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「発掘!美学校」
第3回 創立時(1969年、1970年)の生徒募集チラシ

「発掘!美学校」
第3回 創立時(1969年、1970年)の生徒募集チラシ



さて、クーラーのない灼熱の美学校から、「発掘!美学校」第三回をお届けします。(最近は冷房がなくても、夏を快適に過ごせる術が身に付いてきました。)今回は、美学校が創立された1969年と翌1970年の生徒募集のチラシを見ていきたいと思います。

まずチラシを見て行く前に、美学校が設立された経緯についても少し書いておきます。元々美学校は出版社である「現代思潮社」の一企画として始まりました。当時現代思潮社の社長であった石井恭二さんが美術の学校をやりたいと発案し、社員であった川仁宏さんが今泉省彦さんに声をかけ、そこから講師となる中村宏さんや中西夏之さんなどのメンツが揃っていったそうです。

川仁宏さんは、谷川雁さんと吉本隆明さんが1962年に設立した「自立学校」にも関わっていました。自立学校は美学校の前史とも言えるのですが、それについてはまた別の機会に書きたいと思います。

美学校の母体であった現代思潮社では当時、埴谷雄高、瀧口修造、澁澤龍彦、巌谷國士、粟津則雄、種村季弘といった思想家や評論家、文学者の著書を出版していたため、美術系の授業の他に上記の方々の講義も行われることとなりました。当時の話を聞くと、美学校での講義は義務みたいなものだったそうです。

元々現代思潮社はサド裁判で問題になったマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え・続』を澁澤龍彦さんの訳で出版した会社なので、普通の出版社、著者の関係以上に繋がりが深かったんでしょうね。

ちょっと脇にそれますが、ついでに現代思潮社の1968年の新刊案内のチラシも見てみたいと思います。

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シュールな挿絵の横に、美学校の予告がならび、さらにその横に思想系書籍の新刊案内がならんでいます。このような書籍を出版していた会社が、なぜ美術の学校を始めたのか。以前に、設立に関わった今泉省彦さんにその理由を尋ねた事があるんですが、明確な理由はなかったそうです。この予告文を読むと、当初美学校は1968年10月の開校を予定していたことがわかります。

という感じで、美学校の設立事情について軽く振り返ったところで、1969年度のチラシを見てみたいと思います。

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表面

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中面


書いてあるテキストが画像だと読みにくいので、かなり長いですが以下に全文転載しておきます。(なんて親切!というか、画像よりもテキストの方が汎用性が高いので、何かに役立つことを願い、この機会にテキスト化しました。)読み飛ばしていただいても大丈夫です。


表面

    現代思潮社は、創立十年を期して、一九六九年二月に美学校を開校します。
    美学校は、従来のあらゆる芸術活動・造形教育にあり得なかった本来性と徹底性を掲げ、アルスの根源への推参を企んで門を敲く者を、広く募ります。
    まず、二月はじめ、美学校はアトリエを二つ先発させます。すなわち、中村宏アトリエ、ならびに、中西夏之アトリエで、両アトリエの生徒は同時に、今泉省彦による表現論講義をも取得します。
    この端倪すべからざる二作家は、それぞれ独自の教程を編んで、各一五名のアトリエ生に臨みます。濃密な徒弟制を探る両アトリエは、手が囁き、物が呟く鍛治場であり、絵画表現の研鑽と同時に、表現以前の闇への肉薄を果敢に行う教場として、徐ろに開扉していく全美学校構想の端緒形態かつ最高形態の追求であります。
    さらに、つづく四月には、一部別掲する清新無類の陣容をもって、技能課程が発足します。
    各課程担任者は、生徒を拉してまぎれもない体験に至る卓抜なカリキュラムを組み、ダイレクトな指南術を練っており、レクチャーも、シュルレアリスム・マニエリスム・技術史・芸術原論などにわたる強い手応えを打ち出します。技能課程は、似非アカデミズムとも疑似モダニズムとも切れて、手の宝に直接舌を触れ、未開のモチーフの解放を促がし、理念の弾機を引き絞る、現在望んで得られる最高の機会とします。
    美学校は、年令・性別の制限を設けません。アトリエならびに技能課程のガイダンス、全時間割、入学金・月謝などの細目については、案内書をお送りします。
    技のリゴリズムと緊密に結んで、真正の現代芸術の王道を敷設する美学校に来るべき全教室を、満を持してお待ちください。


中面

    中村宏アトリエ 中西夏之アトリエ 1969年2月〜12月 各アトリエ15名定員

    *中村 宏
    *中村アトリエのねらいは、大略して、次の様なものである。
    絵画をして「表現」の桎梏から解放し、そこに絵画とは「観賞」の問題であることを見究め、そのメカニズムを追求しようとする。それは、主である作者みずからを、客であるタブロオ(作品)の側から見ようとする逆遠近法のなかで、主・客の転倒をはかる望遠鏡的視覚でなければならず、また、それは、未来派の始源性における機械への目覚めと、超現実主義の前状況における意識への目覚めを追体験しつつ、それを自己のリビドオに照応させ深化させることを意味する。
    機械と意識との円環図をタブロオとする「観賞」のメカニズムは、観念リアリズムと命名されるであろう。
    中村アトリエのカリキュラムの内容は、大略して、次の様なものである。
    ★デッサン=複製図版の筆写(例 レオナルド・ダ・ビンチ、サルバドール・ダリ、ハンス・ホルバイン、その他)
    ★モチーフ誘導=自然、機械、人体等の解読・図示(例 地形図、装置図、解剖その他)
    ★リビドオ図解=自由連想による図示
    ★デペイズマン=機械の意識化、意識の機械化
    ★タブロオ=油絵具による観念リアリズムの完成

    *中西 夏之
    *教える者と教わる者の永久運動が学校に理念化されており、例えばある種の苦痛を伴って心身を貫通した至高のものがサルバドール・ダリであるならば、彼を自身の苦痛もろとも、アングリ口をあけて待つ雀達に投げ与えるのが学校の略図であるでしょう。美学校はその理想の型を保持しているのですが、奇妙なことに美学校は、まったく矛盾した名称をもつ型態を内部に収めてしまっております。——アトリエ。アトリエは本来他人のはいり込む余地のない処、自己を繰り返す処でもその繰り返しを強要する処でもありません。私のアトリエ(といっても現代思潮社が設けた場所に私が持参した写しですが)では、生徒は生徒ではなく、素材、モデル、それも特殊な、すなわち絵を描くことの出来る素材になります。この写しのアトリエにおいて私が総てを集中させようと願うことは、「どの様な絵を描くか、あるいはどの様に絵を描くか」の問題ではなく、「どの様な状態と絵の発生を重ね合わすことが出来るか」です。そのために、美学校が通常の時間帯の中にバラバラに配置した二百十六時間というものを、もう一度堅牢に接着し静止させねばならない。いわば、物理的な時間帯の脇に置かれ、あるいはその中を穿つ、特別仕立の溝でなければなりません。そこでは、絵画衝動というべきものの持続が中心に据えられ、その持続は空間によって絵画構造というべきものに翻訳されております。欲望の周囲を検証しようと試みる人々、兎唇の子羊と認められる人々と共に、私は来年の二月からそこに降りて行こうと決めております。そこで各々の作品であると同時に私の作品であるような作品を創ることになるのでしょう。といっても、私の作品を分業して発注するのだと解さないでほしい。私のアトリエに属する人々は各自の単一な気質において各自の絵画の発生に立ち会えばいいし、私の絵画の発生にとっては、少なくとも基本態として三人の三つの気質が必要なのです。私のアトリエとしては、3の倍数の15迄の、3名、6名、9名、12名、15名を、それぞれ定員とします。道具としては、木炭および木炭紙を選定しました。木炭は、線と同時に面を作ることが出来、光と同時に闇を作る、単一の元素で出来た最も基本的な材料と考えますので。

    *今泉省彦
    *教えをうけることを、みずからの意志として据えて、欲するものを得ることはありえても、教えることをみずから意図し、果たしうるということはないのであって、教える意思は、生徒の脳皮質をかすめて消えるのである。総じて耳目を通し、すなわち空間を媒介として、達して頭脳にいたるコースにおいてそうなので、脳皮質を駁撃して残るはきわめて生理的な衝撃感ということだけであったり、あるいは、金蒔絵に使う筆は筆ねずみの毛で作らなければいけないといったことだけで終わるのである。そこで、教えられる機関は考えるとしても、教える機関は考えるわけにはいかぬ、と私は思う。そこで、最高の教育とは、教える意志をもたぬものから、必要なものを盗ませるということになろうか。既存の学校ではなく、美学校に、中村宏・中西夏之をひきずり出し、無理やりに教えることを強制し、この坩堝の中で誰がなにを盗むか、そもそも中村・中西は盗まれるに値したか。こういうことを覗き見出来る機械を私は逃したくないのである。したがって中村・中西両アトリエに跨がって、あたうかぎり鵺として、陰険にふるまうことを、私はこれまた強制されているというべきである。
    さて、私は教案を出すことを強制されている。教育の不能を信ずるものにとっての教案とはなにか。私はいまのところ、こう考えている。中村・中西両アトリエに介入する態度としては、ひとつである。もっとも体感的にきざみこまれる手からの修得に対して、頭脳的にいかに感応しているかを検証することである。表現論とはひっきょうするに、おのれの表現論をいかに表現するかということにつきるのであって、もとめるべくもっとも近似したそれをみずから許しえたところで、そいつの鼻の舌の長さを計測することであろう。

    技能課程 1969年4月〜1970年3月 各課程30名定員

    図案模様 木村恒久 明敏気鋭のグラフィック・デザイナーが、バウハウスを今日的に超える作業を、印刷の始原へのフィード・バックを通じて展開する。
    木刻面打 小畠広志 相伝的な修業をつぶさになめた現代彫刻の逸材が、秘伝部分をも白日下にさらして、テクノロジーに直面する手と思考の術を奪回する。
    絵文字花文字 赤瀬川原平 〈千円札事件〉係争中の作家が、絵画と文字の「まぎらわしい」中間界域を探り、いわゆる〈レタリング〉の狭隘な巾を大きくこえる。
    硬筆画劇画 山川惣治 創成期の劇画・イラストレーションの重鎮が、「もう一つの手」としてペンと貴重な資料を携え、刮目すべきペン画の手練を伝授する。
    細密画博物画 藤田吉香 〈理科美術〉〈標本画〉とよばれる分野の草創的一人者が、細密描法の全てを階梯化し、旧套リアリズムの原理的な破砕に途をひらく。
    模写 立石鉄臣 滞欧中ボッシュなど古典模写の修練を重ねた俊秀が、日本最初の本格的な模写教程を樹て古典への接近をはかりつつ油絵の本質を覘う。
    漫画 井上洋介 エロチックでグロテスクな作風に擢んでいる漫画家が、初心の「模倣」の意味を重視し、漫画の基軸たる〈ナンセンス〉へと掘進する。

    以上のほか、小口木版・解剖図・刺青・器械図など、交渉中乃至検討中です。

    *講義*
    粟津則雄 詩人・美術批評・法政大学助教授 巌谷國士 シュルレアリスム・仏文学 内村剛介 評論家・ロシア民俗学 片岡啓司 評論家・美学・杉野女子大講師 唐十郎 劇団〈状況劇場〉主宰 澁澤龍彦 評論家・美術批評・仏文学 白井健三郎 評論家・仏文学・学習院大教授 瀧口修造 詩人・美術批評 種村季弘 評論家・独文学・都立大助教授 出口裕弘 仏文学・一橋大助教授 寺田透 美術批評・仏文学・東大教授 埴谷雄高 作家 土方巽 舞踏家 森本和夫 評論家・東大助教授
    五十音順
    以上のほか、レオナルド・ダ・ビンチ研究の据分一弘、近代日本美術の織田達郎など、交渉中です。


以上です。

美学校の創立は当時かなり話題になったそうなのですが、この講師陣を見ればそれも納得できます。まず美術方面からみていくと、1960年代に反芸術的なパプニング・パフォーマンスを行い物議をかもした高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之によるユニット「ハイレッド・センター」のメンバーが二人名を連ねています。しかも赤瀬川原平さんは、千円札裁判係争中とのこと。ちなみに美学校のロゴは赤瀬川さんのデザインです。
そして、政治的、社会的テーマで描かれたいわゆる「ルポルタージュ絵画」や、機関車、セーラー服の女学生といったモチーフを象徴的にシュールに描いた絵画で注目を集めていた中村宏さん。個性的なフォトモンタージュ作品で知られたグラフィックデザイナーの木村恒久さん(木村恒久さんは講座名を「デザイン」ではなくあえて「図案」としていたそうです。)といった著名な人々の名前がならびます。

さらに講義講師には、上述した埴谷雄高や澁澤龍彦、瀧口修造といった作家陣に加え、紅テントで知られる状況劇場を主宰した唐十郎、暗黒舞踏を確立した土方巽も名を連ねています。これは当時の若者にとっては、かなり魅力的だったのではないでしょうか。

また、興味深いのは講師陣のみならずその講座名です。普通、美術学校といえば「日本画」、「油絵」、「水彩画」といった区分けで講座が開講されることと思いますが、表面の案内文からもわかるように、既存の教育システムに対するアンチの意味合いもあったのでしょう、美学校では「図案」、「木刻」、「絵文字」「細密画」、「硬筆画」、「模写」、「漫画」と美術の枠を超える講座名がならびます。
刺青や器械図といった講座が検討されていたのも興味深いです。

そして、中面左下にある今泉さんの「教えをうけることを、みずからの意志として・・・」から始まるテキストは、この時が初出のようです。このテキストは現在も受け継がれています。

次に1970年度のチラシを見ていきたいと思います。このチラシに見覚えのある人もいると思います。実はこの70年度のチラシは復刻して2013年度のチラシになっているんです。美学校のロゴを巧みに配置し、創立初年度のものより印象的なデザインになっています。

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こちらも以下に全文転載します。


表面

    ◆美学校講義について
    70年度も、美学校は独自の講義を行いますが、この時間帯は美学校生徒のみに出席の権利があり、講義の聴講だけを希望するから方は、入校をお断りする場合があります。

    初年度の講義の一部
    赤瀬川原平 宮武外骨の世界 粟津則雄 想像的時間 安藤次男 古美術のみかた 巌谷國士 シュルレアリスムと絵画 大久保そりや 言語交通の論理 笠井叡 肉体史 片岡啓治 遠近法と自由 桂川寛 戦後左翼美術運動史序説 唐十郎 風姿華伝をめぐって 澁澤龍彦 エロス・終末観・ユートピア 白井健三郎 不可能性の可能性 裾分一弘 レオナルド研究 種村季弘 マニエリスムと現代 出口裕弘 無神学的風土 白南準 メディヤ 土方巽 肉体論 松澤宥 最終美術について 松山俊太郎 インドのエロティシズム 毛利ユリ わだつみ像の破壊


中面

    表現を錬磨し表現未生の闇へ果敢に肉迫する真の工房
    手が囁き物が呟く教える者と教わる者の永久運動装置
    技のリゴリズムと緊密に結んだ旺んな作業の発生現場
    未開の衝迫の解放を促し思念の弾機をひき絞る鍛錬場
    芸術作品と作家のありざまを本来的に捉えかえす機関
    美学校は
    みずからの初年度実績を
    徹底的検討にさらし
    70年度
    不可欠なスペースと設備の
    拡大充実を実現
    全クラス午後1時から午後9時にわたる長時間集中授業制を敢行
    左に掲げるとおり
    今日最高の技倆と思考が割拠主宰する
    9教場11クラスを構え
    ここにあらたに
    門を敲く者を広く募り
    次なるサイクルへ
    突入します

    岡部徳三 シルクスクリーン教場
    印刷と版画の双頭の蛇セリグラフを御して当代精妙確実な技を
    謳われる逸材が技能育成を決意し本邦初の本格的教程を打出す

    加納光於 銅版画教場
    銅版未踏の膚をおかし密室の錬金を営む稀世のエッチャーが複数
    の謎を孵す企みに身を挺し作業の入門から版表現の秘法にいたる

    木村恒久 図案教場
    気鋭のグラフィック・デザイナーが前デザイン的思考への下向と印
    刷の始源へのフィードバックを敢行し近代デザインの止揚に賭ける

    小畠広志 木刻面打教場
    弱年に仏師・面打の相伝的修業をつぶさに嘗めた現代彫刻の
    俊英が秘伝部分をも含む運刀万般の体得をもって面打に及ぶ

    小畠広志 木彫刻教場
    木刻面打教場をも主宰する抜群の彫刻作家が手のわざを涸らすテ
    クノロジーに正対しつつ木と組合いシビアな彫刻思考をきたえる

    立石鉄臣 細密画教場
    諸他の追随を懸絶して博物細密画の第一人者たる画家が貴重な体
    験にもとづき細密描法の神髄を階梯化し技術の怖ろしさを伝える

    中村宏 絵画教場
    戦後美術に尖鋭な地歩を占めつづける画家が未来派の始源性と超現実主
    義の前状況に相わたり自己のタブロオ制作の原理を油彩表現に貫徹する

    藤田吉香
    帯欧中ボッシュやフランドルの画家達を対象に古典模写を重ねた俊
    秀が本邦初の模写教程を樹て絵画への入口として油彩の本質に迫る

    赤瀬川原平 菊畑茂久馬 松沢宥 美術演習教場
    〈模型千円札〉以後更に不適な表現に突き進む作家赤瀬川・
    北九州にあって現代美術と土俗的表現の通底に挑む畏るべ
    き作家菊畑・諏訪にあって〈最終美術〉の印を結ぶ隠逸の作
    家松沢—各地に自立する端倪すべからざる三作家が各々三
    分した時間帯を担い謂わば美術思考のデッサンとも称すべ
    き独自の作業に自らを傾注して用言の発芽と密接に立会う


以上です。

まず表面の初年度講義の一覧から見ていきましょう。小さい字で書かれていますが、やはりどれも魅力的なものばかりです。初年度のチラシに載っていなかった舞踏家の笠井叡、ビデオアートの代表的アーティストとして知られる白南準(ナムジュンパイク)、コンセプチュアル・アートの先駆者松澤宥、インド学者の松山俊太郎といった人々もならびます。松山俊太郎さんは、現在休講となっていますが、2012年まで月一回特別講義をしていただいていました。

中面を見てみると、真ん中に羊のロゴ、右に学校全体の案内文、左に個々の講座の案内文がならびます。言い回しや字数にこだわった案内文は、今泉さんが書かれたそうです。真ん中の羊のロゴですが、これは野中ユリさんの作品素材の一つだそうで、ドイツの壷の取っ手らしいです。この羊が、今泉さんの顔に似ていたので、ロゴとして採用されたという話です。

ここで、前年度(1969年度)のチラシの間違いも見ておきたいと思います。前年度のチラシでは「細密画博物画 藤田吉香」、「模写 立石鉄臣」とあるのですが、70年度のチラシにあるとおり、正しくは「細密画博物画 立石鉄臣」、「模写 藤田吉香」です。

そして講義では、新たにシルクスクリーンと銅版画が開講されています。90年代後半まで美学校で講師を務めていた岡部徳三さんは、日本のシルクスクリーンプリントの第一人者とも言える人で、この工房から数多くのプリンターが巣立ちました。美術演習では新たな講師として菊畑茂久馬さんと松澤宥さんが入っています。菊畑さんの教場では、のちにユネスコの世界記録遺産に登録される山本作兵衛さんの炭坑画の壁画模写が行われていたそうで、ヘルメットをかぶったデモ帰りの学生も出入りしていたとの話です。初年度、そして次年度と見てみると、この二年をかけて今に繋がる美学校のシステムが形成されていったのがわかります。

と、創立時のチラシを見てきましたが、これだけの講師陣を揃えているのに、当時の記録がほとんど残っていないのが本当に残念です。聞くところによると、2003年頃に大掃除をしてほとんど記録を(今泉さんが)棄ててしまったそうです。そこには土方巽さんの講義テープもあったとか。

ですので、これをお読みになっている方で、当時の美学校の資料や記録をお持ちの方、是非ご連絡ください。よろしくお願いします。

また、創立当時のことに関しては、美学校マガジンのページにもいくつかコンテンツが上がっていますので、興味を持たれた方はそちらもご覧になってみたください。→http://bigakko.jp/sp/zine/index.html 次回の「発掘!美学校」では、代表が現在の藤川に替わった2000年度のチラシを見て行きたいと思います。(皆藤)