講師インタビュー/鍋田庸男(造形基礎I)



━━━鍋田先生の造形基礎のクラスについてお伺いしていきたいと思います。造形基礎のクラスではどのようなことを学んでいくのでしょうか?

自分自身がアカデミックな石膏デッサンから始めて、いろんなことを悩みながら今の作品にたどり着いてる。

我々が勉強することは、デッサンだけではなくて色んな社会的なことであったり、人との付き合いであったり、映画の話であったり、音楽の話であったり、昔池で溺れかけて怖い目に遭ったとか(笑)、そういうことであったりする。

そういうことを含めてもの作りに関係してくることだと思うし。そういうものを一つのアプローチとして、例えば絵を勉強するイコールデッサンを勉強するっていうのも一つのアプローチだと思うし、それ以外に色んな課題を出しながら、小さい頃の話から社会的な問題までの関心を含めて、それが作品にどういう風に現れてくるのか。それはうまいヘタではなくて、その人の持っているものが素直にどっと現れる。

もっと言うと、紙の上に絵を描いたり、キャンバスの上に油彩で描いたり、そういう方法だけではない。音楽があってもいいし、文学でもいいし、パソコンの仕事かもしれないし。それぞれの武器はそれぞれが作り出せばいい。

造形基礎っていうのは、造形って言葉に引っかかるんですけど「形」を「造る」「基」なんです。でその形というものには色んなものがあって、今言ったみたいにキャンバスの上だけではない何か、色んなメディアや媒体がある。基礎というのはABCDではなくて形を造る「基」であって、それをもう一回掘り起こし、考え直し、思い出し、色んな行為として経験していくことを造形基礎と言ってみたんです。

━━━デッサンを学ぶ絵画教室は巷に溢れているけれども、そういった技術だけを学ぶのではなく、色々な表現へのアプローチを学んでいくと?

そうだね。決してデッサンを否定しているのではなくて、デッサンというものもあるものに近づく一つの方法であると思うし、お酒の飲み方とか、会話の仕方とかそういうことからも何かあるものに近づける、近づくことができる方法だと思う。

体丸ごとの世界だと技術だけではない、頭だけではない、もちろん体だけでもない、全部必要になってくるだろうし、その全部を含んでいるものが、自らの経験であったり、自らが感動した何かであったり、そういうものですよね。そういうものを基礎としてやりたい。

デッサンというのは、光と影だけれどもそれだけではないしね。例えば言葉で表現したり、詩という方法を使ってみたり、デッサンという光と影の枠組みの外、人と話すこともそうだし。

だから色んな人に来てもらいたいんですよ。私初めてで何も描けないんですっていう人も。何も描けないわけはないしね。紙が一枚あってクレヨン一本あればね。別に描かなくてもいいし、そこに寝っ転がってもいいんだけれども、そういうことが表現として、形として成していくんじゃないかなと考えています。

━━━美学校の中では造形基礎のクラスは人数が多い方だと思いますが、人が集まってくる造形基礎というクラスの魅力は何でしょう?

私、先生とか呼ばれるんだけど、別に先生でもなんでもなくて、その辺のなんだろうな、本当は兄貴ぐらいに呼ばれたいんだよね。けど誰も兄貴って呼んでくれないからね。お父さんなのか、おじいさんなのか、ボスなのか。

私の魅力っていうんじゃなくて、そこに集まってくる何かしたいと思ってる人々、何か考えたいと思ってたり、何か悩んでるっていうのを含めて、その悩みに私が答えるんじゃなくて、多分あのクラスの中の誰かがね、何か話しているうちにどっかで話が絡まってきて、その絡まりみたいなものじゃないかな。

私と誰かではなくて、あそこの場の絡まり方ではないかなと思う。それは多分美学校の絡まり方であるような気がするよね。誰かの意見が一番偉いとか、もちろん先生が一番偉いわけじゃないし。例えばあそこに子供が来たら、子供から教わることもあるだろうし、もちろん藤川校長から学ぶこともあるだろうし、あの汚い空間から学ぶこともあるだろうし、そういうことを丸ごと全部経験してくれと。

もの作りというのは決して頭だけではなくて、あそこの空気であるとか、授業が終わったあとのアルコールのにおいかも知れないし、集まってくるざわざわした人間かも知れないし、そういうのが魅力であるっていうか、集まる「場」であってほしい。それが何かを育てるわけで、誰か一人が育てるわけではなくて場が人を育てるし、人がまた人を育てるっていうのもあると思うし、造形のクラスはそういうものでありたいなと思ってます。

━━━この前造形のクラスにお伺いした時先生も一緒に描いていらっしゃいましたよね?

本当に負けないようにしようと思ってます(笑)。

だから本当にあそこはラッキーなことに、木炭デッサンを経験した人だけじゃなくてね、全く初めて描く人が、全く新しい手法を見せてくれるわけ。七転八倒を見せてくれるわけよ。「うまく描けませんよ」って。

それはなるべくテーマとしては描けない絵を描いてもらってるのね。例えば耳に触って描く。これは誰も描いたことないわけだから。例えば形を写しなさいって言ったら、デッサンを勉強した人の方がうまいだろうけれども、形じゃなくて、目だけではなくて例えば触って描くっていうことは、誰も描いたことないんだから、そうなってくると上下はない。

そういうことにものすごい刺激があって、こんな描き方があったのかって実際に色んな人に学ばせてもらったわけだし、だから俺も負けないようにそういう刺激を受けながら自分で描いてます。自分で出したテーマに自分で描いてるっていうのは何か怖いですけど(笑)。楽しい経験ですよね。

━━━鍋田先生は美学校との付き合いがかなり長い方だと思いますが、先生と美学校との出会いをお伺いしてもよろしいでしょうか?

それはもうかなり古いですね。

一番最初は1969年で、その時京都に下宿していたんですけど、初めて東京に深夜バスで来て、銀座の画廊をぐるぐる回りながら本当に東京ってすごいなちゅうのを経験して、そこで知り合った作家の方と飲んだりしている時に、美学校というものができるらしいぜと。それが1969年です。

俺が初めて来たその年にそんな学校ができるっていう噂が広まってて、京都ではあり得ない話だしさすが東京だって思って。それが美学校を最初に知った経緯です。

それから23歳で上京してきた時に美学校というのが頭にあったんですけれども、暫く何もしないで東京で絵を描いていた。そして28歳の時にどこかでもう一度勉強してみたいなと思ったんです。京都から来て友達もいない時に、無試験無資格で経験問わないという形で美学校という場所があったんで、もう行くしかないと。なけなしの金をはたいて最初に入ったのが石版(リトグラフ)の教室です。それも石版に興味があったというよりも石版のクラスが丁度その年にできたんで、先輩もいないし(笑)それが1978,9年かな。

━━━それからどれぐらい籍を置いていらしたんですか?

言いたくないけど(笑)それからずっとです。石版に2年いて、3年目から助手をさせてもらって、それから10年ぐらい助手をやって、それで石版の個展をやったり、石版から違う作品を作ったり、石版から自分の作品が移行していくという形で美学校とも付かず離れずみたいな形で、個展をやれば美学校で知り合った人たちに案内状出すわけだし、そういう付き合いはあった。

その次に、39だから石版に入って10年、その頃に藤川君のほうから新しい教場考えてるからという話が来て、カリキュラムを長い間考えて。造形基礎っていう言葉も一所懸命考えてね。「造形」だけとか「基礎1」とかそんなの考えてたんだけど。やる内容とこういうことをしたいっていうのを文章にして、それを藤川君に出して、じゃあ来年からやってくれっていう形で始まりました。

━━━話が逸れるかもしれませんが、造形基礎Ⅰの「Ⅰ」って何なのでしょうか?

造形始めた時、最初20人ぐらいいたんですよ。そいつらがまた元気いい人たちばっかりで、授業のやり方をすごく喜んでくれて、わいわい盛り上がって、二年目はどうするんですかと、もっと残りたいんですけどって言って、もちろんいいんじゃないって言ってじゃあ1と2を作るかっていうかたちになりました。

それで何年かしてね。造形基礎Ⅰというかたちで1年目の人。造形基礎Ⅱというかたちで二年目以降の人というかたちで分けてたんだけど。ある時もう課題は要りませんて言われたのね。造形基礎Ⅰでは課題を出して、2は2でまた課題を出していたんだけど、造形基礎Ⅱの人に課題はもう要りません。もう自由に描かせてくださいって言われて、そりゃいいと。

課題漬けの課題まみれになってくると課題がないと作品ができなくなってくる。それが一番まずい。向こうの方から課題なしでいいですかってきたから、課題なしでいいならどうぞやってくれというかたちで。

だから今は造形基礎Ⅰと二年目以降の方は自由にね、おさらいというかたちで1の授業をもう一回受けてもらってもいいし、もうそれは自由にしてもらってます。

造形基礎Ⅰの「Ⅰ」っていうのには難しい意味はなくて、一番最初の一年目の人たちの二年目に残りたい時どうするかってことで「Ⅱ」を作ったということです。それで「Ⅰ」の方だけが残った。造形基礎Ⅰじゃなくて造形基礎1、2の1の方が残ったということ。

━━━では造形基礎Ⅰのクラスには2年目以降の人もいらっしゃる?

もちろんです。同じ課題をやっても去年休んでいたんで今日はこの課題やらせてくださいっていう人もいますし。

━━━話を少し変えまして、鍋田先生が美学校に入った当初の美学校の印象をお伺いしてもよろしいでしょうか?

1978年かな。28歳で、まだ自身髪の毛が長かったと思う。まだフーテンというか長髪の人が多かった時代ですよね。で一番最初階段上っていって、入ったら田中力さんという当時の校長さんがいたんですけれども、話をしたのは今泉さん(前校長)ですね。

当時は話があるっていうと、あそこのソファーに座って、まず焼酎が出てくる。まず飲めと。

それでウワーちゅう感じで、エラいとこやなーっていうのもあったし、京都で通っていた研究所の関西美術院の人が言ってたんだけどその関西美術院の雰囲気と似てたんでね。酒瓶がちゃんと並んでましたよ(笑)。酒瓶ていうか焼酎瓶か。下駄箱の上にはずーっと酒瓶が置いてあったし、汚いって言われてたけど、それほどなじみの悪い所じゃないていうか、自分が通ってきたゴールデン街だの京都の安下宿、安酒場の雰囲気とは全然違和感がなっかたし、ただ今泉先生は恐かったです。ホンマにこっちが申込みに来てるんだけど、何なんだか試験もないくせに威圧したりとかね(笑)。

そんな怖さ、鋭さがあった時代だし。それから30年近く関わっているんだけど、それはもう変わりましたね。それは悲しいっていうおじさんの懐古じゃつまらないし善し悪しはわからないけれども、変わったなというのは十分にありますね。

━━━校長が藤川さんに代わった時の変化は大きかったと思います。

その前からかな。

藤川君に2000年に代わったでしょ。変わるっていうか自分も変わるからね。28歳で来て、20代から30代はまだ元気だけど40代になってきたらそろそろ若いやつが疎ましいちゅうか、めんどくさくなってくる年頃だしね。

だからひょとしたら自分も20代の頃はめんどくさい頭でっかちな若者だったろうし、自分自身が変わって今度は君たちが、みたいな言い方になってくるし。

そういう意味だと自分の中では40歳になった頃だから1990年ぐらいかな、要するにバブルの時ね。バブルという社会現象ではないと思うんだけど、その辺から若い人が変わってきたちゅう感じはするかな。

それでパソコンが出てきてから完璧に変わったんじゃないかな。あの頃はまだテレビゲームぐらいでギリギリ付き合えたけれども、パソコンがもう当たり前になってきた時代からは、ものの発想とか、人付き合い、携帯とかメールとかもそうかもしれない、人とのコミニュケートの取り方みたいなのが変わってきたし、たった一つのおはよう、おはようございますみたいな、今韓国の留学生たちと謙譲語とか丁寧語とかやってるけどね。その辺が壊れてきているような気もするし、悲しいと言ってもしょうがないけど、何かが変わったというのは十分に感じますね。

━━━受講生の表現も変わってきているのでしょうか?

そうだな、ある意味ね、変わってきたというか戻ってきたというのはあるね。ここ十年来。

やっぱり30年40年で一回りして。俺も若い時は古くさい絵を描いていたけど、それが変わっていくのと、それから今またツルツルの表面になっていくように研ぎすまされた表現がもう一回絵の力を取り戻すように、新表現主義みたいなダーッとこう出るようなのがまた出てきたかなっちゅう感じ。

技術は完全に上ですね。例えば会田誠さんにしても古いアカデミックなものが全く新しいかたちで出てくる。螺旋状に出てくるものがあって、それは昔に回帰して60年代回帰だとかで古くさい格好をして髪を伸ばそうが、ジーパン引きずろうが、やっぱり今の方が全然クオリティ高いし、若い人の持ってる表現ていうか表現メディアが増えたって事もあるんだけど、単純にパソコンがあったり、イラストレーターがあったりフォトショップがあったりというように今の方が表現力が豊かだと思います。

精神的なものはいつでも変わって、30年ぐらいでぐるぐる回るんだけどね。表現は、グレードを上げたって言うと文句を言う人もいるけれども、質が変わってきたと思う。

━━━美学校の変わっていない部分、例えばモード学園が最近新宿にビルを建てましたが、キレイでかっこ良くてセンスがあってという学校が多い中で、美学校に残っている一昔前の雰囲気に惹かれてくる若い人もいると思いますが、そういった変わっていない部分についてはいかがでしょうか?

俺自身、さっき言ったけど焼酎が出てきたことにぐっと来たけど違和感はなかったし、汚れも違和感なかったように、そっちの傾向だったのかなって気はするけど、当然俺の時代だって、例えばアメリカ、イギリスが一番だみたいなかたちで勉強するのがエリートであったしね。俺も団体展には入ってないし、権威思考はハナからなかったし、それがかっこいいとも思わなかった。逆に今の若い人はキレイですよね。美学校来てる連中も。

それで段々ね、当たり前だろうけども、車の免許証を持ってるやつが意外に多いってのはびっくりした。海外旅行行ってるとか。俺たちの時代は、海外旅行っていったらとんでもなくお金がかかったし、フランス行ってきたとかいったら、うわーすごいなーっていってみんな集まってスライドショーをやって、トークショーじゃないけどどうだったんだよパリはという話になったんだけども、今はもう普通に私ルーブルに行ってきましたとかね。

俺が海外初めて行ったのが38歳だから。そういう意味ではそういう海外に出て行く経験とか、情報量の多さとかは今の若い人の方が全然多く持ってるし、どういう人に美学校がヒットしてるとかは全然わかりません。

今年の人は服がきれいになってるとか、けどボロボロのジーンズを引きずってくるやつもやっぱりいるわけで。逆に言うと30年中にいるからさ、自分自身がわからないのかもしれない。突然30年ぶりに美学校に来たらこんなに変わったのかよっていうのもあるかもしれない。自分自身が関わりすぎたのか、そう言うと何だけど。わからないですね。

━━━最後の質問になります。美学校に来たいな、興味があるなという人たちに対して何かメッセージをお願いします。

美学校のパンフレットにも書いてあるんだけれども、絵は色んなことがあっていい。これは今泉先生の言葉です。色んなことであっていい。色んな「もの」であっていいではなくて、色んな「こと」であっていい。

絵とは色んなことであっていいというかたちで、なんとか主義とか今これが流行ってるとかいうんじゃなくてね。自分の絵なわけで、トレンドはこれだとかいうことを全く意識しないで、下手なら下手なりに、芸大出た人なら芸大出たなりに、自分自身の表現ちゅうものを、それは例えば俺たちの時代っちゅうのは、欧米のアメリカ、フランス、イタリアの作品が一番いいとされてたけれども、よく見たらアフリカの、インドネシアの、それから南米の、今はもう色んな作品を見ることになって、そこで優劣を決めるっていうのはないわけだから。

そうすると同じように私たちが表現できることは一杯あるはずだし、色んなことであっていいわけだし、一つの問題に対して、一つの課題を出してやってもらうんだけど、もう十人十色全く違うアプローチをしてくる。そんな素敵なアトリエはないわけで、みんな同じようなデッサンでっていう世界じゃなくて、もう色んなチャレンジちゅうかアプローチをしていく。

そこに個人個人の向かい方だとか、こんな風に描くか、こんな風にやりやがったかみたいなものを周りで見れるわけだから、そこに刺激を受けながら、自分自身が描けること。そこで私もっとデッサンしなきゃていってデッサンする人が現れてもいい。けれどもデッサンを捨てるのにどんだけ時間がかかるか。

自分が学んできたもの、それをまた捨てて新しい目、新しい腕を作りたいっていうのを自分で気づいてほしい。俺が教えるわけじゃなくてあの場所でそれぞれが気づいて、学んで、何かに向かっていってほしいなって思うよね。それが造形基礎の基ですから。形を造る「基」。若い人も来てほしいし、ベテランの人にも出会いたいし、色んな人の作品をみんなで楽しみたいですね。

━━━今日はどうもありがとうございました。