子どもの頃に好きだった絵をまた描いてみたい。一度は断念してしまった美術の道をあきらめきれない──そうした思いを抱えている人は少なからずいるのではないでしょうか。「造形基礎Ⅰ」(講師・鍋田庸男)受講生の岡本由加里さんもそのひとり。子どもの頃から好きだった絵の道をあきらめきれず、長年続けた看護の仕事を退職し、美学校に通いはじめました。「文字以外のものを描くのは久しぶり」の状態から、毎週絵を描いて個展を開催するまでに至った岡本さん。岡本さんのこれまでの歩みと、再び絵に出会ってからのことを聞きました。
岡本由加里(おかもと・ゆかり)|1978年生まれ。看護師として病院・在宅看護に20年従事。子供の頃から図工が好きで、デザインやものを作る仕事をやりたかった思いがあり、美術の道に進むべく2023年退職、絵を描く・つくることを始める。2023年度、2024年度美学校「造形基礎Ⅰ」受講。instagram @okamoto_ykr
幼稚園の2階のお絵かき教室
岡本 生まれは岐阜県岐阜市です。通っていた幼稚園の2階がお絵かき教室になっていて、画家の先生が教えに来ていました。母に「習い事をするなら、絵とエレクトーンとどっちがいい?」と聞かれて、迷わず「絵がいい!」と答えたみたいで、3歳ぐらいから毎週水曜日に幼稚園が終わったあと、お絵かき教室に通っていました。
教室では幼稚園の行事ごとにあわせて、クレヨンで芋掘りの絵を描いたりしていましたね。小学校に入ったら水彩も使うようになって、中学になると油絵をやります。中学に上がるとほとんどの子は教室をやめてしまうんですけど、私は中学1年生の終わりに引っ越しをするまで教室に通っていました。
家ではクリスマスとか何かイベントごとがあると、妹たちと紙で人形をつくって人形劇をやったりしていました。常に絵を描いていたわけではないですけど、いろいろ工夫して遊んでいましたね。小学校でも図工の授業が大好きで、楽しみで仕方がなかったです。おばあちゃんが器用で、晩年につくっていたちぎり絵がすごく素敵でした。だけど、家族が日常的に絵を描いたりとか、そういうことはありませんでした。
美術をあきらめ、看護の道へ
岡本 引っ越しをして絵の教室をやめてからは、美術の授業以外で絵を描くことは全然しなくなってしまいました。中学、高校とバドミントン部に入ったこともあって、授業のあとは練習という感じで。バドミントンが好きだったわけではないんですが、部活といえば運動部みたいに思ってたんですかね。でも相変わらず美術の授業は好きでした。
中学から高校に進学するときに、友だちが「高校の美術科に進学する」って言ったんです。その場面をすごく覚えているんですけど、自分はどうするかと考えたら、自分にはできるわけがないと思ってしまったんですね。図工は好きだけど、美術の道に進んだとしても将来的に才能に苦しむだろう、だから自分はやっちゃいけないんだって。それで高校は普通科に進学しました。美術の道を選ばずに、自ら閉ざしてしまったんです。
それでも、高校に入ってすぐの頃は、大工さんとかデザイナーとか、モノをつくる仕事に興味がありました。ただ、いざ高校卒業後の進路を考えはじめたら、福祉の仕事に就きたいと思うようになったんです。当時、自分は全然真面目に勉強していなかったんですけど、阪神・淡路大震災をきっかけに、自分も人の役に立たなきゃいけないって思うようになったんです。住んでいた岐阜でも揺れが大きかったし、すごく大変な出来事だと感じていました。
そのことを母に言ったら「手に職があったほうがいいから、看護の仕事はどう?」と勧めてくれました。それまで看護の仕事なんて全然考えたこともなかったですが、母が言うならそうかと思って、高校卒業後は名古屋の看護短大に進学しました。短大を出てからは、宮城県の看護大学に編入した後、愛知県の病院で4年間働きました。その後、結婚を機に東京に引っ越して、出産してからは、訪問看護や在宅医療の仕事を14年ぐらい続けました。訪問看護は看護学生のときから興味があったんです。病院主導ではなく、その人の生活主導で看護ができるのが魅力的で、いつかやってみたいなと思っていました。
仕事をしているときは、絵はほとんど描いていないですね。やっていたのは手芸ぐらいかな。夫のTシャツを子どもの半ズボンにつくりかえたり、子どものために変身ベルトや剣をつくったりはしていました。看護の仕事はもちろん頑張ってやっていたし、向いている部分もあったと思いますが、やっぱりどこかで高校に進学するときに美術の道に進んでいたら、今ごろどうなっていたかなって考えることが時々ありました。
退職して絵をやろう
岡本 そのうちに、前から気になっていた絵の世界に行きたいという気持ちが強くなってきました。それで、仕事はしっかりやりきったし、退職して絵をやろうと決めたんです。退職を決めてからは、まず絵の学校を探しはじめました。自分は全然基礎がないから、学校に行って基礎を学んだほうがいいんじゃないかと思ったんですね。
美大が運営している専門学校の体験授業を受けたりしたんですが、あるときネットで「造形」と検索したら美学校が出てきたんです。そのとき初めて美学校を知りました。それで、説明会に参加して「造形基礎Ⅰ」と「テクニック&ピクニック」の授業見学をしました。どちらの授業も紙に絵を描いたんですけど、「造形基礎Ⅰ」で渡された紙が大きくて、今思うとその紙の大きさが自分に合っていたんですよね。
あと、「造形基礎Ⅰ」で使うクレヨンが入ったおせんべいの缶があるんですけど、30年ぶんぐらいのクレヨンが入った缶を見て、すごくワクワクしたんです。しかも鍋田先生が「デッサンとかできなくていいよ」って言うんですよね。絵を描くなら学校に行ってデッサンを学ばなきゃいけないって思ってたけど、そうじゃないのかもしれないなって。美学校の雰囲気も幼稚園のときに通っていたお絵描き教室に似ているし、鍋田先生も優しいし、ここに通ってみようと思いました。2023年3月いっぱいまで仕事をして、その年の5月から「造形基礎Ⅰ」に通いはじめました。
かけがえのない場所
岡本 「造形基礎Ⅰ」では、夏休み前までは木炭で描いて、夏休み明けからはさまざまな技法を体験します。文字以外のものを描くのは本当に久しぶりだったので、最初はどうしていいかわからなかったですが、大きい紙にわーっと描くと、自分の中から何かがバァーっと出てくるのが感じられて、すごく感動しました。
授業で使うのは四六判(788mm×1091mm)の大きい紙で、それに葉っぱとかピーマンとか自分の顔とかを描くんですけど、私が描くと紙に入り切らないんですよ。夫は全然絵を描いたりしないんですけど、授業で描いた絵を家に持って帰って見せたら、「わぁ!」って驚いてくれて。「造形基礎Ⅰ」で毎週描いたものを見ることで、自分の中から出てくるものはすごく大きいのかもしれないと気づきました。
講座の終わりには、その日描いたものを一人ずつ見せて先生がコメントするんですけど、それがすごく楽しみなんですよ。10人いたら全然違う10通りの表現が出てくるんです。みんなの発表を聞いて、鍋田先生は「こういうところがいい」とか「ええねぇ」とか言ってくれます。思いもよらない発想や表現に出会えるのが楽しいと先生も言っていたし、自分も上手い下手を気にせずに出していいんだって思えます。この人はこういうふうに表現するんだって、お互いを自然に受け止めあえる、かけがえのない場所だなと感じます。
最初こそ自分がちゃんと描けているのか、自分の絵を見て人はどう思うんだろうといった不安がありましたが、毎週描いて出すことで不安もなくなってきて、秋以降、コラージュやフロッタージュといった技法に取り組んでからは、すごく面白くなっていきました。いろんな技法をきっかけに表現をするのも面白かったし、受講生のみんなとも仲良くなっていく感じがして楽しかったですね。
次から次に「足」を描く
岡本 年が明けたら10mのロールペインティング(つづき絵)に取り組むんですが、最初は何を描くか全然考えつかなかったです。ストーリーがあるといいんだろうかと思ったけれど、それがそもそも考えつかない。それで、スーパーの野菜売り場に売っていたセリを買ってきて、セリの根っこをまず描きました。
最初に描いたセリの根っこ
じゃあ次に何を描こうかと考えて浮かんできたのが「足」でした。美学校に入る前、美大予備校の体験授業で粘土で手をつくったことがあって、それがすごく面白かったんですよね。そのときに手はつくったから、今度は足に取り組みたいなって。セリの根っこの次に足が来るのは変だとも思ったけど、こんなに大きな紙に思い切って描けるのは今しかないし、心残りがないようにやりきろうと。そこからいろんな角度の足を描きはじめました。
授業が17時までで、それまでに描いて片付けないといけないんですけど、紙を巻くと木炭が全部取れてしまうんです。そこで、木炭で描いたあとバーっと薄く色を塗ることにしました。そうすることで木炭も留まってくれるんです。次の授業でまた色を塗り込めばいいかなと思っていたんですけど、先生は「次に行け」って言うんですよね。ひとつのモチーフを描きこむことが絵なのかなと思っていたけど、ひとつ描いたら次の足、また次の足って、進んでいけたのは大きな発見でした。
修了展の様子
10mの作品を一人30分ずつ展示する
撮影=鈴木淑子
個展をやろう、もっと大きい足を描こう
岡本 ロールペインティングで足を描いているときも、結局ひとつの足が2mぐらいの大きさになってしまって紙に入りきらないんですね。最後は紙を付け足して描いていました。もっと大きい紙があったら自分はどんなふうに描くんだろう?と思って、実際に紙を買って1枚だけ描いて修了展に持っていきました。それを見て、みんなは「でかい」って言ってましたね(笑)。
ロールペインティングに取り組んでいるとき──2024年の2月ぐらいだったと思いますが──個展をやろうと決めたんです。周りの人たちが美学校スタジオで展示をやっていて、個展っていうことがやれるんだって思いはじめていたんですよね。スタジオのスケジュールを確認したら、空いているところがあったので、よし、やろうと。修了展に合わせて大きな紙に足を描いたことをきっかけに、この足のシリーズをもっと大きくして個展で展示しようと思いました。
「造形基礎Ⅰ」では、幅が1130mm、長さが10mのロール紙を半分に切って使っているんですが、私はさらに大きい1360mm幅の紙を買ってきて、結果的に長さを3分割にして使いました。制作は家でしましたね。最初は食事のテーブルをどけて床に広げて描いて、そのうちに壁面をイメージして絵を立てた状態で描きたくなったので、ベニヤ板を買ってきました。ちょうど、住んでいるマンションが大規模修繕をしていて庭に足場があったので、そこにベニヤを立てかけたら描けるじゃんと。紙が大きくて広げっぱなしにできないので、この日は描くぞと決めたら朝から晩まで1日中描いていました。ずっと描いていると足の裏が洞窟の天井に見えてきたりして面白かったです。
自宅の庭で制作中の様子
写真提供=岡本由加里
悩んだ末にできた大好きな空間
岡本 個展は初めてだったので、展示構成をどうするかはものすごく悩みました。事務局のうら(あやか)さんや鍋田先生に相談しながら考えましたね。先生には「口で話しても分からないから模型をつくれ」と言われて、建築設計の仕事をしている夫に教わって1/25スケールの展示模型をつくりました。模型のおかげで展示空間を具体的にイメージできて、作品のサイズや配置を決めることができました。
個展開催を決める前に、美学校の受講生向けに開かれた展示ワークショップに参加していたことも役立ちました。壁のパテ埋めの仕方とか道具の種類とか、基本的なことを教わっていたのでスムーズに出来た気がします。分からないことがあったら、事務局のスタッフの人に相談できると分かったことも良かったです。個展をやるやらないに関わらず、一度参加しておくと展示への道が近くなると思います。
そうやって試行錯誤して、結果的にはすごく良い展示空間ができました。撤去してしまうのがもったいないぐらいでしたね。展示した絵は、ほとんどが私か息子の足なんです。食事のときにテーブルの下で息子の足を撮らせてもらったりして描きました。そんな母親のやっていることを息子は恥ずかしいと感じていると思っていたから、息子が友だちを連れて展示を見に来てくれたのには感動しました。息子の友だちも「この足が好きです」とか言ってくれてすごく嬉しかったです。
岡本由加里個展「足」展示風景
床から壁面に延びるのが10mのロールペインティング
《Dynamic wall》(部分)2024
水彩紙/木炭・水彩、3500×1360mm
ベニヤ板に直接描いたシリーズ
授業で取り組んだ木炭ドローイングなども展示
《夏日の大冒険_湿地に浸す》2024
水彩紙/木炭・アクリルガッシュ、1360×3300mm
描くことが自分を自由にする
岡本 個展に向けて横向きの足を描いたとき、なかなかうまく描けなかったんです。それまでは、土踏まずからかかとに向かっての丸みを一筆で描いていたんですけど、それじゃ違うと思ったんですよね。ここの線と、ここの線と、ここの線は全部違うものからできていると気づいたら、かかとが「かかと」になったんです。1日半かけてずっと見て描いてを繰り返したから分かったことですね。
作品《ぐん》(2024)と岡本さん
水彩紙/木炭・水彩、1360×3100mm
撮影=鈴木淑子
私に限らず、看護師さんはみんな足を大切にしているんですよ。足先まで綺麗にできているかどうかに看護の質が反映されるので、細やかに見ているんです。私も患者さんの人生を踏まえて足や身体に触れてきたので、そこで得た「存在に対する尊敬」みたいなものは、自分の描く絵に生きてくるのかなと思います。そこで自分がやってきた看護と絵がつながりました。
美学校に来て本当に良かったです。今まで「そんなことできるわけない」って閉ざしていたものをちょっと開いてみたら、みんなが受け入れてくれてすごく生きやすくなりました。もともと「こんな絵を描きたい」という理想みたいなものはあったかもしれないけど、実際に出てきたものは全然予想もしないものでした。あんなにでっかい足、我に帰ると自分でもなんだこれって思います。もっと絵っぽい絵が良かったなって(笑)。でも、他の人の目を気にしないでやり続けた結果こういうものが出せたので、描くことが自分を自由にしてくれたのかもしれないですね。今後は大きい絵を描きつつ、粘土で足をつくってみたいです。展示もまたやりたいと思っています。
2024年7月24日収録
取材・構成=木村奈緒 写真=皆藤将
▷授業日:毎週土曜日 13:00〜17:00
モノ(事柄)を観察し考察し描察します。モノに対する柔軟な発想と的確な肉体感覚を身につけます。それぞれの「かたち」を模索し、より自由な「表現」へと展開する最初の意志と肉体の確立を目指してもらいます。