実作講座「演劇 似て非なるもの」第4期(2016年度)開講にあたって



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実作講座「演劇 似て非なるもの」第4期(2016年度)開講にあたって

生西康典
2016年5月5日

演劇というのはとても反時代的な行為だと思っています。

演劇では公演はもとより、稽古においてすら、
ひとり欠けるだけでも成り立たくなったり、
全員揃わないと途端に支障をきたしてしまいます。

経済効率を追い求める社会においては、
人間はいつでも交換可能です。
そうでなければシステムが直ぐに不全を起こしてしまう。
それに比べれば、ひとり欠けるだけでも不全を起こしてしまう演劇のなんて脆弱なことか。

しかしグローバリゼーションに代表されるこの強固な社会のシステムというのは何の為にあるんでしょうか?
国家のため? 社会のため? 会社のため? 家庭のため? 人間のため?
では、この壊れやすい演劇は何の為にあるんでしょうか?
どちらとも誰か特定の個人の為だけでは無いように思えます。

インド出身のアメリカの比較文学者ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクは、
「グローバリゼーションとは、同一の為替システムを地球上のいたるところに押し付けることを意味している」と語っています。そして「グローバリゼーションは資本とデータの中でのみ起こっている」と。
つまり非・身体的であり、すべてを情報として処理する以上、その速度が重要だということです。
ここから一体、何がこぼれ落ちているのかを知るためにも、
自分自身の身体的実感を伴いながら、ゆっくりゆっくりと考えていくしかありません。
あなたが今の世の中を素晴らしいと思っているならば、何の役にも立たないことかもしれませんが。

お前は大して良いとも思えない頭で、何で演劇の講座なのにグローバリゼーションのことなんか言ってるんだと思うかもしれません。しかも借り物の他人のことばで。いつの日か自分自身のことばだけで語りたいと思っていますが、
ことばは人に伝えるため(それだけではありませんが)の共通のものなのに、”自分のことば”ってそもそも何でしょうか?
このことは、いまは深入りするのはやめておきます。

喜ばしいことなのか、恐ろしいことなのか分かりませんが、おそらく世の中には、無関係で独立したものなどありません。良いと思えるものも、良いとはとても思えないようなものも、すべてつながっています。
それが良くは見えていないだけで。もしくは見えないふりをしているだけで。

話が長くなってしまいました。
講座名の頭に「実作」と付けているのは、
何かを教えることは出来ないけれど、
集まった人たちと何か一緒につくることなら出来るだろうと思ったからです。
何も教えられないと言うくせに、何かをつくることは出来るだろうというのは、
我ながら、なんと根拠の無い自信でしょうか。

ぼくには何も教えられる方法も技術も持っていません。
自分が持ってもいない技術や方法を持つことを否定はしませんが、
できるだけ、そういったものを確立したところから遠くにいたいと思います。
もしかしたら、逆にそのためにこそ学ばなければいけないことがあるかもしれません。
固定されてしまった方法や技術を捨て去るために。
そのためには何を捨てるのか知らなければならない。

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文化人類学者の中村寛さんに誘って頂いて『芸術の授業』という本に、
「つくったものはどこにいくのか」という文章を書かせてもらいました。
これは編著者である中村さんから与えられたテーマでした。
とても興味深いけれど、とうてい答えが出るとは思えないようなテーマ。
それでもとにかく引き受けたからには考えなければ書けません。
何かについて考えようとすると、それに連なっている何かを知らないといけない。
何かを知ったことによって、また考えが動かされ、変化していく。

多くの場合、自分が知っていると思っているはずのことは、
ほんの僅かのことであり、改めて問われてみて、それに答えようとすると、
自分がほとんど何も知らないということに気づくのです。
いまさら大昔の哲学者のようなことを言うなよと思うかもしれませんが、
何かに興味を持って知ろうとすれば、誰しも抱く実感だと思います。

今年の6月から始まる予定の第四期の前半期にはこれまでとは違った試みをしてみたいと考えています。
隔週で、実作と座学を交互に行ない、
座学では様々な分野で活躍されている方、
誰かの受け売りではなく、自分自身の頭で考えつづけている方たち
…をなるべくゲストに呼びたいと思っています。

以前、美学校で演劇の講座を始めるにあたって書いたことばの通り、
どんな表現であっても始まって年月が経ってしまえば、
さまざまな方法論が確立され、表現の枠組みが出来上がってしまいます。
それは良い部分もあるでしょうし、悪い部分もあるでしょう。
多くの場合、それを考えた人ではなく、つぎの者たちに受け継がれていくとき、
その枠組みは、いつしか空気のように自明のものとなっていて、
枠組みに自分たちが沿っていることすら意識されなくなってしまいます。
演劇なら演劇を好きな人たちが、好きだからこそ「演劇らしく」するために、
無意識にそれを継承して強固にしていってしまう。

例えば多くのコンテンポラリーダンスの基本はバレエに負っている部分が多いように見えます。
でも世界全体で見れば実はバレエというのは、ものすごく特殊な踊りだと思います。
でもコンテンポラリー=現代のダンスでは、それが揺るぎないような基礎となっている。
音楽においても西洋音楽、十二音音階が基本のように教えられていますが、
これもじつは世界全体で考えると、かなり特殊なもののように思えます。
別にバレエや西洋音楽を否定したいわけではないのですが、
これらが基本であると、もう動かせない空気のようになっているのは、なんだか息苦しくないでしょうか。
枠組みを活かすにしろ、そこから逸脱するにしろ、
どういう枠組みがじぶんたちに課せられているのか、それを知ることが必要だと思います。
自明のものと見えている世界ですが、実は良く観てみると全く異なった様相を浮かべるのではないでしょうか。
系統的に勉強する訳ではないにしろ、いろんな方たちを呼んで、知らない世界の一端を教えてもらえればと思っています。
自分たちが知らないことに触れるのは、とても楽しいはずです。
そして、よく知っているはずのものに、じつは別の見え方もあると知ることはとても大切なことです。

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実作では前半期は第二期の受講生だった鈴木健太くんを演出家として呼んで、
彼と受講生の皆さんで作品をつくってもらおうと思っています。
前半期のさらに隔週なので、全部で講座7~8回分くらいでしょうか。
あくまで回数は目安に過ぎませんが。
なぜ鈴木くんかというと今年の1月におこなわれた彼の舞台作品『うみ鳴り』がとても素晴らしかったこと。
その作品にとっても「今」を感じたこと。
作品に対する扱い、特に音についてが、とても繊細だと思ったこと。
第三期の講座に彼が一度だけ遊びに来たとき試しに演出してもらったら、それがとても面白くて、
もっと彼が演出するのを横で観てみたいと思いました。
そして自分の手から演出が離れることで受講生のことも違った角度で知ることが出来ました。
鈴木くんは今年の6~7月は東北でワカメ漁をしているそうなので、
隔週で東京に来てもらうことになります。

ぼくが鈴木くんに感じた「今」というのは少しの「未来」を含んだ「今」です。
彼が海の匂いと共に新鮮な空気を持って来てくれることを期待しています。
ちなみに、ぼくがこれを書いている今現在、彼は香川県まで歩いて向かっているようです。

以上、予め言えるのは、そんなところです。
後期については、前期の時間を過ごすなかで、改めて皆さんと考えていきたいと思っています。
あらかじめ、決められたゴールを目指すのは、あまり楽しいことではありませんから。

もし質問があれば個別にでも受け付けますので、
お気軽に美学校まで連絡をください。

▷授業日:週替わりで月曜日と金曜日 19:00〜22:00(6月から開講)
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。