなかったのだからー。

幼子の頃、泥だらけ、傷だらけになる事も厭わず、「晩御飯ですよ」という母親の声も耳に入らず、常識通念も規則規範も社会的承認とも無縁に、日暮れの幼稚園の砂場で一心不乱に遊んでいた時の砂の触覚美、草の嗅覚美、土の味覚美、風の聴覚美、そしてふと眺めた夕焼けの視覚美…、まだフィルターを身に纏わなかったその頃、対峙する状況には豊富な美との邂逅が確在し、美の価値の上下などそこには無く、幼子の五感に世界は美しかった。
今日において成長や学習とは果たして、世界をより美しく知覚させてくれるのだろうか。
畢竟、美とは学ぶものなのか。
諸君、“美楽塾”とは、永遠の砂場である。
共に世界を遊び狂い、美を楽しみ狂おう。
諸君、狂いたまえ。

何に狂ったっていい。砂場は誰をも拒まない。

※「諸君、狂いたまえ。」は吉田松陰の言葉。JINMO氏曰く「当時の狂うというのは、とにかく熱中し、熱い情熱でもって物事に向かいましょうということ。そのためには非常識、少数派でも構わないじゃないかということですね。」


美楽塾 JINMO+ゲスト JINMO

▷授業日:月曜(月1〜3回/年間20回) 20:00〜22:00
本講義は芸術表現の技法や知識といった”情報”の伝授の場ではない。五感、総ての感覚器官で対峙する状況における美の”体験”を実感する場としたい。良質のインプット無しには良質のアウトプットはあり得ない。美しいインプットに貪欲であれ。