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【レポート】実作講座「演劇 似て非なるもの」特別稽古(ゲスト:川口隆夫)

【レポート】実作講座「演劇 似て非なるもの」特別稽古(ゲスト:川口隆夫)


写真=梨乃


 

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12月4日、11日の二日間、ダンサー/パフォーマーの川口隆夫さんに稽古に参加していただいた。
下記、受講生たちそれぞれの感想である。

 

 

「川口隆夫さんとの稽古」 武本拓也


川口さんを迎えての稽古では、私にはかなり多くのショックや反省する事があり、未だに整理できていないというのが正直な所です。

まず挙げられるのは、この講座への関わり方について反省させられたという事です。私達がやろうとした「自分を開き、相手を知覚する」というシーンでは、私はまったくそれができませんでした。普段の受講生同士の関係やそれぞれの性格がそのまま出ている、と生西さんが仰られていましたが、正にその通りであったと思います。私に関していえば、上辺でいい感じに取りまとめようとするけれど、実際には二人とどう接すればいいのかわからない、場を壊してしまうのが怖い、というような事が現れていました。
川口さんがシーンに関して言っていた事、「場に責任を持とうとしていない」「抑圧している」という事は、そのまま普段の私自身への言葉でもあると受け取っています。
そして、何をやればいいのだろうという疑問に対しての川口さんの回答、「やる事は、全身全霊を懸ける事です」。これも、今後私が講座でも実生活でもやらなければいけない事だと受け止めています。

また、「神妙にならない事」という言葉も強く残っています。
確かに、私達のシーンは神妙になりがちでした。神妙さはある意味では安易さでもあると思います。特に私に関しては、安易なやり方として神妙にする傾向があるように感じます。
川口さんがやられた事は、そんな神妙さとは全く無縁の、あっけらかんとした、非常にパワフルなものでした。「こんな事をしてもいいんだ!」と思わされました。
何をしてもいいはずの場所でそう思ってしまうという事は、無意識に「こうでなくてはいけない」という事があるという事でしょう。神妙さは自分を守る方法でもあります。あっけらかんと開くという事は、それが無視されたりする危険を覚悟するという事でもあると思います(そんなに重く考えるとできないのかもしれませんが)。しかしそれを乗り越えてやってくるものは、私の神妙さとは比べ物にならないパワフルなものでした。
それがその時私にはできなかったとはいえ、そのパワフルさに直に触れる事ができたという事。それは非常に貴重なものです。
神妙さをいかに乗り越えるか? 私は今それを考え、やろうとしています。

稽古としては、とても充実していたとは言えないと思います。それは非常に悔しく、残念です。考えるべき点や問題が見えたとはいえ、私にとって悔しい結果に終わった事に変わりはありません。

私は社交ダンスをやっていた時に、「自分がしっかり立たないと、相手は踊れない」という事をよく言われていました。
相手がどうであるかの前に、まずは自分がしっかり立てないと、どっちもどうすればいいのかわからなくて困ってしまう。自分から相手に適切な力を与え、相手から与えられた力を適切に返さないと、2人で踊った事にはならない。
「自分とこの人はちがう」という事でコミュニケーションが終わってしまったり、相手の事ばかり考えようとして結局自分の事しか考えていない(要は相手に寄りかかっている)、という事が起こっていたように思います。
自分の意見と態度をしっかり持とう。そんな当たり前の事を考えたりもします。

 

 

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「(たかおさんとの稽古 私的なメモのようなもの)」 瀧澤綾音


12/4

相手の見ている景色をみた
自分の目の前に相手の見ているであろう景色をもってくるのはとても大変で、でも 相手のところに自分をもっていけば(自分を相手のところに飛ばせば)易しかった。

たかおさんが 私たちの想像へ いろいろ指示していく
楽しかった、こういうことをするのが好きだなと思った。山崎広太さんのwsの最後にもこのようなことをしたが、そのときも 自分がなくなる感覚でとても楽しかった。
自分がいなくなり、そらからの声のまま動く そのままに、そして からだが別のものになる。
たぶん集中の中に入っている状態、なにかになることによる からだの変化、うそのない あるがままに動けること、が好きなんだろうと思う。

歩く
部屋の暖かさ冷たさ、光 暗いところ、床の感触、におい。
すたすた歩く、のんびり歩く、走る、止まる。見える世界が変わる、じっくり見えたり、びゅんて通り過ぎたり。
感触だけのひとになるのも好きだ。どうぶつになる感じ。空間を存分に味わえた すごく贅沢なじかんだった。日常的に やりたい、感性磨く稽古 あそびとして。
たかおさんは、自分の感情のままに 好き嫌い 悲しい嬉しい 動く、ような指示をしていた。主観的にどうぶつになる、野生。私は 自分をなくそうなくそうとする(空気に入っていくかんじ)が、そういうなくし方もおもしろいなと思う。

目をカメラにする
ズームしたり、ひいたり、なめまわしてみたり、とまってみたり。そのものをどう見せたいか、自分の目をカメラにして 映像を撮る。
これもすごく楽しかった。こどもになったみたい。
被写体として 富岡さんを、私のカメラで撮る。人間は 動くから面白すぎて 私のカメラは止まってしまった。止まっちゃって 今やるにはつまらないから、断念して 止まった被写体を探した。

 

12/11

ひらく
ひらくってなんだろう、終始分からなかった。

稽古前 稽古に入る為の準備体操、これも私にとっては ひらく作業。自分のからだを整えて、感性をひらいていく。
一度、みんなで ひらく をして、感性をひらいていく ひらくは みんなでひらく の前段階、相手の見ている景色を見る(3人が1人のところ)でやっておくほうがよいように思った。

自分の感情をむき出す、ひらいていく。
それをもっとやる、やるなら おもいきり どーんと。表現するひと、表現をする なら表現をする覚悟が必要。それを忘れていた。抑圧のないからだ。
それをするため からだをつくる。だんだんだんと、教場を歩く。むき出しになっていく。
そのむき出しの状態を、表現の場にのっけることは その日結局なかったが、演じるってこういうことなんじゃないか、と思った。からだをその状態にしてあげること。もし、自分が普段 しないようなことをする役についたときも 自分でその状態をつくってあげる、準備時間が必要なら それをしてから望む。 

生活の中に表現
私は、表現する覚悟が薄れている。
今までは、苦しみの中で 表現することは なんとか私を生かせてくれるものだった。これからは、苦しいからでなく、したいから表現する。好きだから、表現の世界にいる。その変わり目。
やるなら もっと思い切りよく覚悟をもち、自分のことなど省みず、表現をしたい。
表現する自信がないのなら、学ぶ努力 鍛錬の努力が必要。
そしてもう一つ思うのは、表現をもっと生活に 日常に 近づけていくこと。覚悟をもちながらも、表現への壁をなだらかにしていくこと。
美学校にいる間に そのことについて考え、動き、少しでも違うところへ歩みを進めたい。

体質改善
自分のからだにやさしくできるようになる。少し大変でも 自分のためになることをよいしょとやってあげる。
からだを温め、からだによいものを食べ、寝る。運動をする。
笑う。我慢せず、思ったことをいう。考えすぎず、聞く 人を頼る。

 

 

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「来年に向けて 2016年の終わりに」 生西康典


2016年、演劇講座第四期の前半は多くのゲストに来て頂いて、ワークショップなどを行なってもらった。

テニスコーツのさやさんによるワークショップ『ほんとうの声で歌う』から始まり、ギタリスト/作曲家の杉本拓さんの公開授業『杉本拓 自作を語る』、映画監督の七里圭さんを招いての朝方まで続いた座談会、アクショニストの首くくり栲象さんによる(栲象さん初の!)ワークショップ『ピーナッツ』など。

どれも得難いものを与えて頂いたと思うのだが、講座の方向性を考える上で、自分にとって大きかったのは第二期の受講生だった鈴木健太くんを招いて、彼の作・演出により行なった夏期公演『ちかちかのこと』だった。と言っても、それは公演の内容についてではない。鈴木くんには公演内容について、また制作スタッフを誰に頼むかなど、制作の条件だけは伝えて全てを委ねていた(つもりだった)。

自分自身は出来るだけオブザーバーとして存在したかったからだ。しかし、ギリギリになっても鈴木くんは誰ひとり制作スタッフを集めていなかった。どうなったかというと、ぼくが制作/舞台監督/照明設計/美術などを全部兼ねることになった。そして途中からは公演に漕ぎ着けるために演出にも口を出さざる得なかった(あくまで作品の方向を定めるためにだが)。
結果、鈴木くんのつくってくれた作品はとても良いものになったし、改めて彼の非凡な才能を感じた。直前まで決まらない台本に対して、受講生たちも出演者として良く頑張ったと思う。だが、しかし、、と思ってしまったのだ。自分が梃入れしたことによって、公演にも何とか間に合ったし、良い作品にもなった。でも、この講座において、結果が良ければ、それで良いのだろうかと。そこで後半については大きく方向転換することにした。このことについては以前「第4期10月期追加募集について」でも書いた。

 

これまでは公演日が決まると、公演を焦点として、どうしても時間を逆算して制作していました。公演日が決まっているということは、どこかで時間を区切って判断をしていかねばならないからです。

今期は、公演よりも、稽古そのものに焦点を当てて進めたいと思っています。そのため、あえて全体像を先に決めることなく、断片的に1シーンづつ時間をかけて、終わりを定めることなく、共に途方に暮れながら、つくっていくつもりです。

また、後半期は数名のゲストを御呼びして、稽古に参加して頂く予定です。

 

要は、公演(ひとつの結果)を重視することよりも、つくる過程こそが大事だと思ったのだ。しかし、ある程度は予想していたものの、これは本当に果てしない旅のはじまりだった。

 

ようやく川口隆夫さんに参加して頂いた稽古のことに辿り着いた。

打ち合せのために美学校に来てもらったのは6月末のことだった。そのとき、打ち合せが終わったあとも、しばらく隆夫さんは稽古につきあってくれた。

ぼくには隆夫さんと受講生の瀧澤さんを中心とした1シーンのイメージだけはあったので、鈴木くんにも手伝ってもらいながら実際に稽古をしてみた。それは素晴らしく緊張感のあるもので、短時間でも手応えがあるものがつくれた。

隆夫さんは海外や国内での公演が目白押しでスケジュール調整が大変そうだったが、12月なら時間を取ってもらえるということで、早々と日程だけを決めさせてもらった。

だから隆夫さんには、あくまでワークショップをしてもらうなどということではなく、具体的に稽古に参加してもらうつもりだったし、それこそが受講生にとっても最上の稽古になるのではないかと思っていた。

稽古のための台本は受講生たちに書いてもらおうとしたが、なかなか進まなかった。そして最終的には、みんなが持ち寄ったイメージを元に武本さんが書いた台本から、「ト書き」として書かれた部分を隆夫さんとの稽古の台本にすることにした。台本それじたいは長過ぎたし、「ト書き」は抽象的ではあったが、ここにこそ、やろうとしている全てのことが書かれていると思われたからだ。

 

 あるいは 3 人は1人だった。同じものに触れている。
 あるいは1人は3人だった。お互いを見つめる、目を逸らす。
 あるいは3人は3人だった。それぞれが出会い、別れる。

 あるいは、それは群れ。
 わたし/わたしたちとは別の、何かによって突き動かされる事。

 外からやってきた人。
 初めて出会う人。
 そこに今までなかったものが生まれる。
 種の外。水、光。
 他者との出会いによって発芽する。
 私達が暖めたものが、外界からの刺激で発芽する。

 

しかし、一応、台本は用意出来たものの、これをどう解釈して動くかということについては、誰も分かっていなかった。だから当然動けない。

初日は台本を解釈して動いていく前段階になるようなことを隆夫さんがいろいろ考えてやってくれた。結果的にはワークショップをやっていただいたようなものだった。

二日目も、まずは、みんなの心や身体をほぐしていく必要を感じて、最初に1時間半ほど、隆夫さんがいつもしているというストレッチを教えてもらった。それから、やっと隆夫さんを交えての稽古になったのだが、やはり、まだぜんぜん一緒に稽古が出来るような段階ではなかった。

抽象的で具体的な指示が書かれている訳ではない台本では、それぞれが考え、感じて動くしかないのだが、そんなことはいきなり出来はしない。

しかし、一回目の隆夫さんとのセッションでは、やろうとしていたことは出来ていないものの、受講生の3人の関係性や、それぞれの個性が剥き出しに現れていたことに驚いた。

いまさら何を言うかというようなことかもしれないが、身体もまたひとつの「ことば」であった。ここ最近は「ことば」の通じなさについて考えていたので、尚更そのことを強く感じた。

二回目のセッションは、うわべの形を取り繕うような「ダンス」もどきになってしまっていた。隆夫さんは、それを揺さぶるような動きを働きかけてくれたが、受講生の子たちは、それに対して、受動的で保守的なことしか出来なかったと思う。それを観て、みんなとも話をして、ぼくの判断で隆夫さんを交えての稽古はそこで止めにして、後は受講生の子たちだけで話をしてもらうことにした。

隆夫さんは、二回目のセッションのあと最後に、受講生の子たちに向けて、とても感動的なスピーチをしてくれた。(ぼくの勝手な解釈かもしれないが)他者と向き合うということ、世界に対して「開く」ということ。他者/社会への無関心さ。そういう小さな個人個人の態度が、この社会の有り様と決して無関係ではないということ。彼らにはどう響いただろうか。

ぼくたちを抑圧しているものとは何か?

ひとは自分自身で動こうとしない限り、動くことは出来ない。

ぼくにとっても、とても大きい課題を隆夫さんは残してくれた。

受講生たちが問われたことは、当然、ぼくに対しても突きつけられた言葉だ。
とても大きい課題を隆夫さんは残してくれた。

さて来年はどう展開していけるだろうか。

 

 

「(川口隆夫さんとの稽古 感想として)」 冨岡葵


わたしは物語をもっている
あなたも物語をもっている
あなたの、わたしについてもつ認識は
わたしの物語とは違うかもしれないけれど
あなたの物語として
そこにあります。

壊すことも必要である、と
声がきこえます
しかしそれは壊すものではなくて
壊れるものでしょう。

信念のようなものであれば。

どういうこと? と言われても、
あなたのなかにそれがあるかどうか。

言葉の把握だけよりも、
感覚的認識で関係を結ぶこと。

ここで使っている譲歩の言葉は、
あなたとの関係で生まれました。

あなたはあなたのことばがあるの。

譲歩に目を向け、伝えること。

 

 

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▷授業日:毎週金曜日 19:30〜22:30
「演劇」は既成のイメージされているものよりも、本当はもっと可能性のあるものなんじゃないかと僕は思っています。それを確かめるためには、何と言われようとも、自分達の手で作ってみるしかありません。全ては集まった人達と出会うことから始めます。