修了生インタビュー 佐藤直樹


収録:2011年10月


デザイナーになってからの美学校とのつながり


 ━━━それで『WIRED』をやって、デザイナーとして仕事をするようになって、当時の美学校での経験が生きてきたりはしたんでしょうか?

 関係ないですね(笑)。

━━━断言できるほど全くない?

 そう言われると(笑)。あるっちゃあるでしょうそれは。貼り紙から繋がってるわけだし。あとグラデーション制作で鍛えられた目と手の精度とか?(笑)

 『WIRED』の創刊の時に、フライヤーを置いてもらおうと思って持って来たのは覚えてるんだけど、久しぶりに来たら何にも変わってなくて、今もまだ変わっていないのが本当に驚くべきことだけど、とにかく久しぶりに来て、俺もここで時間つぶしてたんだなぁとは思った。だけどそこを結びつけて考えたことはないです。

━━━きっかけはあったけどみたいな。

 そういうことですね。だからきっかけになった場所であることは間違いなくて、ここにいなかったら翔泳社に行ってないし小林弘人とも出会ってないし『WIRED』だってやってない。『WIRED』やってなかったら俺どうなってたかね。

━━━その後時間が過ぎ、どういうふうにまた美学校と繋がるようになったんですか?今授業されてますけど。

 不思議もいいとこだよね(笑)。菊畑さんが大分年齢を重ねて授業もやめて、久しぶりに美学校に来るという話を聞いて、それで何とかやってますよって言えるかなと思って来たんですよ。そしたら菊畑さんはまったく覚えてなくて、僕生徒だったんですよって言ったら、へーって(笑)。生徒なんて毎年出ちゃ入ってだから覚えてないよ、でもなんか活躍してるらしいね、他にも年代を超えて生徒が集まっているから、真に受けないで好きにやったのが良かったんだねって言ってましたけど(笑)。その通りかもしれないと思いました。

━━━それはこの教室で集まっていたんですか?

 隣の教室ですね。それが何年経ってからのことだか思い出せないけど。藤川さんに聞けばわかる。その藤川さんは僕がここに通っていた時に事務局をやっていて、校長は今泉さんでこの間亡くなられたけど、名物おじさんで、今泉校長のもと僕はここにいた。そして藤川さんが校長になって。藤川さんは覚えていてくれたようなことを言ってたよ。本当のところはわからないけど(笑)。僕は藤川さんのことを覚えてたから、あ、藤川さんって言ったら、あー覚えてる覚えてるって(笑)。それで授業でもやってくれない?みたいなことを藤川さんから言われて、いやあ無理ですよって言って最初は逃げ回ってた。

━━━その頃には大学で先生をやり始めていた?

 やり始めた頃じゃないかな。多摩美も始めたしちょっと無理だと思いますよって言っていた。武蔵美と多摩美の話が同時に来たんだよね。2000年代の前半です。実際に始めるのは2003年からなんだけど。

 90年代後半から2000年代頭にかけて、『WIRED』が終わった後に   『composite』(註6)を始めて、森ビルの   MID-TOKYO MAPS(註7)を始めたりだとか、CDジャケットやったりだとか、ファッションカタログやったりだとかで、あの頃は仕事としてはかなり密度濃くやっていた時期ですね。雑誌とかにもよく取材されたりしていたし、一応少しはやれてますよって言えるくらいにはなった。少なくとも自分の事務所を運営できていたわけだから。

 そういうことがあって、単発のゲスト講師みたいな感じで、いろんな学校からも声がかかるようになってくるんですね。それがちょっとは面白かったんだろうね。教員としてもやれるんじゃないかと思われたんでしょう。次々声がかかるようになった。だけど教員を中心にやっていくつもりは毛頭なくて。武蔵美の助教授と多摩美の非常勤が2003年からで今年9年目になるので、今それなりに複雑な思いを抱いてやってますけど。複雑っていうのはつまり、学生のことはどんどん可愛くなってきて愛情も強まってくるんだけど、そこに安住してしまったら自分はつまらなくなっていくんじゃないかっていう不安が拭えないんですよ。どんどんつまらなくなっていく人が前より一生懸命になって俺も君たちのために頑張るよ!なんて言うようになったら何が何だかよくわからないじゃないですか。教員というのはだから難しいです。本当に。

CETを始めてから


  それで「絵画部」の活動が2007年か、2007年に事務所を渋谷から大伝馬町に移して。そこらへんからアート関係の人との接触が増えた。   CET(註8)が大きかったと思うんだけどね。CETが始まったのが2003年なんだけど…それは2つの大学に行くようになった年でもあって。その時点では僕はアートに対する興味はほぼまったくなかったんですよ。つまり美学校を出て以来ずっと封印したままだったから。アートのことは。完全に忘れていた。実際いったん忘れなければ一歩も進めなかったでしょうしね。ただ引きずっていたら何にもなってなかったと思います。

 美学校に通っていた時は、アートもデザインも分け隔てなく接していたけれど「業界」はハッキリと分かれてあった。僕はあくまでデザインの業界に足場を置いて、デザイナーとして評価される仕事をしない限りはって思ったから、まずは人前に出しても恥ずかしくない仕事をするというのが何はなくともやらなければいけないことだった。それには10年かかると思っていた。27歳の時、88年に翔泳社に入ってから90年代いっぱいは、もう本当に寝食を忘れてデザインだけやってました。

 だからその間に美学校のことを気にかける余力なんて、頭の中にこれっぽっちもなかった。そう考えると菊畑さんの話もずいぶん後のことだろうな。『WIRED』の創刊の時にここにチラシを持って来たりはしたけど、その時もちらっと寄って懐かしく思ってさっさと戻ってまた完全に忘れてしまうんですよ。それで2003年からCETを始めた。CETはあくまでデザインの一環としてやってるんです。デザインを拡張するという意味でやっていた。その頃   『NEUT.』(註9)っていうグラフィック誌を自分で企画・編集・発行するようになってたんだけど、『NEUT.』のデザインの延長という部分もあって、『NEUT.』は90年代後半から準備して創刊は2001年で、   『百年の愚行』(註10)とかもそこに重なってるんです。

━━━「絵画部」が2007年にできて、そこから直接美学校には繋がらないと思うんですが、そのもう一歩は何ですか?

 2000年代の前半から東京デザイナーズブロックというのを、IDEEの   黒崎さん(註11)に声をかけられてやってたんです。その時に建築家の   >馬場さん(註12)や他のデザイン分野の人とも仲良くなって、リノベーションによって空間を変えていくようなことをしたりして。それでなぜ「アート」という言葉が入ってくるかというと、結局そういったイベントを成功させようと思ったら、アート抜きに考えられなかったんですよ。つまり街の情景を一変させていくような動きをするしかないわけで、それは根本的な価値転換を含むことだから、従来的な意味でのデザインの枠内には納めようがない。そういうところからどんどん変化が起こっていった。

 でもじゃあアートっていうのはどういうところで経済活動と折り合いをつけていくのか、それは今の僕にはまだよくわからないところですね。

 CETのコンセプトを組み立てる際にいろいろと考えなければならないことが噴出して、NYのソーホーだったりチェルシーだったり、ドイツのミッテだったり、ロンドンのイーストだったり、アムステルダムだったり、世界中のいろんな事例からも学ぶことになって。それに近い、でもそのどれとも違う、面白い可能性が東京にあるとしたらこのエリアだということを実感するようになっていった。そこにはどうしたってアートというものが絡んでくる。ただ、じゃあ「アートの実態」って何っていうと自分でもまだよくわかってないわけですよ。

 いわゆるデザインというのは、何か目的があってそれに合わせてチューニングしていく作業だけど、目的もわからないのにとにかく遮二無二作った結果を誰かに見てもらったり、それを活動の軸においている人たちがいるということはあって、建築、デザイン、アートを三本柱にしながら、2004、5、6、7、8、9、10…とずっと続けていくことになった。

 けれども自分が絵を描くこととか、アーティスト的な活動をすることに関しては、自分の中で完全に禁じ手にしてきたわけです。中途半端にそんなことをしたって、自分が今までやってきたプロフェッショナルな部分を何も前進させないし、むしろいい訳みたいなことをやってしまって、ガス抜きの場所みたいにしてしまうのは最悪なので、やっぱりデザインでちゃんと勝負できなきゃだめだと思ってやってきたわけだから。だけどいい加減そういうことを気にすることすらどうでもよくなってきたんですね。そこから「絵画部」に繋がっていった。「絵画部」の活動はCET08からです。
 


   註6:『composite』

1998年に刊行されたファッション&カルチャー誌。2003年休刊。

  註7:MID-TOKYO MAPS
森ビルが2001年に開始した、”東京が国際都市間競争にも打ち勝つ、魅力ある都市へと再生するための都市づくりを考える”をテーマに様々な視点から東京を解析しているwebサイト。
米国の広告賞One Showのインタラクティブ部門で日本から初の金賞を受賞した。

 註8:CET(CENTRAL EAST TOKYO)
2003年より2010年まで、東京の東側(神田・馬喰町・浅草橋・日本橋など)を中心に毎年行われたアート・デザイン・建築の複合イベント。空きビル等を利用して、インスタレーション、展示、パフォーマンス等が行われた。2003年はTDB-CE(東京デザイナーズブロック・セントラルイースト)として開催された。

  註9:『NEUT.』
佐藤直樹責任編集で2001年に創刊された大判グラフィック誌。その実験的表現やコラボレーションは、その後のCETに繋がっていった。

  註10:『百年の愚行』
20世紀の人類の様々な”愚行”を古新聞と100点の写真、エッセイで振り返った写真集。2002年発刊。2002年東京ADC賞、2003年ニューヨークADC銀賞、the Best of Category in I.D.’s Annual Design Review(2003)受賞。

  註11:黒崎輝男(くろさき・てるお)
1949年東京都出身。デザインプロデューサー。早稲田大学理工学部応用物理学科卒業。1975年アンティーク家具の輸入販売を業務とする黒崎貿易株式会社を設立し、「IDEE」を創立する。オリジナル家具の企画販売・国内外のデザイナーのプロデュースを中心に、”生活の探求”をテーマに生活文化を広くビジネスとして展開している。

  註12:馬場正尊(ばば・まさたか)
1968年佐賀県出身。建築家。早稲田大学大学院理工学研究科建築工学専攻修了。建築事務所Open A主宰。設計や都市計画を中心に執筆活動も行う。都市再生プロジェクトの「R-project」や新しい視点で不動産を発見し紹介する「東京R不動産」のディレクターも務める。