物々交換所 第9回「終わりなきポトラッチを生きろ」


 酒井貴史


以前書いた、物々交換における「わらしべ長者型」と「迷い家型」という二つの方向性についてもう一度考えます。

https://bigakko.jp/sp/portal/kokanjo/005.html

この二つの型の決定的な差異は「一対一で物と物を交換」か「共同体と余剰分を共有」かという形式ではなく、『交換の関係性の継続』にあります。
その視点で見たとき「わらしべ長者型」「迷い家型」の分類はあまり有効ではないようです。

成功を収めたわらしべ長者の元に、かつての取引相手達が現れ、言います。
「我々との過去の交換関係なくして、あなたは藁一本からここまでの地位に登り詰めることは叶わなかったはずだ。
あなたが現在の富を享受する限り、我々に対する感謝を忘れるべきでない。」
このとき彼らの主張を退け、「交換は成立した時点で完結するものであり、我々の関係性は初期値/中立値に戻っている」と考えるか、あるいは彼らの主張を受け入れ、「現在の状況は過去の交換の蓄積によるものであり、我々の関係性もまた蓄積されている」と考えるか。

貨幣を媒体とする価値の交換は前者の思考方法の延長で整備された制度であり、貨幣の信用を共有する相手であれば誰でも交換を行うことができ、その都度交換は完結するため、関係を継続する必要はありません。
逆に後者は貨幣以前の『その都度完結できるような平等な交換』の不可能性に考慮した思考です。需要と供給、求める者と与える者の間の差異があるからこそ物の移動が行われ、その際に生じる不平等を次回の駆け引きに反映する「貸し借り」という形の関係性が蓄積されるとするものです。

貨幣経済においては、需要に答えて供給する側の「貸し」を数値化し価格に反映することで「平等な交換」を可能にしています。
売れ残りが値引きされるのは、需要の減少や品物の劣化による「供給する側の貸し」の低下分が価格から引かれるためです。
煩雑な「貸し借り比率」をあらかじめ計量してくれる貨幣の概念の出現によって物の移動は簡潔になり、所有権の曖昧さは是正され、それまでせいぜい人間の生活圏を一単位としていた「分業」の複雑細分化、規模の拡大を可能にしました。

しかし関係性の簡潔化、自明化が人間の社会生活における生産流通の効率化の条件であるのなら、そのような方向性に逆行する文化が歴史上、世界の様々な場所に存在し、現在も尚一部は存続しているのはなぜか。ポトラッチやクラ交易、ヤップ島の巨大な石貨といった、貨幣制度の未発達という理由では説明できない「何ら実用性を持たないにも拘らず何世代にも渡って継承される交換の対象物」や「交換行為そのものが目的」とも思える風習をどんな意味があるのか。
僕はこれに関して、他の集団との関係性を清算せず執拗なまでに貸し借り関係を蓄積し続けようとする努力は『集団の間の致命的な破局』を回避するためのものだったのではないかと考えます。
環境や気候の変動による食料不足が起こった場合、最も即効性のある戦略は『他の集団からの略奪』です。
しかしこれは生存のために高度な社会生活を基盤とする人類にとってリスクが高く、他に選択肢が無くなった場合の最終的な手段として可能な限り回避しようとされます。この最終手段を回避する安全策として、人間の生存や共同体の維持の必要性を超えた規模で他の集団との関係性の蓄積が行われたのではないでしょうか。
また、飢餓を引き起こすレベルの災害は(貨幣以前の時代においては特に)人の寿命より長い周期で出現するものだったため、「個人対個人」の関係性よりも、「集団対集団」で行われる『何世代にも渡る壮大で永続的な交換の儀式』が生み出されたとも考えられます。

古く集団と集団の間には現在のような明確な境界線は存在せず、広大で可塑的な「中間領域」が広がっていました。
そこは交易の場であり衝突を避ける緩衝地帯であり、人と人の間の「わたしのもの」と「あなたのもの」の中間領域とフラクタルな相似形を成していました。


物々交換所

物々交換所はまだ使える不要品を収集して貰い手を探すための場所です。ここに置いてある物は遠慮なく持ち帰ってください。
物を置く時、貰う時にどんな物があるかツイッターでつぶやいてください。もしくは交換所の棚を整理してもらえるとありがたいです。

酒井貴史

kokanjo

1985年10月28日宮城県山元町出身。2009年武蔵野美術大学卒業。現在、物々交換所管理人。詳しくはツイッターから。https://twitter.com/koukanjyo