修了生インタビュー 佐藤直樹


収録:2011年10月


デザインと絵画の往復運動

━━━佐藤さんは富士山を描くまでは、デザインのラフとかで絵を描いたりしていたんですか?

 ラフを描くことはしてきてますけどあまり関係ないと思います。絵を描くということとは。

━━━富士山を書いた時に決定的な実感の違いみたいなものはあったんですか?

 富士山は本当に人間印刷機になってみただけなんですよ。それが2004年でしょ。それに味をしめたところがあって、その後の『デザインのひきだし』に引き継がれていくような印刷フェチみたいなものですが、あくまでそれは印刷のバリエーションとしてやっているんですよ。

 だから表現行為というのとは違うんですよ。表現というものに対しての抵抗が未だにすごくあって、表現じゃないんだという。まだ印刷になりきるぐらいのほうが、自分の中では達成感がある。自分が印刷そのものになる、自分は印刷プロセスであるというところまで行ったら、かなり達成感はあるわけです。

 だけど人間は印刷そのものにはなれないので、余計な雑念を持って自由意志を働かせている錯覚に陥るわけですよ。でもそれが自分の自由意志だと思って、これが自分の作品ですと言っていることのしらじらしさというか、やっぱり印刷ですからね。

 だから、純粋印刷機械になったら達成と言えば達成なわけですよ。けどなかなかならない。どうしてもそこに人間の意思とか、人間らしさとか、私らしさというものが入ってしまって、それをどうやったらなくせるかということが長年のテーマだったわけです。

 美学校を出てデザインの方面に行って、赤瀬川さんや菊畑さんがやっていた反芸術や超芸術的なものとのアナロジーで言ったら、デザイナーがこれが俺のデザインだとか、これが俺の作風だとか、ここに俺の鋭さがあるとか言っている内は、反芸術、脱芸術、超芸術の足下にも及ばないバカバカしいレベルなわけなんですよ。

 彼らが否定してきたような、そこに疑われることのない作者という存在があって、その作者が絵を描いたりものを作ったりして、それはとっても純粋なことなんだってことにして、それで自らの評価を高め、その評価に応じてそこから収入も得るという、よくよく考えるとすごく不思議な世界。そんなのはとっくの昔に壊れてしまっている幻想のはずのなのに、作家が「これが自分の芸術作品です」と言うことによって、そのことだけを根拠に、誰も「王様は裸じゃないか」とも言わず、存続してしまっているような、そんな世界。それはそれで何かを否定して成り立っているはずなんです。

 作者がいて作品があって、そこに価値があるということで芸術が成立し、そこにファンがついて作品が売れ、経済が回る。それはなんら否定することではないけれど、異なる考え方だってある。それは近代だったりせいぜい近世だったり中世だったりのシステムを前提にしていて、今はそれがまた一巡して、もともとあった共同性やら交換やら贈与やらっていう問題が顔を出し始めている。

 ただし、懐古的なことを言っててもダメで、ちゃんと事を前に進めなければならない。過去には戻れっこないんだから。

 さっき言っていた話に戻ると、そこで本当に自分を消していけるまでの純粋な印刷機械になれるような余地はないのかと試しているところもあるわけです。デジタルならデジタルが勝手に次を呼び込んで、まだまだ変化し続けて、どこまで行ったら「人間」って概念は変わるのか。そういう話にもなってくる。

 そういう問いを自分で抱えて、かつ自分をそこから消していくなんてことが、本当にできるのかどうか、それはまだこれからのことだから、わからないんですけど。でも今みんなが漠然と探っているかに見える集団創作的な流れっていうのもそういうことなんじゃないかと感じています。

━━━それでいうとどういう活動に注目していますか?

 アートの周辺にも、デザインの周辺にも、最近また面白い若手が出て来ているんじゃないかなとは思っていますが、この話の流れでちょっと申し訳ないんですけど、個人的には、   杉浦茂さん(註25)とか   茂田井武さん(註26)とかが何しろ好きですね。あの自由度。ああいうものは自分からは絶対に出てこないので。小田島くんなんかには、杉浦さんや茂田井さんと何か共通するものがあると思ってるんですけど。

 つまりそういうふうになれるぐらいなら最初からなってるんで、やっぱりそれはできないんだろうし、だからこそ憧れるっていうマゾ体質なんですね、僕は。完全に。それでも、それに重なる何かを作りたいという気持ちは消えないので、そういうものとどこかで結びついているかもしれない居場所を探して、ものを作るということを続けられないかなと試しているんでしょう。

 さっき言った富士山の話なんかは、単に印刷機の動きをやってみたという、いい意味でのムチャクチャじゃなく、かなり酷いムチャクチャをやってみてるわけだけど、それはそれですごく体感するものがあって。一応、次にやることがそこから出てくるんですよ。体験さえすれば。

━━━佐藤さんは肉体労働でもそうですしCETでもそうですけど肉体を酷使するじゃないですか?それを突き動かしているものって何なんですか?

 何ですかね。欠乏意識が強いとは思いますね。足りない、埋まらないという感じがすごくあるんだと思う。満足できないんです。これぐらいかなとバランスよく着地させることができない。一種の欠乏症ですね。病気だと思います。足るを知らなきゃいけないのに知らない。

━━━絵を描いてそこからさらにデザインにフィードバックしていくものはあったんですか?

 ありますよそれは。確実に。デザインって年齢とともに固まっちゃうものだと思うんですけど、でも今のところまだそれほどじゃないですし。それは、そういう、往復運動のようなものに助けられてるんだと思います。まだ止めるつもりもないし、描こうと思うものもそこから自然と引きずり出されてきますから。

 挿絵の仕事も始めますし、展示の準備も始めてますし、もちろんデザインもまだまだ試行錯誤しています。

自分の中の実験として


 ━━━展示といえば、春先に   荻窪派(註 27)をやりましたが、それをまたやるんですか?

 荻窪派はもうやらないですね。荻窪派をやった後にスーパーデラックスで   ククナッケさんとやって(註 28)面白かったんで、あれの続きはやりたいなと思ってますね。これは口でどうこう言う話ではないから、ただ描くだけなんですけど、描きたいモチーフというのは出てきています。やっぱり絵には回帰していきますね。

━━━字ではないんですか?

絵ですね。字ではないですね。

━━━子供に戻っていく。

 そうそう。字を覚える前に戻っていくんだね。だから字はプロセスなんですよ。大事なものだとは思うんだけど。誰も描かしてくれなければ自分で描くだけで、自分の中の実験として試せればいいので、そこは楽観しているところはありますね。何か見つかるんじゃないかという。

 見つからなかったとしても色んなものを見て回ったりとかしていると、有名無名問わずまだまだ自分が見つけてないものの中に、ある種の到達したものがたくさんあって、これ何なんだとか、なんで今の時代だとこういうふうにいかないのかなとか考えざるを得なくなる。

 やっぱり写真の発明というのが決定的で、それまでの何百年、何千年、何万年のスパンの中でいったらものすごく短い変化でしかないんだけど、高々150年とかしか経ってないのに、それ以前に持っていた感覚への想像が働きにくくなってしまった。写真というか光学的なもののパワーがそれだけすごいってことでもあるわけですが。さらにその先のテクノロジーの進展もすごくて、後戻りなんかできないのかもしれないけれど、それでも身体に刻まれてるものはあって、経験値なんかに関係なく、根源的なものってのは若い人からだって出てくる時は出てくる。

 だから自分の方が年をとっている分、色々紆余曲折して経験があるから何かに近づけたかというとそういうのも関係なく、まったく同じスタートラインに立っている。それは非常に開放感のあることだから楽しくもありますね。

 それに今まで考えていた面倒くさいこととか段々消えていっているので、単にそういうものを見て嬉しくなる。あ、いいなって。それが世代も年代も何もかも超えて見つけられるわけですから。

 最近は何度見てもいいのはやはり茂田井さんですよね。あれは本当にいいですね。ああいうものにもう一回自分が解放されていく可能性が最後までなくならないって、そこに望みを持つことはありますね。あれは別に誰にも見いだされなくてもよくて、でも描けた時に本人の中で確認ができたはずなんですよね。言ってしまえば一種の天才ではあるんだけど。

 さっきの赤瀬川さんとか菊畑さんの作家性を持たない話からすると言っていることが矛盾しているんだけど、それでも決定的に違うんですね。ああいうものにたどり着いてしまうというのは、言葉がないから天才と言ったけれども、別に天才と言う必要もなくて、人はたまたまそういうものに当たってしまう。

 それがたまたま自分になるのかもしれないし、それともそこのところに興味を持って、グルグルとその周りを巡回しているだけで、何も出てこなくて死んじゃうかもしれない。でもそのことは何ら悔しくないですよね。

 それよりはそこにちゃんと関知していて楽しいというさ。だからその一つのあり方として、茂田井さんがああいうことをやっていたいうことが確認できるのが楽しい。それは杉浦茂さんもそう。惚れ惚れするじゃないですか。

 そういったものを星座のように結びつけていって、そこに自分も重ねてみて、それで何かやってみたらいいものができるかもしれないし、ひどいなと思ってがっくりいっちゃうかもしれない。でもそれは割と幸せなことかなと思いますね。

━━━どうもありがとうございました。


   註25:杉浦茂(すぎうら・しげる)
1908年東京都出身。漫画家。青年期に洋画家を志すも、金銭的な理由から断念。その後、田河水泡の門下となり漫画家の道を歩む。戦後は『冒険ベンちゃん』『猿飛佐助』『少年児雷也』などのギャグ漫画で人気を集める。2000年死去。

  註26:茂田井武(もたい・たけし)
1908年東京都出身。童画家。太平洋画会研究所等で絵を学んだのち、パリに渡り絵を描く。1933年帰国。1935年頃より日本

  註27:「荻窪派 町と本」
2011年3月に行われた、デザイナー大原大次郎と佐藤直樹によって行われた二人展。「文字と即興」の第二弾として、荻窪のギャラリー+古本+カフェ「六次元」にて、「町と本」をテーマとして開催された。

  註28:ククナッケ、佐藤直樹によるライブ
2011年6月にスーパーデラックスにて開催されたライブ/パフォーマンスイベント「Slide Zone vol.4」にて、音楽家のククナッケと佐藤直樹により<絵と音と画と術>を巡るライブが行われた。