講座レポート「リトグラフ(石版画)工房」


からだを動かすと、感覚も動き出す―リトグラフ(石版画)工房

美学校の特色のひとつに「工房」を有していることがあげられる。暗室や版画のプレス機など、個人では揃えるのが難しい設備が美学校には備わっている。工房で作業をする講師や受講生は、さながら職人といった趣だ。今回は、そんな工房の中からリトグラフ工房にお邪魔した。

リトグラフとは?

リトグラフとは1798年にドイツで発明された印刷技術で、当初は楽譜などの複製に用いられた。その後、描画したものがそのまま印刷されるという特徴から、美術の世界でも広く用いられるようになった。ここで気になるのがその特徴。普通「版画」といえば「彫る」ことをイメージする人が圧倒的に多いだろう。「描画したものがそのまま印刷される」=「彫らない」版画とはこれいかに?何はともあれ、まずはその制作方法を見せてもらった。

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版となる石に鉛筆で描画したもの。
石は女性一人がようやく持ち上げられる重さ

リトグラフで用いる版は、素材が石灰石のものと金属(アルミ板)のものとがあるが、いずれも「平版」と呼ばれるものだ。そもそも版画にはいくつかの種類があり、それは使用する版によって区別することができる。図工の授業などでもお馴染みの木版画は「凸版」。版の突き出たところに乗せたインクを紙で押さえて擦りとる。逆に「凹版」を使うのが銅版画。金属の針で彫ったり腐食させたりして出来た溝にインクを詰める。穴の空いたところにだけインクを通す「孔版」を用いるのはシルクスクリーン、というように一口に「版画」といってもその表現手法は様々だ。

では、なぜリトグラフは溝も突起もない「平版」の一部にだけインクを乗せられるのだろうか?答えは「水と油」の関係にある。まず、描画には油分を含んだクレヨンや鉛筆を用いる。その後すぐには刷りの工程に移らず、版に薬品を加えて化学反応させる。そうすることで、油性インクで版を刷るときに描画部分だけがインクに反応するようになるのだ。一方、描画以外の部分は絶えず水で濡らすことでインクと水が反発し、色がつかない。つまり、リトグラフとは「水と油が反発する原理」を用いた化学的な技法と言える。

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描画に使う道具。水に溶いて使うものから鉛筆状のものまで様々

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このローラーでインクをのせる

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「絶えず濡らさないと版が壊れてしまうから」と水を含んだスポンジで金属版を塗らす先生

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インクが白いので黒い紙に刷る。白が濃い部分が今回刷った版

そうして刷り上がった版画は、手書きとも他の版画とも違う風合いの仕上がりだ。同じ色でも見る角度によって鮮やかに見えたり淡く見えたりする。「リトグラフは光の加減で色の見え方が違うんです。朝と夜では色の出方が違って、絵が生きているように見えるんですよ。私がリトグラフを好きな理由のひとつですね」とは佐々木先生の談。

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先生の作品。大きい作品は6色ものインクが重ねられている

かつての版画ブーム

かつてリトグラフ工房の生徒だった佐々木先生。先生が通っていたころは、アメリカでジャスパー・ジョーンズやフランク・ステラが活躍するなど世界的な版画ブームで、工房にも15人ほどの生徒が通っていたそう。

「皆仕事が終わるとだーっと走ってきて、プレス機を取ったー!みたいな争奪戦で(笑)。プレス機も今は2台だけど当時は3台あったんです。授業は週一回だけど、皆来られる時に来て作業していました。そこが工房のいいところですね。いろいろやって失敗することで、自分の表現方法を見つけることもできますし」(佐々木)

しかし、その後はパソコンの登場でアメリカの大学のリトグラフ講座がパソコン教室に変わるなど、版画ブームは終焉に向かっていった。「最近は版画をやろうという人がすごく減っていますね。やはりパソコンで簡単にできてしまうからでしょうか」。確かに、同じ絵柄を印刷するにしてもパソコンであればすぐにプリントアウトできるのに対し、リトグラフの場合は薬品を塗ったり乾かしたりと、手間も時間もかかる。

「だけど、体を動かしながら作っていると色々なことを考えるんです。インクを乗せすぎたから今度はやり方を変えてみようとか。パソコンだったら、思い通りの線が描けたり色が出せたりしますが、リトグラフの場合は化学変化も手伝って思いもよらない色が出るんです。想像していた以上のものが出来上がるとすごく嬉しいですよ」(佐々木)

さらに付け加えれば、美学校は本物の石版を使って制作できる数少ない工房なのだ。石版用の石の採掘が終了していることや水場が必要なことなどから、本物の石版が使える工房は限られている。

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たくさんの行程を経て出来た作品は「決して捨てられないです。時間を取り込んでいる絵ですから」

描く、動かす、感じる

幼いころから描くことが好きだったという佐々木先生。絵画クラスではなくリトグラフ工房を選択したのは、日中は仕事をしており夜の講座にしか通えなかったから。夜の時間帯は絵画のクラスがなかったため最も手描きに近いリトグラフを受講した。初めは代替案にすぎなかったリトグラフが佐々木先生の表現手段になったのはなぜなのか。「いざリトグラフを始めたら、刷って色が出てくる喜びが大きかったんですね。色彩の豊かさを捕まえたいと思いながら今日まで続けています」。

石版を運ぶのもインクを練るのもプレス機を扱うのも全てが肉体労働のリトグラフ。しかし、その日の気温や湿度を感じながらインクの粘度を調整し、色と色の重なりで色彩を生み出す。工房の授業では必ずしも具体的なモチーフを描く必要はなく、色だけ、線だけの表現も可能だ。自分は色で表現しようと思えば、日頃から植物などの色に目を配ることも増えるだろう。頭脳労働だけではなく、実際に体を動かすことで養われる感覚があると感じた。相変わらず早さが優先される社会において、じっくりと目の前の版に向き合い、刷り上がる喜びを体感できるのはリトグラフ工房をおいて他にない。

取材・文=木村奈緒 写真=皆藤将


リトグラフ(石版画)工房 佐々木良枝+増山吉明 Sasaki Yoshie

▷授業日:毎週火曜日 13:00〜17:00
石や金属の版の上に脂肪分を含んだ画材で、自由に描いたものを版にすることができ、ドローイングや自由な描画、筆やペンで描いた水彩画のタッチを出したり、色を重ねることによって複雑な色合いを出すことができる技法です。